先日日本経済新聞に「計算機に意識は宿るか?」というコラムがあった。読んでみて色々感じたので、皆様も考えて欲しい。
人工知能AIが様々な分野で発展を遂げている。本日(2021年7月2日)開催されている頭蓋底外科学会でいろいろな話題があったが、感動したのはARTASという植毛ロボットの紹介である。クリニックで自費診療でやっているらしいが、脳神経外科医のコンセプトでダビンチの会社が開発したという。ふさふさしている後頭部の毛根を前頭部の禿げた部分に植毛するというロボットである。大体そんなことができることも知らなかったのだが、後頭部の一部をバリカンで刈って、その部分にextenderという枠をくっつけると、AIがその画像情報を元にその中の毛根をその角度に合わせて、適切な間隔で切り抜いてくれるらしい。1500~1800本抜いて、今度は前頭部の植毛したいところを指示すると、その部分の画像から自毛のない部分に適当な間隔で穴を開けてくれるらしい。穴を開けた皮膚に、今度は人間が、きれいにトリミングした毛根を手で植えるということらしい。最新型はこの植えるところも、田植えの器械の様に穴をあけたと同時に植え込むこともしてくれるらしい。すごいことができる時代で、なかなかその後の経過の写真も素敵でした。またオリンパスの内視鏡は、実施医よりも鋭敏に胃がんを発見できるようになっているという。我々の領域では、エルピクセルという会社のAI未破裂脳動脈瘤診断装置は、放射線科医師よりも10%くらい多く脳動脈瘤を発見できるらしいです。
さてこれほどAIが進歩するとなると、ではAIが意志を持つこと、意識をもつことはないのか?という話になる。2001年宇宙の旅に出てくるHALのようなものである。
意識は何を持って意識や意志なのかと考えてみる。
意識は1)外界からの刺激を感知すること。視覚、聴覚、触覚、嗅覚などから中枢神経に情報が伝わること。これはすでにコンピュータやDigital社会では実現されている。”Hei Siri”の呼びかけでiPhoneは起きるわけだから、この部分は完全に市販化されている。
2)感知された情報に基づいて、判断を下すこと。これもあるアルゴリズムに則った基準でAIではすでに判断を下している。
3)判断に基づいて、行動すること。これもロボットに作動させたり、情報として伝えたりなどのことができる。Googleとかyahooで一度でも検索すると、次からはそれに関連した情報やGoodsの宣伝が山のように表示されてくる。これもAI-robotの仕業である。
では他に何があるか?
感情でしょうか?2)の判断は、アルゴリズムで決められること以外に、様々な感情に基づいて決断されることも多いだろう。脳科学の世界ではクオリアという概念があるらしい。日本語では感覚質:感覚的な意識や経験のこと、意識的・主観的に感じたり経験したりする質のことだという。この概念は心理学や脳科学の中で、歴史的にも盛んに議論の対象となっており、脳皮質脳波やガンマ帯の解析など現代の科学でわかっているのは、局所皮質内のネットワークで情報処理されて生み出されているらしい、、ということくらいである。
その感情は何に基づいているのか?内省的に考えてみる。
自分がどう感じて、どう決めているのか?
これまでの経験や記憶に基づいて、好きとか嫌い、憧憬、軽蔑、嫌悪、愛情とか、いろいろな感情が湧いてくるわけである。人の性格というのは、これらの積み重ねや親からの遺伝した感じ方などで出来上がっている。体の状況によってもこれは変化するだろう。例えばどこか痛いとき、極度にお腹が空いている時、すごく体が疲れている時など、ものに対する考え方は違うだろ。どんな美味しそうなステーキやハンバーグやうなぎでも(最近どうもハンバーグとうなぎに凝ってます)、お腹がいっぱいの時と空いている時では感じ方は違うだろう。
本当に感情とか感覚というのは、様々な要素の元に成り立っていると感じる。
でも例えば自分の感じ方をたくさんの状況に応じて、Deep learningさせると私のものの考え方を、ほぼコンピュータの中に自分を存在させることが可能なのではないかと考えてしまう。先日、アバターに会社の経営を任せている若手の社長の話がテレビで紹介されていた。ほぼ自分が考えることと同じ判断をしてくれるのでと言っていた。これは単に会社の事項に関することだけだから、かなりワンパターンなのかもしれないが、これを発展させればほとんどの日常生活まで、適応が可能になるだろう。2014年にはトランセンデンスというジョニーディップが主役の映画がありました。科学者が自分の意識を人工知能の中に埋め込み、死後様々なものを欲するようになり世界を支配・破壊する力を持ってしまうというドラマです。
それはSFですが、実際に、機械の中で、永遠の命・意識を持つことも可能になるかもしれない。
こんなことになると自分がどちらか アバター(コンピュータに移した意識)が自分か、肉体をもつ自分が自分かわからなくなってしまうかもしれませんが、次の100年後の世界や家族の行末を自分の意識で見てみたいと思うのは自分だけでしょうか? いや日本人は“終い”があることにものの哀れを感じとることのできる人種なので、そんなことは望まないでしょうか。