森田明夫のやってきたこと 1982〜2023

日本医科大学退任のご挨拶

日本医科大学 脳神経外科 

森田明夫


この度日本医科大学を退任するにあたり一度自分の人生を振り返って整理しておこうと反省も含めて色々な先生にお言葉をいただき、私の批評もしてもらおうと思っておりましたが、やはり退職の文章を依頼されると私にはふさわしからぬ優しい褒め言葉が多く、企画倒れになっているようです。

色々お言葉や記念の写真等をいただけた先生方、本当にありがとうございました。

自分でもこれまでのことを今一度振り返ってみようと思います。

私の医師としての人生を振り返ると、1982年に東京大学を卒業して脳神経外科医を志し、東京大学やその関連施設で訓練を受けた時期(10年)。米国で研修(途中寺岡記念病院にビザの関連で戻りましたが)していた時期(ほぼ10年)と、東京大学に戻らせていただき、その後NTT関東病院、日本医科大学で過ごした時期(25年)のに大きく3つに分けられると思います。

私は学生時代は大いに遊び呆けていて、授業料を滞納して両親にひどく怒られたり、毎日午後になってから通学し大学の構内には入らず、門で友人と落ち合って飲みに行ったりという生活をしており、まともな勉強をしていなかったというのが事実です。大学時代の授業?の記憶といえば、養老先生が解剖終わった後に学生を会議室によんでビールだかをご馳走してくれ、そこで先生がカスバの女かなんかを歌っておられたという記憶くらいです。大学時代の最も良いことは踏朱会という絵画のクラブで妻を見そめたことくらいでしょうか。

東大をなんとか卒業して、脳神経外科に入局した時には、「自分にはなんでもできる」と息巻き、本当に生意気で、自分勝手でした。2年目に広島の寺岡記念病院にお世話になった時には、100名の受け持ち患者を持ちながらも9時〜5時生活をenjoyし、夕方は広島の美味しい海の幸・山の幸を食べ飲み歩き、好きなバーボンウイスキーのワイルドターキーを飲み、あだ名は「わがまま森田」と呼ばれてました。給与はその頃寺岡記念病院は卒後1〜2年目の医師でも破格でしたが、次への移動時に使い果たして貯金がないと言うのは私くらいだったと思います。そんなうわついた自分ではどうしても患者管理に漏れが出て、防げるのに症状が悪化してしまった患者さんが出てしまいました。寺岡 暉先生に個室に呼び出され「患者さんの悪化の信号を見落としては行けない。匂いや患者さんの雰囲気、第六感で嗅ぎ分けなさい!しっかり患者を見なさい!」と叱れました。普段優しくおおらかな寺岡先生から叱られたのですから、かなりショックでしたが、今思えばそれが患者をとことん診ることの重要さとデータや患者の仕草、活動など多くの情報から危険を察知する能力の大事さを知った時でした。その後、福島孝徳先生のもとで3年近く修行させていただきましたが、その際も本当に自分勝手。症例の分配係をしていて、自分に良いと思うような(好きな)症例ばかりを受けもちになっていたと思います。今思えば、本当に恥ずかしく嫌な奴の典型でした。そのような中でも、福島先生は私に一目おいてくださり(と思います)、「金先生に続いてMayoに行け!」と毎日念仏のようにお聞きし、いつしかMayoに行くのは自分の意志だ!と思うようになりました。洗脳とは恐ろしいものです。基礎医学も英語も全くだめで、なんとか今で言う専門医試験準備時間ではないですが、ECFMG勉強時間を1ヶ月くらいもらって猛勉強してECFMGの学問編は通り、その後は英語PENDINGとなりました。ECFMGの勉強は同級の植木敬介先生がすでにStep1を通られていたので、どうやって勉強したのか?と伺ったら「英語の本では頭に入らないので、大学の時の日本語の教科書で勉強したよ。戸田の細菌学とか真島の生理学とか。」でした。やはり浪花節!日本人はなかなか英語の教科書をかっこよく読もうとしても最初の10pで挫折するものです。そういえば、私 大学時代BSL(今のCC)では優秀な小室一成君(現東京大学循環器内科教授)や中釜斉君(現国立がんセンター理事長)と元厚生技官で今は吉祥寺で医院と居酒屋を開業している長屋憲君達と連んでいたのですが(なぜかお酒の趣味が合った。、、、今もよく飲んでます)、ちょっと3人に気負って原書版の10cmも厚さのあるHarrison内科書をいつも脇に抱えて(鞄に入れず剥き出しで)持っていました。医学生っぽいなと言う格好つけです(つくづく嫌な奴です)。 実家のある埼玉の岩槻から電車に揺られて手で持ってくるので、確かに表紙はボロボロで読み尽くしているように見えますが、中身は数ページ読んだだろうか?だから英語の試験なんか受かるわけない。のですが、植木先生の『日本語教科書勉強術』は大変役立ちました。そんなこんなで、その後、富士脳研、都立神経病院と東大の中でも指折りのエリート研修施設で学ばせていただいた後に、Mayoにいけることになりました。富士脳研でもあの脳神経外科の父 佐野圭司先生の聴神経腫瘍の手術に助手をさせていただく機会があったのに、危険そうなことをされようとした(と思った)ので腕を持って(抑えて)お止めしたら、「君、何をやっているんだね!」と言われるくらい。そんな『傍若無人』でした。周りの瀬川先生や有竹先生の心臓が破裂しそうだったに違いない。そんなこんなの、超わがままやりたい放題の人間でした。

さて、米国に行くチャンスをいただきましたが、向こうでは話は全く変わります。私はMayo脳外科史上で並ぶもののいない優秀な科学者と名高い金彪先生(あの頃すでにMD-PhDコースに属し、米国コングレス等の学会でも賞を受賞)とは行かないまでも、なんとか一兵卒として5年間くらいは米国の臨床経験を積みたい!と願っていました。しかし英語が全く通じません。当時ChairmanであったSundt先生の前に出たら、世の中でこんなに緊張することがあるのかと思い「背筋が、ガッチガチ」になり、また先生の南部訛りの英語が全く理解できず、YES,, YES,,,って口ごもりすることしかできなかったのです。ものの2分位でした。 最初にChadという意地の悪いChief resident(金髪でハリーポッターのドラコ・マルフォイそっくり!)のassistantになり、全く言葉のわからないやつを使うのだから、大変だったとは思いますが、陰で「あいつは白痴だ!(idiot)」と言われ、1年きっかりでやめさせるようにとSundt先生に進言していたそうです。そこを救ってくださったのは金先生です。「Akioは英語が話せるようになれば誰よりも役に立つはずだ」と助言し、1年任期が2年となり、3年位して少し英語が喋れるようになると、「じゃあ正式のResidentになって、終わったらMayoにAttending Neurosurgeonとして残るか?」と言うことをSundt先生が言ってくださった。金先生には足を向けて寝られないとはこのことです。首の皮一枚でつながった人生でした。本当に最初の2年間超、全く自分でも役立たずと感じ、時間の過ぎるのがなんと長いことか。嫌な苦しい時間ってこんなに長いのだと悟りました。踏みつけられ粉々になった自尊心と誇りと自信をなんとか少しずつ再構築して溶けた角砂糖とか壊れた砂の城をもう一度作り直す時間でした。3年目にはChief residentの一人がSundt先生の助手予定だったのですが、急にGeorge Town大学のスタッフで移動することになり、天運でChief resident格に昇進していた私にSundt先生の1st assistantをする機会が訪れました。そのAssistantをさせていただいた3ヶ月間には巨大動脈瘤やCEAなど多くの症例の助手をすることができ、開頭例では、動脈瘤をクリクリに出して、バイパスやクリップをできることまで責任持ってさせていただき、(Sundt先生かなりお具合が悪くなられており、Akioがいてくれて助かったと言われました)Sundt先生の威厳のある手術、息遣いをすぐ隣で感じて過ごし、手術のない日はクリニックでのAssistantとして先生の患者さんへの話し方、思いやり、そんなものを直に見聞きすることができました。今でもその時の情景をよく思い出します。本当にあの3ヶ月(Quarter 1/4と言う期間でタームが変わります)は私の人生の中で最高の時間であり、至福の時間でした。Sundt先生は別項にも書きましたが、私に動脈瘤への興味と宿題を残してくださいました。先生は私が先生と出会う前の1985年にMultiple Myelomaに罹患し予後半年と言われていたそうです。私が緊張してお会いしたのが1989年4月、Assistantを務めたのが1992年1〜3月でした。1st assistantをしている真冬の朝St. Mary病院で入院患者の回診を終え、マイクロバスでMayoクリニック(外来)に向かいます。その途中「Akio。私がなんで病気になったのかわかるか?」と聞かれたのです。もちろん私はわかりませんとお答えしましたが、Sundt先生曰く「私は10年前、女の子の動脈瘤の手術で失敗して、亡くしてしまったんだ。その時の罪が、私を病気にして、私にこんな経験をさせているんだ。」と。先生の動脈瘤手術数は数千、その中のたった1例の失敗は自分の命と等価。と言う潔さ・けじめ、そして心構えを見せていただいた気持ちでした。

今でも、私は特に困難な手術前にはお祈りをするのですが、私はクリスチャンでも熱心な仏教徒でも神道でもありません。手術の安全・無事、成功をお祈りするのはSundt先生です。

1992年の9月にSundt先生は闘病の末亡くなられました。人の死と言うのはこんなに悲しいんだ。と知りました。

その後は、結局私の英語力が足りずMayoに残していただくことはできず、Sekhar先生のもとで指導を受け、スタッフとさせていただいていましたが、Sekhar先生が大学を退かれるタイミングで、桐野高明教授からお誘いをいただき東京大学へ戻していただきました。臨床のできるスタッフを探していらっしゃるとのことでした。

最後の25年の東京大学、NTT関東病院、そして日本医科大学での状況は、寄稿していただいた先生方の(少し盛られすぎてはいますが)書かれている内容が活動のほとんどですが、少しepisodeをお話しします。

東京大学は臨床面での東大の大巨頭であられた佐々木富男先生が群馬大学(その後九州大学)に移られ、臨床の目玉が必要とされていました。そこで、よくわからないが何か出来そうな私に声がかけられた訳ですが、開けてびっくり。私は福島流からすっかり米国流に染まってしまっており、米国人は血が止まりやすく、いい加減な止血でも手術が進むが、日本人はサンマやイワシをよく食べているせいか血がダラダラ出る。また米国人は頭に斧が刺さっても、脚を虎に噛まれても走って逃げれる位打たれ強さを持ち合わせているが、日本人は数cmもない小さい傷でもしばらく起き上がれないしぐったりしてしまう。この差のせいだけではないが、当初の私は失敗ばかり。桐野教授もかなりヤキモキされたと、また周りの同僚は、「何だこいつ!」と思っておられたと思う。また私の『口の軽率さ』が災いもした。多くの先生の気持ちを私の心無いことばで逆撫でし、バッシングしていたようである。同僚から、「さっきのひどかったぞ」言われ、「え、、褒めたつもりの言葉なのに。。。」 って全くなってない訳です。こんなことの繰り返し。人との関係もうまくいかず、暗い奴とかレッテル貼られ。また井戸の中に放り込まれそうになりました。でもそれでも桐野先生はじっと我慢してくださり、またおまけに私の行く末をご案じになられて、「臨床研究をしっかりやりなさい」。とUCAS Japanの元となる脳動脈瘤の調査研究の事務局を割り当てていただいた。ただしNew EnglandかLancetに掲載と言うとんでもない条件つきでありましたが。その研究の成り行きは色々他でも書かせていただいているので省きますが、大事なのは、私が論文を仕上げずノロノロと、NTTでの臨床生活を楽しんでいた時に、当時NTTの断然たる院長であられた落合慈之先生から、「この間 桐野(先生)にあったら、森田がUCAS書かないから誰か他のやつに書かせる って言っていたぞ!」と言われたことです。人のやる気とか根性とかを出させるのが、落合先生ほど上手い先生はいらっしゃらないと思いますが、その切羽詰まった突き放すような言い方。多分同じことを桐野先生からおっしゃられても、自分はそれほど深刻にはとらなかったかもしれません。そこから文字通り死に物狂いで執筆し、校正し、半年くらいで出版許諾まで漕ぎ着けました。みなさんにも喜んでいただきましたが、落合先生にNEJMの別刷りを2012年6月に届けた時に、本当に喜んでいただきました。多分(おそらく確実に)あの落合先生の言葉がなければ、私はUCASを仕上げず、日本医科大学にもくるチャンスはなかったと思います。臨床面でも、聴神経腫瘍の手術を東大で20例くらいした時の症例の手術ビデオをカンファで見て、桐野先生から、「一皮剥けたね」と言われたのは至上の喜びでした。

NTT東日本関東病院では、落合先生には院長として、私が本当に色々な迷惑をかけ、差配をしていただきました。術中MRIの設置などその最たる例です。赴任時「石の上にも3年って知ってるか?教授目指しているのかもしれないが、まとまったことをするには3年以上必要だ!」と言われました。術中MRIの開発などを手掛けていたのに、日本医大に移ると言う。NTT関東病院には6年間在籍させていただいたのですが、本当に迷惑のかけっぱなしだったのです。お詫びのしようもありません。でもNTTでは毎年多くの専攻医も加わってくれ今も力になってくれる多くの同僚、後輩に出会うこともできました。

そしてこの10年は日本医科大学の脳神経外科にて多くの先生たちと働かせていただきました。先代の寺本 明先生には、人事や学会のことなどいろいろな示唆に富む情報を教授していただきました。本当に寺本先生は全てのことに準備周到で、熟考されて物事を進められます。行き当たりばったりな自分では、教えをたくさん受けましたが残念ながら、その10分の1も叶えられていないように思います。本当に出来の悪い後継者で申し訳なく思います。

毎年全教室員と個別面談をさせていただいていたのですが、日本医科大学に来て思ったのは、日本医科大学に所属する先生たちが皆さん非常に性格が良くて、素直であること。です。これらの先生方と一緒に臨床と研究、そして教育を担当できたのは大変幸せでした。

ただ、私の力不足が主な原因ですが、近隣の医科大学や本学の神経内科のように巨大な勢力、そして輝かしい研究成果をドカンとあげることはできませんでした。学術に関しては、私から言い出した研究もありますが、村井保夫、金景成准教授は自ら優れた研究をし、後輩の指導をしてくれました。吉田大蔵先生や山口文雄先生も基礎研究に頑張ってくださいました。論文に関しては、私は一応自分の中で「1週間以内に著者に返す」を決まりとして、しっかりした科学論文を書くことができる人たちを増やすことに尽力しました。毎年20件以上の英語原著論文を本教室から出版することができました。臨床面では、小林士郎先生、野手洋治先生、水成隆之先生、喜多村孝幸先生、足立好司先生、山口文雄先生、玉置智規先生、田原重志准教授や上記村井先生、金先生らが独自の臨床領域でレベルの高い日本医大の脳神経外科医療を4つの大学付属病院で推進してくれました。また日本医大やNTT東日本関東病院では看護師、リハビリの技師さんや医療スタッフの技量がとても高くまたさ優しく、高度な医療支えてくれました。また同門の先生方、関連施設の先生方には、患者様の紹介、リハビリ等大変お世話になりました。また学術集会の開催においても教室の先生や関連施設の先生方の多大な心理的・事務的・経済的支援をいただきました。

臨床技術の訓練として10年目以下の若手の訓練としてはマイクロ手術選手権(通称5min選手権)を根付かせることができました。先日コロナ明けで久しぶりに集合開催できたのですが、格段に初期の先生方の時と比べてレベルが向上しています。人工血管を切って縫うという単純な操作ですが、実際には血管障害だけではなく腫瘍や脊髄、その他を含めた手術手技でのマイクロ技術に共通のSkill育成に役立ちます。いかに手技を磨くか、とそしていかに手の震え(振戦)を自己抑制するか、技と心の修練が大事だと思っています。幸い現在武蔵小杉病院の石坂栄太郎先生は2020年の第47回日本マイクロサージェリー学会のスーパーマイクロサージェリー血管吻合コンテストで形成外科の上級者と争って優勝、築山敦君はCNTT2020の全国拡大5min選手権で優勝し、本学の若手の技術力を示してくれました。臨床の知識面での訓練は寺本教授の代から1000回を超える開催を数える日本医科大学4病院および関連施設の合同カンファランスを毎週火曜日に開催しています。コロナ禍でFace to Faceの会の開催は難しくなりましたが、Web meetingの普及によって遠隔の施設でも参加可能(海外も)となってより充実してきていると思います。

また私の言いたいことを部長のブログという形で毎月医局通信で発信しています。最初は何気なく引き受けた医局通信のエッセーみたいなものですが、なんとなく結局在任中1回も外すことなく最終回を残すのみとなりました。日々あったことや、NIKKEIの記事、ラジオ、読んだ本、昨日作った料理などの話です。ときにただの挨拶、学会報告、上記のようなわがままな私からの「こうした方が良いのでは」などというおこがましい文章などもありました。いくつか特にPVの高かったものを紹介しておきます。谷口君の記事と働き方改革についての考え、福島先生の記事と料理は人気が高かったようです。

2019年からは私には分不相応な、大学院医学研究科長という役職をいただき、大学の大学院教育の管理・運営を任されることになりました。あまりお役にはたてなかったと思いますが、研究生の制度や大学院講義のe-learning化を充実させていただきました。

ただ私が当初思い描いた日本医科大学の10年間でしたいことのほとんどは、何も完遂できずに過ぎてしまったというのが現状です。
やりたかったのは以下のようなことです。

  1. 視覚の再建手術の研究と開発 合わせて聴覚インプラントの日本承認
  2. 脳動脈瘤研究の拡充 特に腸内細菌・口腔内細菌と破裂の関連の解明
  3. ロボット手術の実用化
  4. 手術手技の科学的検証法の確立
  5. 脳神経外科失敗学の確立 データベース化
  6. 日本医大(森田流) 手術流儀書の発行

対象を絞りきれておらず、興味が多すぎ、時間も足りませんでした。これらの科学的なこと、医学的なことは、ぜひ今後の日本医科大学や他学の若手の先生方の中で一人でも一つでも興味を持ってもらって実現に向けて頑張ってくださることを願っていますし、私も残りの人生でも、できる限りの尽力をしたいと思っています。
そのほかにも、行きたい国や作りたい料理、作ってみたい陶器、釣りがうまくなりたい、、、、など趣味に関しても尽きませんが、こちらはこれから専念するかもしれません。
あとはどこかの田舎で自分の作った焼き物の器で自らの料理を出して皆様を喜ばせることができれば、我が人生悔いなしです。
Old soldiers just fade away!です。

本当に皆様これまで、このわがままでいい加減な自分を見守り、指導し、助けていただきありがとうございました。
特に最後の10年間の秘書をつとめていただいた相澤朋美さん。東大の時に大変お世話になった上村(佐藤)直子さん、山本美佳さん。わがまま、で部屋が汚くて、仕事をお尻に火をつけないと始めない者を、見捨てずよく助けていただきました。ありがとうございました。
またこんな自分勝手な私に、富士宮市や、ミネソタやワシントンや広島、五反田など何度もの大引越しに黙ってついてきてくれた妻・桂子や家族の支えがなければ、この40年はやり遂げられなかったと思います。ありがとう。何とか老後も楽しく一緒に暮らせるようさらに料理も腕を磨きます。

皆様これからもぜひ楽しくご一緒しましょう。またもう少し迷惑をかけさせてください。

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