また同僚を失った。
都立神経病院の部長をしていた谷口真先生である。彼は私の大学の1年後輩で、一度も一緒の施設ではたらいたことはないが、色々な機会に一緒に飲んだり、食べたり、話あったりしたものである。東大でATの手術を1998年に講師になって初めてするときにモニタリングをしてもらい(あのときすでに神経病院に出向していたと思う)、色々脇から口を出してもらって佐々木富男先生流の手術を教えてもらった。そこは普通は触らないとか、こっちからこうするとか、、いちいち手順を話してくれ、その理由を語ってくれた。本当によく喋る。口で手術をするとはよく言ったものである。おかげで聴神経腫瘍の佐々木先生と谷口先生の多数の経験値を学ぶことができた。
時は遡り、若い頃の留学をした30代の頃である。東大の医局では大体専門医を取得前後に留学する機会を与えられたり、自分で見つけてきたりで大体世代を共にするものが、海外にいることが多かった。私がアメリカに渡ったのが1989年で、その頃彼はドイツでモニタリングの研究をしていた。ラボに日本人はおらず、様々な言語が飛び交う中、ドイツ語が非常に堪能になったという。彼はのちにそこで5連発刺激による頭蓋刺激でのMEP手技を開発することになる。本当に色々なものの蘊蓄が深くて、言語もその語源から勉強し、nativeよりも詳しいので時々現地の人にも舌を巻かれていたという。そういうことを自慢するでもなくボツボツと話をする。飲んでいるとまあ言葉に衣を着せないで喋るので、本当に嫌な気持ちになることも多かった。こういう自分は自尊心の塊みたいなところもあった(ある?)ので鼻高がへしおられたとことも何度もある。でも不思議とまた一緒に飲みたくなる。言われたことに腹を立てるのは、それは見当違いではなく当たっているからである。それを元に修正できたこともあれば、修正できなかったこともある。当時私はミネソタの田舎町ロチェスターの3LDKのアパートに暮らしていたが、そこにドイツから彼が我が家を訪ねてくれて、ちょうど帰国する予定になっていた現在独協の金先生もお呼びして何らかの食事会をしたのだと思う。詳しい話の内容は覚えていないが、世界の脳神経外科の現状、日本の脳神経外科のあるべき姿を金彪先生と谷口先生が我ら夫婦の理解を超える次元で話しており、時に論争になり、時に合意し、数時間熱烈なdiscussionがあった。何か米国の大統領とか日本の政治の話にも内容が及んだようにも思う。後にも先にも日本人同士の熱いDiscussionというのを聞いたのはこれが最初で最後である。金先生もものすごい雄弁なのだが(こちらは私のスキー部の先輩で、いつも合宿では私は揉みクチャに潰されていた)、その3年年下の谷口君は引けを取らない所か、さらに上をゆく、物事の根本に根ざしたあるべき姿を論じていた。まあ聞いているこちらは疲れた。ご存知と思うが、その2名は日本の脊髄外科の行方を担う2人組にその後なっている。
彼が話すことを一度は日本医大で話してもらおうと思っていたが、それは叶わなくなってしまった。
そういう彼が留学から帰国して専門とすることになったのが、機能外科と脊椎脊髄外科である。その医療は全て理詰めで話すことのできる内容で、彼の話ときたら、まず爬虫類とか発生学の話に始まり、なぜ人間が二足歩行で手と足が互い違いに動くか?元々の脊柱のあり方から、果てはジストニアの成り立ち、パーキンソンの意味などを、まあ深く深く話してくれる。彼の話を聞くと、ものすごく物事を理解したように思えてくる。 というのは、当たり前を当たり前とせず、全てに理由づけがあって、その根本に戻るからなのかと思う。
また世間の流行に染まっているようで、独自の路線を進む。いろいろ流行りの手術をするよりも、昔からのroot avulsion後のphantom painの治療法であるDREZtomyを改善して世界最良の治療成果を生み出したり、日本初のpsychosurgeryの再開を目指していたり、それを目指していろいろな戦略をたてたり。などをした。先ほど述べたMEPの開発もその1つである。真に新しいものを生み出すためには、物事の奥の奥の歴史や源流にたどり着いて、そこから理論に基づいて物事を一歩一歩進めることが大事であることを身をもって示してくれていたわけである。
そんな彼の薫陶を受けるべく私がNTTにいる頃には脊椎と機能外科の研修という意味でNTTの研修医を必ず1名を半年から1年(ほとんどが1年いたと思う)ローテーションさせていた。という自分も米国に留学前はこの病院で1年半ほど研修しており(その時は石島部長、高橋、清水、鈴木医長であった)、この病院の持つ非常にニッチな疾患群の経験が自分が米国でも物怖じしない自信をつけさせてくれた。日本医大の関連でも頑張ってくれている野崎先生はじめ、慈恵に行った西村君や東大の医科研にいる伊藤君などは彼にお世話になった被インパクト群である。皆それぞれの将来が楽しみである。日本医大に私がきてからは日本医大の中だけでもいろいろの研修ができるので、彼の元に送るということを考えなかったのだが、改めて、今いる優秀な若手を彼のもとで少し医療を見、いやそれこそ「語り」を念仏のように聞いているだけでためになったのではないかと後悔している。
彼が亡くなってから、お葬式もこのコロナ騒ぎでまともにできなかったので、彼のもとで世話になった諸君が谷口真先生の追悼サイトというのを立ち上げて、それに自由にいろいろ思いを書いたり写真を載っけたりしている。本当にかれの真面目だか不真面目だかわからない、冗談だか真実だか訳のわからない言葉に楽しく翻弄されていた彼のもとでの研修者の経験がよくわかる。私も彼の言葉には一喜一憂、苦言を聞いて悔しがったり、楽しかったりであった。
彼と私とがんセンターの成田先生と3名を東大同門デブ(団子)3兄弟と呼ばれていたのだが、彼はここ10年くらいで群を抜いて拡大していった。それでも自転車には凝っていて、よろこび組と称して彼の取り巻きの比較的自転車に乗れるくらいの若手のお嬢さん(お姉さん)たちを連れてサイクリングツアーに定期的に行っては、その消費したカロリーを途中のバーベキュー、帰りのビール(そちらもスケジュールにしっかり組まれている)で補う(補うな、、!)というのを常にしていたらしい。バーベキューはメニューまで絵と手書きで材料の説明まで入っているというから、手が混んでいる。まあ健康に気遣っているのか、ただ人生を楽しんでいるだけなのかわからない面でもある。
彼は昨年後半から、太り過ぎと脂肪肝から肝硬変になり、そして夏頃から腹部膨満感があったらしい。細くなった便に血が混じるようになり9月中旬に検査、Stage4の大腸癌が診断され、治療のための入院の日に電話をもらった。しかし肝硬変のため、化学療法ができず、、緩和ケアで意識がないうちに診断後2週間という短い時間で亡くなってしまった。最期の日にお見舞いに行ったのだが、とうとう最後の「減らず口」を聞くことができなかった。もう一言、自分への目の覚めるような『苦言』が欲しかった。
彼のように、物事の真実を語る「言葉」を出せる人に出会えたことを幸せに思っている。医療でも、科学でも、学会活動、社会活動でも、人との関わりでも、友人や結婚など、当たり前を当たり前とせず、原点に立ち戻ってみること。そこから見えてくることを紐解く地道な努力が楽しくできる力をつけたいものである。
以下に彼が書いた脊髄外科に掲載された随筆を紹介する。彼は本当に遅筆で、なかなか文章をまとめてくれないのでが、数少ないが、彼の考え方の一端が覗けると思う。