森田明夫のやってきたこと 1982〜2023

森田明夫君の退官に添えて

仙台東脳神経外科病院

波出石 弘先生

森田明夫君と知り合ったのはいつだっただろうか。大学を同年卒業し、脳神経外科専門医を取得した頃はまだ知り合っていない。彼がアメリカ留学から帰国した頃、日本の脳神経外科は「頭蓋底一色」で、その頃から彼の名前を学会で知るようになったと思う。そして57会(昭和57年度卒業者の集い)での出会いから親しくお付き合いさせていただいている。彼は「ニコニコ度」の高い男で私にとっては常に「Friendly and helpful」、ありがたい存在である。

2006年の冬、私がいた秋田は豪雪にみまわれ、雪かきにホトホト参ってしまった妻が突然、姉と息子のいる東京に出ると言い出した。慌てた私が頼ったのが、若いころから目をかけていただいていた帝京大学の田村晃先生である。秋田脳研での研究に少し限界を感じていたことも事実で、新しい環境で仕事に取り組みたかった。富士脳研を始め色々な施設を紹介していただいたが、正直決めかねていた時、サンフランシスコでのAANSで森田明夫君と出会うこととなる。彼もいろいろな事情がありNTT東日本関東病院へ異動が決まっていたが、私のことを親身になって考えてくれ、亀田総合病院を紹介してくれた。その後亀田総合病院は日本医科大学脳神経外科のプログラムに参加することができ、井手口君や築山君の派遣も考慮していただいた。感謝しかない。

森田明夫君の行く道が気になる。花や野菜、魚には「走り、盛り、名残り」がある。脳外科医もそうだと思うが彼はその各スパンが長いような気がする。まだまだ頑張ってほしいが、とりあえずご苦労様でした。

写真:
崖っぷち(これまでも、これからも)
ドン・エンガス、アラン諸島、アイルランド