森田明夫のやってきたこと 1982〜2023

長いご縁

宇都宮脳脊髄センター・シンフォニー病院代表

金彪先生

森田明夫先生とは1976年ころから50年のご縁です。まず学生時代には鉄門スキー部の仲間でした。わたくしの2年後輩でしたが、スロープでの練習のあとに整理体操を輪になってした光景とか、合宿の部屋で当時の流行のディスコ音楽にあわせてかっこよく踊っていた姿などが、脳裏に思い起こされます。スマートなカッコいい学生でした。

卒業後は、福島孝徳先生のご推挙でMayoのレジデントとして、わたくしの留学滞在の最後のころに着任しました。今はWORLD FEDERATION OF NEUROSURGICAL SOCIETIES (WFNS)の役員として活躍するなど、日本脳神経外科学会のなかでも国際派の代表格でありますが、思い起こすと、わたくしが6年間ずっとライヴァル(というより天敵のような関係)であったもう一人のチーフレジデント(銀髪碧眼)の下に配属され、当初は少々コミュニケイションで苦労されていました。チェアマンのSundt先生にわたくしのもとに配属しなおすように頼んだこともありました。
私自身は、米国神経外科学会の専門医取得の(board eligibleである)枠の外で採用されたレジデントである旨の手紙を毎年受け取っていました。Sundt先生に変更をお願いするたびに「アジアに帰れ」と一蹴されておりましたが、森田先生は、たしか2年くらい訓練されたのちに、正式にboard eligibleの枠に編入されたのは、さすがの能力と努力が認められた証でしょう。当時から将来展望もしっかり持っていて定位放射線治療や腫瘍の分子生物学的研究にも関心を持っていることに感心しましたし、Mayoの訓練を終えた後には、ワシントンDCにおいてSekhar教授のもとで数年間本格的に頭蓋底外科の研鑽を積まれました。東大に戻られてからの活躍ぶり、また動脈瘤の破裂率のNEJM論文など、よく知られているとおりです。
2010年代の後半にはともに脳神経外科学会の理事としてもお付き合いしました。学術総会の会長候補として立候補されたときには、森田先生らしい国際的で将来展望のある素晴らしい構想を展開されました。わたくしの学会キャリアで最大の重要な応援ができればと考えて、理事会・会長選出委員会で論陣を張りましたが、実現できなかったことは今も残念であります。 しかしこれからの道においても長く、何より脳神経外科医として、さらに指導者、管理者として活躍されることでしょう。
これからもまた長くお付き合いいただけることを念じております。