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続・谷崎潤一郎「細雪」とオキシトシン

続・谷崎潤一郎「細雪」とオキシトシン

                                (室月 淳  2012年9月12日)

これは2012年8月22日に書いてアップした谷崎潤一郎「細雪」とオキシトシンの続編となります.

 陣痛促進剤としての「脳下垂体後葉製剤」

谷崎潤一郎「細雪」とオキシトシンでは,四姉妹の末の妹である妙子の出産がたいへんな難産になり,このままでは母体の命があぶないということで,姉が必死に頼み込んでドイツ製の陣痛誘発剤を入手して無事に分娩にいたったというエピソードを紹介しました.そして「産科医療の歴史を振り返ると,陣痛促進剤が分娩の安全化に果たした役割というのは本当に大きい」と結論づけました.

その文章を読んだ何人かの産婦人科の先生方よりメールをいただき,オキシトシンが人工的に合成されたのは戦後であるから,「細雪」で使用された陣痛促進剤はオキシトシンではないのではないかというご指摘をいただきました.そして陣痛促進剤の候補として,麦角アルカロイド系の陣痛誘発剤,植物アルカイド由来のスパルテイン,あるいはキニーネといった薬をあげられました.確かに小説文中には「陣痛促進剤」とあるだけで,オキシトシンもふくめて具体的な薬剤名はいっさいでてきません.

わたし自身もこれはとてもおもしろいテーマと思い,先日,医学図書館にこもって当時の文献をさがして調べてみました.その結果わかった「谷崎潤一郎「細雪」で使われた陣痛促進剤はオキシトシンか?」の答えはイエスでもあり,ノーでもあることがわかりました.すなわちその「陣痛促進剤」はオキシトシンそのものではなく,オキシトシンを産生している脳下垂体後葉組織からの抽出物であることが推測されました.

下垂体後葉は子宮収縮や乳汁射出作用のあるオキシトシンのほか,抗利尿および血圧上昇作用のあるバゾプレッシンなどを産生分泌する組織です.当時はオキシトシンのみを精製する技術が発展途上であり,特に陣痛促進剤を国内で生産しているメーカーには普及していなかったことが予想されます.すなわち当時の「陣痛促進剤はオキシトシンそのものというよりは,バゾプレッシンなどの不純物を含んだ組織抽出物だったようです.

「細雪」の該当シーンの舞台設定は昭和16年,日米開戦の直前の時期にあたります.今回参照とした論文は,松浦桂秋「陣痛微弱に試みたる大量「アトニン」注射」(文献1,昭和13年),大野博「脳下垂体後葉ホルモンによりて誘発さられたる子癇例」(文献2,昭和14年),和氣正一「脳下垂体後葉製剤コントラミンの臨床実験」(文献3,昭和17年)のみっつとなります.

昭和13年に発表された文献1の記載には,「1911年Hofbauer氏は同剤(脳下垂体後葉製剤−筆者注)に陣痛促進作用のあるのを発見して以来幾多の実験は同製品の陣痛促進剤として,産科医には無くはならぬものとなつた事は衆知の所である」とあり,「脳下垂後葉製剤」すなわち哺乳類の脳下垂体後葉からの抽出物を陣痛誘発剤として頻用されていたことがうかがわれます.

陣痛促進のための下垂体後葉抽出物製剤は世界各国でつくられ,「例へば「ピツイトリン」,「ピツイタリー」,「ピツグラシン」,「ピツグランドール」,「ヒボフイジン」,「チモフイジン」,「プレマトニン」,「ヒンテリン」,「アトニン」等の如く市販に供されて居る」(文献1)とあります.詳細は不明ですがこのほとんどは輸入製剤と考えられます.ただしこのなかの最後の「アトニン」だけは,今日にいたるまでオキシトシン製剤の商品名として使われている国産品と考えられます.

実際に「小生新潟医大産婦人科教室に奉職中,及当病院(秋田県公立横手病院−筆者注)赴任以来,武田製「アトニン」を愛用し来たれり」(文献1)とあります.周知のとおり,現在われわれが使っているオキシトシン製剤「アトニン」はあすか製薬の製品ですが,wikipediaによるとあすか製薬は武田薬品の系列の子会社のようです.戦前からの連綿と続く由緒ある薬品名として感慨深いものがあります.

 脳下垂体後葉製剤の副作用と国産品

しかしこの陣痛促進剤としての下垂体後葉抽出物製剤はバゾプレッシンとの混合物です.オキシトシンの精製は1928年のKammらの報告(文献2)で初めて報告されました.小説「細雪」のなかでは以下のような会話があります.「院長先生の話では陣痛微弱と云うことで,促進剤の注射もしてくれたのではあるけれども,昨今は独逸製の良い薬が払底しているとかで,国産品を用いるせいか,あまり利き目が現れない」.すなわち精製技術の進んだドイツ製のオキシトシンは効果も高く,一方,国産品は純度が低いため,小説のなかに描写されているように副作用の嘔吐やけいれんに苦しめられたのではないかと想像できます.

文献3「脳下垂体後葉ホルモンによりて誘発せられたる子癇例」では,「脳下垂体後葉ホルモン」が血圧上昇作用があり,ときに子癇を誘発することを報告しています.「然りと雖も後葉ホルモンは同時に血管に作用して之を収縮せしむる作用あり且尿利に対しては複雑なる作用ありて利尿作用を抑制する性質あり」(文献3).バゾプレッシンの作用を的確に見ぬいている眼力に脱帽いたします.すなわち脳下垂体後葉製剤は「妊娠腎を合併する妊婦又は高血圧を有する妊婦には心して使用すべき者なり」(文献3)となります.

小説「細雪」では,姉の幸子は院長室へ駈け込んで,「先生,どうしても独逸の陣痛促進剤が手に入りません,……どんなに値段が高うても構いませんから神戸じゅうを捜してください,……何処かに誰か持っている人は」と,「わざと甲高い声を出して半狂乱のように云い,人の好い院長を泣き落すことに成功」します.そして病院が秘蔵していたドイツ製の陣痛促進剤を妹の妙子に打ってもらうと,驚いたことには5分後には陣痛が始まりすぐに分娩となりました.残念ながら児は死産でしたが,産婦の妙子自身はなんとか助かったのです.

戦時下の昭和17年に発表された文献4にはいくつかの興味深い記述があります.「従来脳下垂体後葉エキスとしてピツイトリン,ピツグランドールの名称は産科とは全く不可分の特効薬として其の効能は既に民間大衆の熟知する處である.近時国産品愛用の声高く外国製品に対し寸毫の遜色なき優秀品が漸次前記,外国品を駆逐し得たる現状は我医界の為慶賀に堪えざる處である」(文献4).「ピツイトリン」や「ピツグランドール」といった優秀な外国製品が日に日に手に入らなくなり,「国産品」を使わざるを得なくなった苦渋がこの文章から感じ取られるのはわたしだけでしょうか.

文献4の結語として以下のような記述があります.「余は昭和十六年以降昭和十七年年頭にかけて第一製薬会社新発売の脳下垂体後葉エキス「コントラミン」を多数の微弱陣痛並に異常分娩に試用する機会を得,其の内臨床的に興味ある二十三例に於て本剤の作用を精細に観察せり」.そして最後に,「以上多数の実験例よりしてコントラミンは二,三既製脳下垂体後葉エキスと比較し何等遜色なき子宮収縮剤なること認め,広く一般産科領域に使用し得らるべき優良品なる事を信ず」とあります.

 脳下垂体後葉製剤以外の陣痛促進剤

余談ですが,当時の陣痛誘発の実際はどんなだったのでしょうか.文献1の症例から引用してみます.

1日目は,「ヒマシ」油30グラム頓服,2%石鹸浣腸 x 2回,「オイヒニン」0.3グラム50分おき2回内服,「メテロイリンテル」250グラム挿入,アトニン注射(0.5cc,0.5cc,1cc),「コルポイリンテル」450g挿入,再度アトニン注射(1cc x 4回).

2日目は,「オイヒニン」0.3グラム50分おきに3回内服,「コルポイリンテル」500グラム挿入,「ヒポフイジン」1cc注射.

3日目は,2%石鹸浣腸400グラム,「アトニン」1cc注射にて有効陣痛が発来し,児の娩出となっています.

「アトニン」と「ヒポフイジン」は前述のとおり脳下垂体後葉製剤です.また「オイヒニン」は塩野義製薬が輸入して販売していたエチル炭酸キニーネのことであり,文献1では,「全量1.8瓦に至せしが陣痛促進には殆んど無効なりき」と評されています.

ところでさきのディスカッション時に候補としてあげられたほかの陣痛促進剤についての当時の評価はどうだったのでしょうか? 「近来陣痛促進剤としてのキニーネが恐るべき副作用ある事を論議せられつつあり,爾余唯一の陣痛促進剤たる脳下垂体後葉ホルモンの副作用に就き論ずるは不必要ならざるべしと信じここに報告する次第なり」(文献3).すなわちキニーネの副作用は当時もかなり知られていたこと,そしてそれ以外の陣痛促進剤としては脳下垂体後葉ホルモンしかないことが知れます.

また昭和14年発行の「臨床産科婦人科」第6号に「セカルチン」という麦角剤の広告が載っています.「麦角製剤中の白眉 子宮収縮 止血剤 セカルチン」とあり,適応症として「諸種の子宮出血,月経過多症,陣痛微弱其他一般出血,遺精遺尿症等」とあります.確かに「陣痛微弱」とはありますが,記載のしかたからいっても陣痛促進剤をメインとしての宣伝ではないようです.実際に他の症例報告などをみても,麦角剤を陣痛促進に用いている例はほとんどなく,現在と同じ子宮止血剤としての使用がほとんどであったと考えられます.

 

 参考文献

(1)松浦桂秋:陣痛微弱に試みたる大量「アトニン」注射.産科と婦人科 1938;6:220-224

(2) Kamm O, Aldrich TB, Grote IW, et al: Active principles of the posterior lobe of the pituitary gland. I. Demonstration of two active principles. II. The separation of the two principles and their concentration in the form of potent solid preparations. J Am Chem Soc 1928;50: 573−601

(3)大野博:脳下垂体後葉ホルモンによりて誘発さられたる子癇例.臨床産科婦人科 1939;14:98-105

(4)和氣正一:脳下垂体後葉製剤コントラミンの臨床実験.産科と婦人科 1942;10:527-543

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