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みちばたの祠堂や石碑にふれる熊本の歴史文化

みちばたの祠堂や石碑にふれる熊本の歴史文化

                                   (2013年6月9日 室月 淳)

ある学会に参加して,はじめて熊本市を訪れる機会をえました.学会場がちょうど熊本城のちかくだったため,学会最終日の夕方に熊本城の天守閣にのぼりました.西南戦争で全焼しているので,もちろん戦後の再建です.石垣は世評のごとくみごとですが,城の縄張り自体に感銘をうけます.建築にあたっての一種のコンセプトとでもいったらいいのでしょうか.

ただし天守閣やほかの建物のおおくは,大阪城の類とおなじ鉄筋コンクリートづくりで,レプリカみたいなものでした.熊本城の史跡としての価値について考えながら,あとはホテルまで4キロの道のりをゆっくり歩いて帰りました.梅雨の季節でしたが,さいわいにも涼やかな風のある日でとても気持がよかったです.

熊本の旧城下町を歩いて,その歴史伝統の蓄積につよい感銘をうけました.しばしばみちばたに小さな社や祠,石塔などがみられます.これは昔からの歴史的文化がゆたかであることの証明ですが,それ以上に地域のコミュニティがそういったものをだいじに維持してきたあらわれでもあります.

これはかえり道の途中にみかけた祠堂のなかに安置された二体の地蔵菩薩像です.解説によると,右の舟形光背のある立像を「放牛地蔵」,左の坐像を「団子(だご)地蔵」と地元ではよぶのだそうです.

「放牛地蔵」の由来はとても興味深いものです.以下はそこにたてられた解説を簡単にまとめた内容です.貞享年間に,貧しい酒飲みの父親とまだ十歳たらずの孝行息子がいて,その日も父親が息子に酒を買ってくるようにいいつけました.しかし貧しくて酒を買う金もなく,息子がどうしようか躊躇していたので,父親が腹をたててなげつけた火吹竹が,運悪く外をあるいていた武士のひたいにあたってしまったのです.烈火のごとくおこった武士は,息子の必死の哀願にもかかわらず,父親を一刀のもとに斬りすててしましました.

息子は亡き父の菩提を弔おうと仏門にはいり,修行すること三十余年,名も「放牛」とあらため,父の霊をなぐさめるため百体の石仏建立の悲願をたてました.それからちょうど十年で大願成就,百七体の石仏を建立し,放牛はこの世を去りました.なおこの地蔵は二十体目にあたるそうです.

この橋は「長六橋」といいます.江戸時代,この河原には刑場があって,打首や獄門がなされていました.城下町を引きまわされた罪人は,この地蔵のよこの仮牢でひとやすみしてから刑場にひきたてられていきました.罪人の親族縁者は,甘い団子をつくってこの地蔵に供えると,役人は最後の食としてそれを罪人にあたえました.その当時は砂糖がほんとうに高価だったことでしょう.これが「団子地蔵」の由来とのことです.

地蔵堂のすぐとなりには供養塔とおもわれる石碑がたっており,碑文は「南無妙法蓮華経」と読めました.ここには罪人の招魂と供養という宗教的精神が刻みこまれています.

もちろんその土地の歴史はすでに過ぎ去ったものですが,過去や現在のできごとがどのようにして共同体の記憶としてうけつがれてきたのかに興味がひかれます.歴史上にみられる一連の記憶を,刻みこまれた文字や残された図像をはじめとするメッセージによってとらえかされることになります.それは石碑であったり,口承や書物,パンフレットなどさまざまな記憶のかたちが想定されます.そこには地域の人たちが石碑や書物などに自分たちの記憶をくみこんでいく努力がありましたし,意識して「過去」や「伝統」を創出し後世に伝えようとしていたと考えられます.

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カウンタ 3817 (2013年6月9日より)