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「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査」指針案に対する意見

「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査」指針案に対する意見

                                 (2013年1月19日  室月 淳)

この文章は,日本産科婦人科学会(日産婦)が「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査」指針(案)について,一般から募集したパブリックコメントとして書かれたものです.すでに別なところに書いた文章と重なるところが多いのですが,ご参考までにこの場所でも全文を公開いたします.

 意見の要約

「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査」指針(案)にたいして,以下の7点を要望いたします.各項目の具体的な理由はあとに詳述いたします.

1. 国にたいして障がい者福祉やノーマライゼーションの政策の実施を求めること

「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査」(以下,NIPTと略)は,情報を与えられたうえでの自由意思による選択であり,検査をうけるかうけないかは個々人が自発的にきめること,そして産む産まないかも個々人がきめることが根本的原則となります.そこで日本産科婦人科学会(以下,日産婦と略)は,指針案のなかに「どちらを選択しても家族が社会的不利益を受けないよう国は全力で援助する」という文面をいれ,各種社会対策やノーマライゼーションの施策を進めるよう国に要望してください

2. NIPTの実施についてはきちんとしたインフォームドチョイスを原則とすること

「指針案」8〜9ページの「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査に対する医師の基本的姿勢」において,「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査について医師が妊婦に積極的に知らせる必要はない」を,「適切かつ十分な遺伝カウンセリングを提供できる体制下に産婦人科医が妊婦に対して,母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査について,適切に情報を提供することが求められる」と修正してください

3. NIPTを行う施設要件をよりきびしくすること

「指針案」4ページの「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査を行う施設が備えるべき要件」をよりきびしくし,「出生前診断に精通した臨床遺伝専門医・認定遺伝カウンセラーが複数名所属し,専門外来を設置して診療している」,および「必要に応じ小児科の臨床遺伝専門医とも遺伝カウンセリング等の連携がとれる体制である」という条件を加えてください

4. 母体保護法指定医はNIPTに関与してはいけないこと

生生命倫理学のコンセンサスからいっても,カウンセリングの基本原則からみても,医師が「母体保護法指定医」としてNIPTの施行にかかわることは望ましくありません.産婦人科医の一部よりだされている「NIPTは母体保護法指定医が取りあつかうのが望ましい」という提案には反対いたします.

5. NIPTの施行は制限されなければならないこと

NIPTを希望する妊婦には検査を受ける権利があり,検査対象妊婦の条件を決めたり,厳しい施設基準を定めることに反対する意見があります.しかし胎児の情報とは経済的視点でみるものではなく道徳的問題の範疇にはいるものであり,NIPTの施行には厳密な条件をつけることを要望します.

6. 新しい出生前診断を検討する専門家による常置委員会を設置すること

このたび導入予定のNIPTは13,18,21番染色体の数的異常をみるものですが,数年以内には胎児遺伝子の診断も間違いなく開始されることになります.遺伝子の検査は染色体検査とは情報の質が異なりますので,今回のNIPTとは異なる倫理的問題が生じてきます.予想される将来の問題をみすえて,専門家による常置委員会の設置し,そのときどきの課題にたいして機動的に対処できる体制をつくるようのぞみます.

7. NIPTに関する日産婦としての方針を早急にだすこと

NIPTコンソーシアムが当初予定していた昨年9月中の検査開始にたいし,日産婦としての対応を検討するために待ったをかけて,2回ほど結論の先送りを行いました.しかし複数海外企業が国内での検査受託を進めており,早急に方針を決定しなければ社会に混乱を来すことが予想されます.これ以上結論を先送りせず,一刻も早い方針決定をお願いいたします.

 

 1. 国にたいして障がい者福祉やノーマライゼーションの政策の実施を求めること

「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査」(以下,NIPTと略)は,情報を与えられたうえでの自由意思による選択であり,検査をうけるかうけないかは個々人が自発的にきめること,そして産む産まないかも個々人がきめることが根本的原則となります.そこで日本産科婦人科学会(日産婦)は,指針案のなかに「どちらを選択しても家族が社会的不利益を受けないよう国は全力で援助する」という文面をいれ,各種社会対策やノーマライゼーションの施策を進めるよう国に要望してください.

NIPTに関する倫理的議論は,世界的にもこれまでおこなわれてきました.その結果,議論のレベル自体は深化しましたが,事前に予想もしなかったようなNIPT特有の倫理的問題はでてこず,直面する課題にはこれまでの生命倫理学の原則を厳密に適応することで対処できるという結論に一応なっています.これまでの生命倫理学の原則とは,情報を与えられたうえでの自由意思による選択であり検査をうけるかうけないかは個々人が自発的にきめること,検査結果は厳重に管理され本人以外には開示されないこと,すなわちインフォームドコンセント(インフォームドチョイス),自己決定,ブライバシー権の3つです.

この3つの大原則を前提としてみとめたうえで,出生前診断の倫理学的問題の中心にあらわれてくるのが選択的中絶の是非の問題です.これに対するこたえはもちろん「自己決定の尊重」ですが,それは具体的にはつぎのような意味になります.「検査はいかなる形においても強制的,威圧的ではなく,自発的におこなわれ,検査をうけたカップルの自己決定により以後のことが決められる.検査の前後にはじゅうぶんな説明とカウンセリングがおこなわれ,そのカウンセリングには一切の指示的要素がはいってはならない」.

倫理学者や障がい者団体のなかには優生社会への危惧をもっとも強くもつかたがたがいて,自己決定をこのようにまとめることにすら,障がい児の中絶をせまる優生政策と同じであるとなお批判しています.そのような批判がありながら,それでもなおカップルの自己決定にすべてをゆだねようというのが,現代社会と医療の到達した上記課題へのこたえなのです.

それではそういった倫理学者や当事者の批判にどのようにこたえるべきなのでしょうか.「産むか産まないかは本人がきめること」,そのかわり,「どちらを選択しても家族が社会的不利益を受けないよう,国や社会は全力で援助する」とすることが必要とされるのです.障がい者が排除されるのではないかという不安のもとでは,どのような出生前検査も障がいを持って生活している方や家族,そして国民に受け入れられるはずはありません.国は「産むことを選択した」家族のために,徹底した家族支援や社会対策を行なうことがたいせつです.具体的な支援としては,専門医の養成やヘルパー制度の創設,公立学校のノーマリゼーション対策,遺伝カウンセラー制度の充実などが考えられます.NIPTの導入を契機として,「すべての障害者が安心して生活できる社会」をつくっていくという社会や国の姿勢が求められることを,まず日産婦の指針案にはっきりと明示するべきだと思います.

そもそも遺伝子の異常や染色体異常は,生命が環境に適応しながら進化するための重要なメカニズムのひとつという遺伝学の考え方があります.障害の有無にかかわらずすべてのヒトは,もし発現すれば重篤な遺伝病となる遺伝子異常を10個以上もっていることがしられていますし,また男女をとわずヒトの精子や卵の10〜20%には染色体異常が存在しています.またわれわれはだれもが障害者の仲間入りをする可能性を持っていて,ある意味ではこどもや高齢者は障害者ともいえます.先天異常だけにかぎっても,生まれてくる新生児の5%になんらかの障害の原因となる先天異常がみつかっていて,決してダウン症候群だけが福祉援助が必要な障害ではありません.

「どのような障害をもって生まれても,幸福な一生が送れるような社会づくり」をめざすことがすべての医師の使命といえます.そのために障がい者福祉やノーマライゼーションの充実をまず第一に謳う必要があると考えます.

 

 2. NIPTの実施についてはきちんとしたインフォームドチョイスを原則とすること

「指針案」8〜9ページの「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査に対する医師の基本的姿勢」において,「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査について医師が妊婦に積極的に知らせる必要はない」を,「適切かつ十分な遺伝カウンセリングを提供できる体制下に産婦人科医が妊婦に対して,母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査について,適切に情報を提供することが求められる」と修正してください.

 「指針案」における「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査について医師が妊婦に積極的に知らせる必要はない」は,1999年の「母体血清マーカー検査に関する見解」(厚生科学審議会先端医療技術評価部会)のときと同一の思想にもとづいています.これをわかりやすくいいなおすと,検査について適切なカウンセリングなしに安易に施行されようになると社会一般に広まるかもしれず,結果的にマススクリーニング化するおそれがある,だから検査の施行をコントロールするために「知らせない」,「広報しない」という方法を選択するというものです.

1999年のときは検査の説明が十分に行われる環境にまだなく,マススクリーニング検査として行われる懸念により「積極的に知らせる必要はない」とされました.確かにこの時代は遺伝カウンセリング体制がいまだ十分に整っていなかったことを臨床遺伝専門医の多くは認めざるをえませんでしたから,不本意ながらその「見解」に従わうことになりました.そしてその後の10数年間,母体血清マーカー検査も「積極的に知らせる必要がない」で,年間2万人もの検査を,一部の施設ですが,まったく制限なく自由に検査を施行しています.そういった一部での野放図な検査施行とその後のフォローに苦労させられてきました.それにもかかわらず一般への適切な情報提供や,教育,啓蒙といった活動は制限されてきたのです.

しかし1999年の「見解」では,同時に遺伝カウンセリング体制の充実を求め,「知らせない」というのはそれが整うまでのあくまでも暫定的な処置であり,関係機関はその整備に勤めることとされていたはずです.それにそって臨床遺伝専門医などはこれまで努力してきました.しかしいままた同じ方針をいいだすのは,この13年間なにもしてこなかったことを自ら認めているようなものだと思います.

そもそもNIPTをマススクリーニング化させない目的で,検査の存在自体を妊婦に教えないという対処は誤っています.出生前診断を受けるときの原則を確認してみればその理由があきらかです.生命倫理の基本原則は,「情報を与えられたうえでの自由意思による選択」,すなわちインフォームドチョイスであり,検査をうけるかうけないかは個々人が自発的にきめること,結果は本人以外には厳重に秘匿されるとなります.「知らしむべからず」という医療は完全に時代錯誤であり,これらの基本原則を真向から否定するものです.情報強者と情報弱者の格差をそのまま追認することにもなるでしょう.そもそも10年前と違ってインターネットの発達した今日では「検査の存在を知らせない」ということはナンセンスでもあります.

本来であれば,遺伝性疾患や染色体異常の啓蒙とか,自己選択,自己決定の重要性などの理解といった一般における遺伝リテラシーの伸長によって,こういった検査のマススクリーニング化とか優生化を予防することが重要であるのに,日本では一般にたいしてむしろ「教えない」,「知らせない」というまったくの反対方向を向かせようとしています.そもそも,妊婦に検査の存在を教えないという制限のしかたは,医学的にも,生命倫理学的にも,欧米での考え方からいっても,あるいは世間の一般常識からみてもきわめて独特な,というか,はっきりいうと非常識な発想といえます.

おそらくいま求められているのはそれとはまったく逆のことです.妊婦のみならず一般国民,あるいは一般産婦人科医にたいしてNIPTをふくむ遺伝学的な知識を普及啓蒙すること,すなわち遺伝リテラシーの向上です.一般の遺伝リテラシーが高くなれば,妊婦がそれほど積極的にNIPTに飛びつくことはありませんし,医師も簡単に検査をしようとは思わないでしょう.そして日産婦がいまやるべきことは,専門的な遺伝カウンセリング体制があって出生後の児のケアと長期的フォローが可能な施設を選び,きちんとした監視下でNIPTを始めてみることです.それによってNIPTにどのていどのニーズがあるのか,どういった問題が生じるのかがあきらかになるでしょう.検査へのアクセスをどのようにしたらいいかを検討するのはそれならでも遅くありません.

検査をマススクリーニング化させないようにコントロールするならば,検査の対象を限定する,検査を行う施設を限定するなどいくつかの方法が考えられます.しかし検査の存在を妊婦に積極的に知らせないという方法はやはり間違っていますし,臨床遺伝専門医のプロフェッションを軽んじる発想ではないかという気がします.さらに上記の「見解」は,遺伝専門医や遺伝カウンセラーが適切な情報提供を行うことを妨げた結果,出生前診断のその後のありかたを歪めてしまいました.

それを修正するのに10年以上の時間がかかりました周知のとおり,2011年に日産婦から「出生前に行われる検査および診断に関する見解」がだされました.血清マーカー検査についても1999年の「見解」での考え方を修正し,以下のようなりました.

「本検査の取り扱いに関しては,従来より日本産科婦人科学会周産期委員会による報告「母体血清マーカー検査に関する見解について」に準拠して施行されてきた。一方これらのガイドライン等が示されてから10 年以上が経過しており、妊婦や社会の母体血清マーカー検査に対する認識、遺伝カウンセリング体制の整備状況が進んでいる.米国ではACOGのガイドラインで、年齢にかかわらず,すべての妊婦に染色体異常のスクリーニング検査を提供すべきである、としており、英国では政府の政策としてNational Health Service: NHS がスクリーニングプログラムを全妊婦に提供している。我が国においては,これらの状況もふまえ,適切かつ十分な遺伝カウンセリングを提供できる体制下に産婦人科医が妊婦に対して、母体血清マーカー検査について、適切に情報を提供することが求められている。また,検査を受けるかどうかは妊婦本人が熟慮の上で判断・選択するものであり、検査を受けるように指示的な説明をしたり、通常の妊婦健診での血液検査と誤解するような説明をして通常の定期検査として実施するようなことがあってはならない。」

これは非常に妥当な見解だと考えられます.NIPTについてもこれとまったく同じ基準を採用して,「適切かつ十分な遺伝カウンセリングを提供できる体制下に産婦人科医が妊婦に対して,母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査について,適切に情報を提供することが求められる」とすることを提案いたします.

 

 3. NIPTを行う施設要件をよりきびしくすること

「指針案」4ページの「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査を行う施設が備えるべき要件」をよりきびしくし,「出生前診断に精通した臨床遺伝専門医・認定遺伝カウンセラーが複数名所属し,専門外来を設置して診療している」,および「必要に応じ小児科の臨床遺伝専門医とも遺伝カウンセリング等の連携がとれる体制である」という条件を加えてください.

「指針案」における,「産婦人科常勤医師(産婦人科専門医*1)と小児科常勤医師(小児科専門医)のうちのどちらかは,臨床遺伝専門医の資格を有していることを要する」では検査実施施設が格段に増加することとなります.遺伝カウンセリングや検査後のフォローなどに関するコントロールがきかなくなり,おおきな混乱がおきることになるでしょう.「指針案」の前段でNIPTが生命倫理的にさまざまな問題があるという議論をふまえて,だから「NIPTの実施を禁止する」,あるいは「さらに実施条件をきびしくする」というのなら筋はとおっていますが,なぜ逆に施設条件を緩めるという結論となるのでしょうか.納得のいく説明はありません.

NIPTコンソーシアムの構想における施設要件では,遺伝専門医が複数いて,かつ産科医,小児科医とも専門医であることが必須でした.そして産むという選択をしたときに,カップルを全面的に支援しフォローできる施設で検査をおこなうというようになっています.それではなぜ複数の専門医が必要なのでしょうか? ひとつの理由は,NIPTの実施には遺伝専門医や遺伝カウンセラーによる遺伝カウンセリングは倫理的にも必須であることです.複数の専門医がいることにより,どのような状況においてもクライアントに必要十分な遺伝カウンセリングを行うことが保証されること,名義借りなどといった名目だけの遺伝専門医といった状況をなくすことができることです.

もうひとつの理由は,現代社会において出生前診断はあくまでも個人の選択の問題としてたてられていて,障がいも個性のひとつとして認める方向にあることです.ところが出生前診断を先天異常出生の予防手段とし,異常がみつかれば中絶がとうぜんと考えていて,さらにはその態度を隠そうともしない医師が一部にいます.遺伝専門医を複数おくことによって,そういったかたよった優生思想による医療を防ごうとする目的があります.

 

 4. 母体保護法指定医はNIPTに関与してはいけないこと

生命倫理学のコンセンサスからいっても,カウンセリングの基本原則からみても,医師が「母体保護法指定医」としてNIPTの施行にかかわることは望ましくありません.産婦人科医の一部よりだされている「NIPTは母体保護法指定医が取りあつかうのが望ましい」という提案には反対いたします.

母体血胎児染色体検査(NIPT)について,「妊婦がある程度アクセスしやすい母体保護法指定医のところで検査を行うべき」という提案が産婦人科医の一部からなされています.しかし母体保護法指定医は以下のまったく異なったふたつの理由によりこの検査にかかわるべきではないと考えます.

ひとつは,NIPTにかんする現在の生命倫理学のコンセンサスからは許容しがたい発想だということです.上にも書きましたが,NIPTについてわれわれが直面する課題には,従来の生命倫理的な原則を厳密に適応することで対処できるというのが国際的なコンセンサスとなっています.そして自己決定の尊重によって選択的中絶も許容されますが,その場合以下の条件が要請されることになります.

「検査はいかなる形においても強制的,威圧的ではなく,自発的におこなわれ,検査をうけたカップルの自己決定により以後のことが決められる.検査の前後にはじゅうぶんな説明とカウンセリングがおこなわれ,そのカウンセリングには一切の指示的要素がはいってはならない」

すなわち出生前診断は個人の選択の問題として厳密にたてられていて,出生前診断を先天異常出生の予防手段としてとらえたり,医療経済的な視点から医療費の縮減を目指して,異常がみつかれば中絶へ誘導するような優生的発想は徹底的に排除されるべきことになります.これは20世紀のナチスドイツに典型的にあらわれた優生思想への深刻な反省からきています.

母体保護法指定医とは,母体保護法第14条に基づいて人工妊娠中絶手術を行うことができる医師を指します.もちろん母体保護法指定医がもっている高い倫理観を決して疑っているわけではありません.しかし法律によって医療行為としての人工妊娠中絶を認められている医師が,同時に染色体異常のスクリーニング検査を独占的に担うことは,うえに説明したような現在の生命倫理にかんする議論の文脈からは許容しがたい発想なのです.

もうひとつの別の理由は,NIPTで重要とされる「遺伝カウンセリング」の視点からみれば,母体保護法指定医では理想とすべきカウンセラー-クライアント関係が成立しがたいことです.現行の遺伝カウンセリングの基盤にあるカール・ロジャースの理論では,「クライアント中心主義」といってカウンセラー-クライアントの人間関係が重視されています.カウンセリングの主体はあくまでもクライアントにあり,カウンセラーとクライアントはまったく対等の立場に立ちます.カウンセリングはひととひととの相互作用であり,外から他人が解釈や説明,解決策などを積極的に与えることはできません.それは「非指示的技法」ということばでまとめられています.

これは知的,専門的,年齢的,地位的優位性を背景とした「医者と患者」,「親と子」,「教師と生徒」,「年長者と若者」といった一種の上下関係にたつ「権威者」的アプローチの否定です.カウンセラー-クライアント関係と医者-患者関係は同時には成立しえないため,すなわち主治医がカウンセラーの役を兼ねることは,遺伝カウンセリングの世界では原則的に忌避されています.これは親が子を「カウンセリング」したり,教師が生徒を「カウンセリング」することが「原理」的にありえないことを考えれば理解しやすいと思います.

NIPTコンソーシアムの参加施設では,NIPTの希望者を原則すべて他医療施設からの紹介と想定しているのはそういった理由があります.遺伝カウンセリング→検査→遺伝カウンセリングといったステップを踏み,クライアントの自己決定をうながしたあとは,基本的にはすべて紹介施設に返すというのは,あくまでもカウンセラーとしての立場に徹するためです.

母体保護法指定医がNIPT検査を担うというのは,おそらく妊娠継続あるいは人工妊娠中絶という自己決定を受けて,その後の妊婦の医療処置とフォローもおこなうという発想があるのだと思います.これは検査後もひきつづいて妊婦をみていくという一見責任ある姿勢のようにみえますが,遺伝カウンセリング的にはあやまった考え方になります.

 

 5. NIPTの施行は制限されなければならないこと

NIPTを希望する妊婦には検査を受ける権利があり,検査対象妊婦の条件を決めたり,厳しい施設基準を定めることに反対する意見があります.しかし胎児の情報とは経済的視点でみるものではなく道徳的問題の範疇にはいるものであり,NIPTの施行には厳密な条件をつけることを要望します

NIPTコンソーシアムの構想や日産婦の指針案において,施設要件を設定して検査可能施設を限定しようとしていることに一部の産婦人科医から批判がでています.「この検査を受けたいという妊婦には検査を受ける権利があり,その権利を制限する権限はだれにもない.厳しい施設基準を定めるということは,そこにアクセス出来ない妊婦に対して検査を受ける機会を制限することになる」という主張です.

一般論として,あらゆる臨床検査が妊婦の希望に応じてどこの医療施設でも受けられるという医療体制にはなっていません.「検査を受ける権利」というのはほかのあらゆる検査で患者に保障されているわけではありません.NIPTについても同様であり,ことさら妊婦の権利を言いたてて一般の医療機関でも広く検査を受けられようにしなければならないという理屈は成り立たないでしょう.もともとわが国の医療においては,お金さえ出せば自らの希望によって望む検査や望む治療を自由に受けられるというようにもなっていません.

しかしこれらの意見には,「妊婦にNIPT検査を受ける権利を制限する権限は誰にもないから,施設基準を取っ払ってわれわれにも検査をさせよ」という要求に単純に還元して,それを批判するだけではすまされない内容が含まれています.それはわたしたちがほぼあらゆるものが売買される時代に生きているという事実です.NIPTとは今世紀はじめのヒトゲノム計画による遺伝子の商業化によって誕生した一種の商品です.胎児の質の情報に市場価値がつけられて,高額の値段で取引されるようになっています.昔から非市場的な規範が生きていたヒトの命の局面に市場経済が入り込んできたことにこの問題の本質があります.

胎児の命の質の情報とは経済的視点で考えられるものではなく道徳的問題の範疇にはいるものです.そこで扱われるのは命の尊厳についてであり,金を出しさえすればあらゆる商品が手に入れることができる権利,すなわち「検査を受ける権利」が保障されるわけではありません.マイケル・サンデルのことばを借りると「それをお金で買いますか」ということになります.もちろん妊婦さんの気持には切実なものがあり,それを強欲だとか道徳的に許されない欲望などと単純に批判することなどできません.ヒトとしての尊厳とヒトとしての欲望をどの地点で折り合いをつけていくかは,自己決定と自己責任という名の市場経済原理にまかせることは絶対にできないのです.

母体血による胎児遺伝子検査が可能になったのは現代医学の時代の流れであり,基本的にこれをとどめることはできません.ですから臨床遺伝専門医としては,出生前診断を個人の選択の問題として倫理的に厳密に考えながら,適応者に対してきちんとしたカウンセリングをもとに検査を行うという基本姿勢をとって対処するほかないのです.

 

 6. 新しい出生前診断を検討する専門家による常置委員会を設置すること

このたび導入予定のNIPTは13,18,21番染色体の数的異常をみるものですが,数年以内には胎児遺伝子の診断も間違いなく開始されることになります.遺伝子の検査は染色体検査とは情報の質が異なりますので,今回のNIPTとは異なる倫理的問題が生じてきます.予想される将来の問題をみすえて,専門家による常置委員会の設置し,そのときどきの課題にたいして機動的に対処できる体制をつくるようのぞみます.

現時点ですでに北米では,双胎妊婦における胎児染色体の数的異常および染色体モザイクが診断可能となっており,近いうちにNIPTの検査対象となる予定です.またNIPTでは常染色体のみならず,性染色体の評価も当然可能となっており,倫理的課題さえクリアされればいつでも商業ベースで検査が提供開始される状況になっています.遺伝子レベルでは,軟骨無形成症など複数の疾患でのNIPTによる胎児遺伝子診断がすでに症例報告されています.10年以内にはNIPTによって胎児の全ゲノムの解読が可能となるだろうとも予測されています.

数年以内には染色体の数的異常のみならず,遺伝子診断も間違いなく商業的に開始されることになりますが,そのときにどう対応するのか? 遺伝子検査は羊水検査による染色体検査とは情報が異なりますので,遺伝専門医や遺伝カウンセラーが正しい説明を行う必要があります.いまNIPT導入に対する対応をあやまったり,「積極的に知らせる必要はない」という方針で問題を先送りしたりすると,今後技術が進みつぎつぎと新しい検査が入ってきたときに取り返しのつかないあやまちをおこすことがでてきます.NIPTの導入は「滑りやすい坂(slipping slope)」です.将来の課題をみすえての対応が求められています.

そこで,新しい課題がでてくるごとに迅速に対応して方針を明らかにし,ときには検査会社と直接交渉して検査体制をコントロールしていくことが,今後の日産婦には求められます.高度に専門的な内容を理解し,適切にかつ機動的に対応していくためには,遺伝専門家をメンバーの中心とした常置の委員会とすべきと考えます.

 

 7. NIPTに関する日産婦としての方針を早急にだすこと

 NIPTコンソーシアムが当初予定していた昨年9月中の検査開始にたいし,日産婦としての対応を検討するために待ったをかけて,2回ほど結論の先送りを行いました.しかし複数海外企業が国内での検査受託を進めており,早急に方針を決定しなければ社会に混乱を来すことが予想されます.これ以上結論を先送りせず,一刻も早い方針決定をお願いいたします.

パブリックコメントを改めて募集し,再度検討して3月に結論をだすと日産婦が昨年12月に決めたのは,結果的に単なる結論のさきのばしになってしまいました.パブリックコメントによってどういった新しい視点がうまれてくるというのでしょうか? むしろこのあいだに複数の検査会社が参入して,全体としてコントロールのつかなくなる事態をおそれています.北米ではシーケノム社のほか,アリオサ社,ベリネイト社の2社がNIPT検査を商業ベースで受託しています.またナテラ社,中国系のBGIもそれぞれ日本法人や代理店をすでにもち,日本での検査受託を目指しています.

今のわが国の現状において,商業主義主導で新しい検査が普及していくことは,「産むか産まないかは本人がきめる」かわりに,「どちらを選択しても家族が社会的不利益を受けないよう,国や社会は全力で援助する」というわれわれの理念そのものがおびやかされるのではないかとの危惧をもたざるをえません.NIPTはインターネットを利用して消費者が医療機関を介さずに検査を受けられるDTC(Direct-to-Consumer)検査としての側面がありますので,海外市場を考慮すると今の日本では普及をコントロールすることは不可能です.すでにそのような兆候も見聞きします.

NIPTコンソーシアムが構想した検査の枠組みは,実は遺伝性乳癌/卵巣癌のBRCA遺伝子検査の体制を模したものです.BRCA遺伝子検査は,遺伝専門医と専門外来がある全国10数か所の認定施設のみで行われ,そこで専門のカウンセリングを受けたあとで初めて検査がなされます.数年前から始まったこの体制はこれまでおおきな問題も混乱もなく運営されてきています.NIPTにおいても最初にきちんとした枠組みにより検査体制をスタートして,あとから参入してくる海外検査会社もその体制のなかで検査を受託するモデルをつくる必要があります.それが年内にスタートとして急いできた理由でした.

もし日産婦としてNIPTに倫理的におおきな問題を感じているのならば,もちろん「断固導入すべきでない」という結論もありえたでしょう.世界にひとつくらいそういった国もあってもいいかと思いますし,それはひとつの見識ではあります.その場合はもちろん国内の遺伝専門医はその方針に従うことになります.いずれにしろ昨年12月のような事実上の結論先送りという対応こそもっともさけるべきだったと個人的にはつよく思います.

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