トップ 差分 一覧 ソース 検索 ヘルプ PDF RSS ログイン

「シミュレーション教育」批判

「シミュレーション教育」批判

                                 (室月 淳 2016年3月1日)

はじめに

「コーチング」批判,「ワークショップ」批判ときて,「批判三部作」(笑)の最後となる「判断力」,もとい「シミュレーション教育」批判です.まあ本丸ですね.

しつこいようですが,もちろんここでの「批判」というのは,根本に立ちかえっての吟味というくらいの意味であることは強調しておきます.医学において,シミュレーション教育というのは画期的な意味をもっており,その点はわたしもじゅうぶんに信じています.実際に,当院はあるシミュレーションプログラムのトレーニングサイトであり,わたしがその責任者をしているわけですから.

しかしどのような理論であっても,100パーセントのものは存在しないでしょう.それが教育理論であればなおさらのことです.本稿では「シミュレーション教育」とはなにかを根本的に問いなおすために,シミュレーショントレーニングのもともとの起源にさかのぼって,その成り立ちをあきらかにしてみたいと思います.

以下の内容は,臨床研修指導医である medtoolz先生のブログ 「2005.05.12 【臨床研修】早く心臓が止まればいいのに」 に着想を得て,そのなかに引用されているデーヴ・グロスマンの「戦争における「人殺し」の心理学」(ちくま学術文庫)ほかいくつかの著作を参考にしたことをお断りしておきます.

軍隊におけるシミュレーション訓練

グロスマン「戦争における「人殺し」の心理学」に書いてあることですが,第二次世界大戦中の米軍の調査によると,最前線で敵と遭遇したときの兵士の発砲率は15-20%にすぎなかったそうです.自らの命が危険にさらされているにもかかわらず,わずか15-20%の応戦率というのは衝撃的な数字です.15-20%が発砲していたとき,それでは残りの80%以上の兵士はなにをしていたのでしょうか?

臆病者として逃げ隠れたりしていたわけではありませんでした.むしろ多くの場合,負傷した戦友を救出したり,武器弾薬を運んだり,伝令をつとめたりといったより危険のおおきい仕事を進んで行っていたそうです.すなわち戦場での発砲率が極端に低かったのは,ほとんどの人間には,同類たる人間を殺すことに強烈な抵抗感が存在する,という単純で明快な真実のためと考えられました.戦場であろうとも人が人を殺すのは難しいことなのです.

この調査結果を重くみた米軍上層部は,戦争に勝利するという大目的にそって,戦場での兵士の発砲率をあげるためにいくつかの対策をとりました.とくに当時最新の心理学の知見をとりいれて,新兵教育を大幅に見直しました.その要点は「脱感作」と「条件づけ」のふたつとされています.

「脱感作」というのは,敵を殺すことにへの心理的抵抗を少なくするために考えられた方法です.基礎訓練キャンプ(ブートキャンプ)において,毎朝のランニングのときに,たとえばみなで「ジャップを撃つぞ,殺すぞ」と声をそろえて叫んだり,「なんとか体操」という名称をつけて,敵を撃つ身振りや敵を殺すきまったアクションをみなで合わせて何度もくりかえしたりすることです.米映画「愛と青春の旅立ち」にでてくる新人訓練でそんなシーンがありましたね.

そしてふたつめの「条件づけ」こそが,いわゆる「シミュレーション教育」の起源といわれています.それまでの兵士の射撃訓練というのは,草原に腹ばいになって遠くの丸い的を撃つことが主でした,しかしこれでは射撃技術は向上しても,いざ戦場で人にたいして発砲できるようにならなかったようです.

今日における射撃訓練では,完全武装で塹壕のなかに何時間も立って待ちます.そして,リアルな人型シミュレーターが定期的に飛び出してはひっこむのを,瞬時に判断して射撃するのです.命中するとまるで生きたターゲットのように,シミュレーターは声をあげたり血しぶきをとばして倒れます.一種のゲーム感覚ですね.こういった訓練において,射撃の成績があがれば顕彰され,何段階かにわかれた資格が認定されたりします.逆に失敗すれば軽い懲罰(再教育、週末の外出禁止など)が与えられるのです.

このようなシミュレーショントレーニングをくりかえしておこなっていると,周囲の環境がどんなにかわっても,条件づけられた反応が確実に引きだせるようになります.第二次大戦の教訓によって,新兵教育にシミュレーショントレーニングをとりいれた米軍は,朝鮮戦争での兵士の発砲率が55%まで上昇しました.さらにトレーニング手法を洗練させ,ベトナム戦争ではなんと90-95%という驚異的な発砲率に達したとされます.米軍の意図はみごとに果たせられたのです.

ふつうならば人を殺すことのできない80%以上の人間に,シミュレーション教育によって条件づけをおこない,なかば反射的,無意識に人を殺すようにしむけたことは,しかしおおきな反動ももたらしました.除隊したおおくの元兵士が,その後深刻なPTSDを発症し,苦しむようになったといわれます.

このシミュレーション教育による条件づけは,心理学者であるスキナーの「オペラント条件づけ理論」を背景にしているとされます.簡単にいうと「パヴロフの犬」の発展版ですね.強制的な刷り込みであり,一種の洗脳といってもまちがいではありません.

著者のグロスマンは,もとも退役将校で士官学校の元教官でもあり,兵士にいかに発砲させるか,人を殺せるようになるか訓練する側の立場にたつ人間です.その彼ですら,軍隊におけるシミュレーショントレーニングは「洗脳の一種である」と本のなかで言い切っているのに驚きます.

医学シミュレーション教育

さてわれわれの医学教育の場ではどうでしょうか? 戦場と臨床現場は似ているところも多々ありそうですが,それでもだいぶちがいます.人を殺すことと人を助けることと,目的に関していえば180度ちがっています.しかしなにより,このシミュレーショントレーニングを医学教育にとりいれれば,おそらく座学とは比べものにならないほどの効果が得られることは容易に想像できます.

ここでいちばんの問題となりそうなのは,そこに主体性は生まれるのか? ということでしょう.医学教育において,シミュレーショントレーニングが洗脳だというのはいかにも言いすぎだとしても,反復されるシミュレーション教育による刷りこみが,医療者を思考停止に追いやっている面はまちがいなくあると思います.

シミュレーショントレーニングには,エビデンスに基づいた正しい対応が用意され,それはただひとつしか存在しません.それを記憶し,正しい手順で反射的に対応できるようになって,はじめて合格となります.パターンにより現状を認識し,定型的な対応を正しい手順で行うのですが,なにも考えずともそのことが自動的にできるようになるまで,なんども反復してトレーニングをくりかえします.

実際の臨床現場では,しかし医療者の主体性は絶対不可欠です.オーベンの判断や指示どおりにすばやく正確な医療行為をおこなうレジデント,ガイドラインで推奨する診療に無批判に追随するレジデント,ACLS,JPTECといった「シミュレーショントレーニング」資格をつぎつぎに取得していくレジデント.彼らは忠実で,優秀で,モチベーションもあり,くだされる臨床研修評価はきわめて高いでしょうが,そういった彼らがほんとうに優秀な医師になれるでしょうか? そこにほんとうの主体性はあるのか?

「早く心臓が止まればいいのに」

最初に紹介した medtoolz先生のサイトに,「早く心臓が止まればいいのに」という興味深い文章があります.

> この患者さん,早く心臓が止まらないかな.そうなれば,自分にも何をすればいいのか分かるのに.

> ACLSコースの受講を終了した新人研修医は,しばしばこうした不埒な考えをもって救急外来に降りてくる.

心配蘇生のシミュレーショントレーニングを受けると,実際の心肺蘇生のときにもためらいなく体が動くようになります.しかし実際にERに運ばれてくるのは,まだ心臓が動いてくる患者のほうが圧倒的に多いのです.そういった患者への対応には経験が必要であり,新人としては難しくて手を出せないのですが,一度,心肺停止となれば自分にも自動的にできるようになるというわけです.

そのmedtoolz先生も以下のように書いています.

> ACLSは「洗脳」ですよ.

> 私がいう洗脳とは,あくまでニュートラルなものです.

> 土台となるevidenceがあって,それに対しある種のプロトコルがあって,それを広めたいわけです.

> しかも「オレが教科書だ」的な守旧派ドクターもいるわけで,そんな人にも広めたいわけで,そういった時に用いる手法というのは,まさに洗脳です.

こういった,よくいえば他人の行動変容をめざす教育,わるくいえば「洗脳」は,従来の日本にはなかった方法論だと思います.しかしそもそも教育の本来の目的というのは,条件づけによって行動変容をめざすことでないのはもちろん,知識を詰めこむことでも,個人のスキルを高めることでもなかったはずです.それぞれの人間の学びへのモチベーションを高め,個人個人が主体性をもち,自立して考え行動できるように助けることではなかったでしょうか.シミュレーション教育というのは,短時間で効率よく知識とスキルを身につけさせることができるすぐれた手法だと思いますが,主体性をもった自立した個人を育てるためには,よほど注意してとりあつかう必要があるような気がしています.

本当の教育とは?

現実にはいろいろな考えかたの人がいたり,いろいろな蘇生のやりかたをする人がいます.それぞれの方法を見たり経験し,そして議論をしながら,そのようなことをとおして互いに変化していくのが,実はほんとうはおもしろいのです.それが人との対話,交流というものではないでしょうか.そのなかにこそ真の教え合い,学び合いが生まれてくるのだろうと思います.そういった人と人との関係のなかからこそものごとの真の本質が見えてくるはずです.

こういった人と人との対等な対話と,そこから生まれる関係性は,「まずなんでもいいからほめて,その上で改善点を示す」といった「コーチング」のおためごかしとは正反対です.「エビデンス」によって導かれた唯一の解答を教示し,テストに合格すれば認定証を授与する,というシミュレーション教育プログラムとは億万光年はなれたところにあるものです.

戦争に勝つためであっても,自分の命を守るためであっても,あるいは人の命を救うためであっても,やはりわたしは自分の心を他人にコントロールされたくはない,管理されたくはないと心底から思います.

 

参考文献

1.「2005.05.12 【臨床研修】早く心臓が止まればいいのに」

http://medt00lz.s59.xrea.com/blog/?p=256

2. デーヴ・グロスマン「戦争における「人殺し」の心理学」(ちくま学術文庫)

3. 岩田健太郎「主体性は教えられるか」(筑摩選書)

--------------------------------------------------------------------

 後  記

国際医療福祉大学塩谷病院小児科医長で,NCPRインストラクターでもある嶋岡鋼先生より,以下のような反論,というかコメントをお寄せいただきました.非常に示唆に富む内容ですので,ここに謝して引用させていただきます.

シミュレーション基盤型教育手法は先生のおっしゃる通り、operant conditioningから徐々に進化してきたものと思います。直線的に「AならばBをおこなう」「CならばDとする」という直線的なプロトコールを実行するトレーニング(先生がご指摘された兵士の例や、「洗脳」の件です)はどちらかといえばルールを忠実に実行するための「リハーサル」的なトレーニングであり、それは変数の多いものにどのように対応しようか、という「(現代的)シミュレーション」とは若干おもむきが変わってきているように思います。

シミュレーション基盤型教育は古典的な行動心理学から認知心理学、そして最近では構成主義的な見地に立ってのトレーニングと進化してきています。 構成主義の立場に立った現在のシミュレーション基盤型の教育は、ルールを叩き込むようなトレーニングではなく「なぜそれをしたのか」「なぜそうなったのか」「なぜそれがよいのか(またはいけないのか)」を学習者自身に問いかけ、引き出してくるようなトレーニング方法となっています。学習到達目標は事前に設定されているにせよ、先生がコメントされていた「主体的な学び」を最大限エンハンスするような教育手法かと考えます。

もし、現在のシミュレーション基盤型教育が以前のOperant Conditioningのような要素が強いと感じることが多いとしたならばそれはきっと「インストラクションの方略やデザイン」に問題があり、「インストラクターの態度」に問題があると考えます(多様性を許容する構造主義的な観点からです)徹底的に練られたコースのデザインと、インストラクターの高い倫理観が必要で、それが無ければ学習者が安全に学ぶことはできないと考えても良いかと思います。

兵士の例や洗脳の例では、タキソノミーにおける技術を司る領域であるPsychomotor Domain(情意運動領域)でのトレーニング(リアルな人のカタチをしたシミュレーターが出てきたら撃つ)という条件に加えてインストラクター側の価値観(戦場では敵をためらわずに撃つのだ、普遍的な人間の倫理観は無視)を強制的に刷り込んだ、という点で悲劇的です。タキソノミーのもうひとつの領域であるAffective Domain(態度領域)に踏み込める点でシミュレーションは非常にパワフルなのですが、価値観を内面化(自分の持っている行動規範として内在化させる)する段階で、人を殺す、という価値観が、人間のモラル、普遍的な文化とコンフリクトがあったがために、軍の上官のマインドコントロールが解けた後、通常の生活に戻った時に深刻なPTSDを生じたと考えられます。

先生がおっしゃるように教育の本来の目的は「それぞれの人間の学びへのモーティベーションを高め、個人個人が主体性を持ち、自立して考え行動できるように助ける」ことだと思います。シミュレーションは医療職に必要な「知識、技術、態度」の3つの領域にアクセス可能な非常にパワフルな教育の手法です。だからこそシミュレーション基盤型教育を行う指導者たちがその効果と危険性について知見を深めて行かなければならないと感じます。

ルールを単純に忠実にこなすための「リハーサル」的トレーニング(ある意味「洗脳」)ではなく、変数が多く、その場その場で判断をして行かなければならないような自律的に判断して行かなければならないような「シミュレーション」トレーニングをめざすべきと考えます。人と人との関係を重視したトレーニング。学びの多様性を尊重したとレーニング。人はそれぞれ異なる環境で育ち、異なる学び方をする、ということを認識した上でのチームトレーニング。単なるスキルトレーニングとしてのシミュレーションではなく、目には見えないが大切なものに届くトレーニング。そういったものを目指して行くべきと思います。(少し理想論すぎるでしょうか、、、)

---------------------------------------------------------------------

ご感想ご意見などがありましたらぜひメールでお聞かせください
アドレスはmurotsukiにyahoo.co.jpをつけたものです

ひとりごと にもどる

室月淳(MUROTSUKI Jun) にもどる

フロントページ にもどる

カウンタ 5711(2016年3月1日より)