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雪渓寺

高知・雪渓寺を訪問した件

                                       (2013年3月24日)

高知市長浜の雪溪寺を拝観しました.雪渓寺は延暦年間に空海によって開基されたという伝承が残っていますが,その後の戦国時代に長宗我部元親の菩提寺となり栄えた寺です.元親の長男で,九州・戸次川の戦で戦死した信親公の墓があります.嫡子をうしなった元親の慟哭は「夏草の賦」に哀切に語られています.その後の元親は覇気をうしなってあたかも別人のようになり,いくつかの重要な判断をあやまることになります.信親戦死は長宗我部氏滅亡の遠因となったことを考えると,信親の墓所にも感慨ぶかいものがあります.

前日の朝早くにお寺に直接電話をいれ,今日の拝観を予約しました.ひとりだけの拝観に手間をとっていただくことにすこしだけ遠慮して,「当日もしほかのかたの拝観予約があれば,その時間にあわせてうかがいますが」といったのですが,「いやいや,うちはそんな寺ではないから」というご返事.そこでホテルをゆっくりチェックアウトしてから訪ねられる11時で約束しました.

翌日11時すこし前に着いたので、さきに本堂にお詣りをしながら境内を散策しました.11時ちょうどに納経所に声をかけ,奥さまとおぼしきかたに霊宝殿(収蔵庫)に案内していただきました.大きめの鍵をさしこんで,やや開けにくくなっている重い扉を力いっぱいあけ,くらい収蔵庫のなかの電気をつけると,そこには何体かの仏像が鎮座していました.

むかしは,こういった新しい仏像を拝観するまえには,事前に資料や図譜などによって予備知識をしいれ,じゅうぶんな準備をしたものですが,最近は年をとって面倒くさがりになったせいか,わざと下調べをせずほとんど白紙の状態でくることがおおくなりました.むしろ先入観なしでのそのときの自分の感想と評価を,あとから成書で世評や専門家の評価と照らしあわせて楽しんでいます.20代のときからみつづけてきて,最近はようやく仏像にたいする自分だけのすききらいがはっきりとわかってきたという感じがします.

仏像と向いあうまでは,あいさつとか志納とかいろいろと人間くさいやりとりがあるので,こころが沸きたっていて没入してみることができません.最初はとおりいっぺんの仏像の姿しか目にはいってきません.このままでは歩いている横をとおりすぎていく多くの事物とおなじです.すぐに忘れられる光景となります.目をつぶって深呼吸し,もういちど目をあけて集中します.

正面は薬師如来像と,その脇侍のおそらく日光菩薩と月光菩薩の両像.鎌倉時代の作でわるいものではありません.寺伝では運慶作となっていますが,運慶によくみるような滲みでてくる力や量感といったものが感じられず,「これはあきらかに運慶ではないなあ」ということはわたし程度にもわかりました.

その横の毘沙門天像.これは,とてもいいものでした.両腕が欠失しているのがやや残念ですが,それをおぎなって余りあるすぐれた造形となっています.また左の童子像,の吉祥天女像がまたすばらしいものでした.とくに童子像のほうは,現代にもじゅうぶん通用するこどものあどけなさ,かわいらしさといった魅力がみごとに表現されています.つぶらな瞳は玉眼による効果に負うところが大きいのでしょうが,それも仏師のたしかな技によるのはまちがいありません.吉祥天女像は高貴な女性をでもモデルにしたものなのか,小さな目鼻と上品な顔立ち,それから意思的な表情が印象的です.

これらの像をどこかでみたことがあるような気もしましたが,思いだしてもなにかの展覧会ででていた記憶がでてこず,なにか図版による印象かもしれません.寺伝では湛慶作となっています.仏像としては傑作であり,仮に湛慶でないにしても名のある仏師の作であることはまちがいないでしょう.

訪問者記名帳があって,請われるままに記名しました.パラパラとめくると数十人の名前がありましたが,島根とか栃木といった全国各地からの訪問がありますが,日にせいぜい1-2名といったところでしょうか.

ここにも宝がありました.四国八十八か所の一として参拝者は境内にたえることはありませんでした.しかし多くのひとたちは次の寺へと遍路道をいそいでおり,ここに宝ありということに気づいていないのは,とても惜しいことつくづくと思いました.

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カウンタ 1743 (2013年3月27日より)