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震災後のことば

震災後のことば

                              (2017年3月16日 室月淳)

3・11以降,おびただしい数のことばが生みだされました.あのときなにがおきたのか,なにをしたのか,原因はなんだったのか,これからなにをすべきなのか,などが語られてきました.そのことばのおおくは必要なことであったし,また実際に,おおくの真実もふくんでいたのだと思います.

しかし同時につぎのような疑問もわいてきます.実際のところ,これらのことばは,われわれがあの3・11に経験したことすべてに匹敵するような重みをもっていたのでしょうか? われわれが経験したことすべてをくみつくすような表現になっていたのでしょうか? こころもとない気がします.

3・11におこったことについての紋切型の表現は,震災や事故に遭遇したわたしたちの衝撃や思いのうちにあった真実を,表現するのではなく,むしろふたをしてしまっているのではないでしょうか.表面的なおどろきや中途半端な解釈は,事実をかえってみえなくしているのではないでしょうか

わたしたちは,ひとが書いたものを読むときも,みずからがなにかを書くときも,ただ表面的な事実の羅列や,つじつまあわせの凡庸な説明ではなく,そういったものををつきやぶってわたしたちの心にとどく真実の表現をもとめています.その渇望というのはいわばのどの渇きに似た感覚です.

「万の言葉では飢えを満たすことはできないが,ひとすくいの水は渇きを癒す」ということわざがありますが,まさによろずのことばではなく,ひとすくいのことば,ひとすくいの表現をもとめているのです.空気や水,たべものがなければわたしたちは生きていけません.またことばもしかりです.

ことばは文字どおりの意味でこころの糧です.もしかするとなにも食べない日があったとしても,ことばをつかわない日はないでしょう.たべものをとらなければ体がうごかなくなるように,すぐれたことばや表現に欠乏すると,わたしたちの心は飢え,渇いてそのうごきをとめてしまうでしょう

なにか突きうごかされるように,かなたにことばをおくりとどけようとする,それは祈りにも似た行為です.この文章の最後に長田弘「朝の浜辺で」を引用します.長田弘は福島生まれで,つい最近亡くなった詩人です.この6年間でわたしの心にとどいたわずかな,いくつかのことばのひとつです

海からの日の光.
風の匂う朝の浜辺に立って,
黙って,海を見つめている人がいる.
何を見ているのか.無を
見ているのだ.そこに立ちつくして---
われ汝にむかひて呼ばはるに汝答へたまはず.
小さなイソシギが,汀を走ってゆく.
どこにもいない人のたましいを啄ばむように.

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カウンタ 845 (2017年5月12日より)