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新幹線のなかで

新幹線のなかで

                                 (室月 淳 2016年6月18日)

仙台から盛岡にいく新幹線のなか、前の座席のふたりの年配の女性がボソボソ、ボソボソといった感じで話をしていました。聞くとはなしに耳にはいってきたのですが、5年前の震災で亡くなった子どもの話でした。被災地の東北ではいまでもなおこのような光景は日常なのだとあらためて思いしらされました。

わたしは柄にもなくうしろで胸を詰まらせながら、そしていろいろ考えこまずにはいられませんでした。2万人ちかい死者と行方不明者。これらが天災によるまったく無意味な死だったのでしょうか。そうかもしれない。

そうでないかもしれない。世間では「死んだ子の年を数える」とよくいいますが、しかし、このように生きている人間が、死んだ人間を思いつづけるかぎり、その死はけっして無駄でも無意味でもないような気がします。

ここのところはなんと表現したらいいのかわたしもうまく言えないのですが、亡くなったひとびとの死を無意味なものにしてはならず、そのためにはわたしたちも生まれかわって新しい生を歩む必要がある、、、、

震災直後はこういった表現がなされることはめずらしくなく、みんなもあまり抵抗なく納得してもらっていたような気がします。しかし5年たった今は、こういった物言いがどうしても絵空事のように響きます。

わたし個人の気持を述べさせていただくと、東京オリンピックの誘致の話がでてきたあたりから社会とのずれをおおきく感じるようになりました。それが日本人の新しい生? それが震災を経験したあとの日本人の選択?

2万人ちかくの死を悼み、その死を無意味なものにしないためにはどうしたらいいのか? もちろんそれに答えはないのかもしれません。しかしこういった問いかけが、すでにむなしくなっている社会ではないことだけは信じたいと思います。

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カウンタ 1356 (2016年6月21日より)