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死戦期帝切の訳語について

 "Perimortem cesarean section" 死戦期帝王切開の訳語について

                               (2015年7月13日 室月 淳)

Perimortem cesarean section(以下PCS)とは,なんらかの原因によって心停止をおこした妊婦に対して,心肺蘇生処置の一環としておこなう緊急帝王切開術をさします.子宮内に胎児を娩出して静脈,大動脈の圧迫を解除し,血行動態を改善して心肺蘇生を促進することを目的とした処置です.妊婦が心停止をおこしたとき,一般にPCSをおこなったほうが心肺蘇生率が高くなることが知られています.あくまでも母体救命を第一の目的とした帝王切開なので胎児の生死を問わないが,母体心停止4分以内に娩出できれば児もintactで救命できる可能性が高いといわれています.逆に子宮が大きくない妊娠20週未満や,心肺蘇生の可能性がまったくない場合は適応とはなりません.PCSはAHAのガイドライン2005においてはじめて推奨されましたが,日本においてはいまだ定着しておらず,その施行数はまだまだ少ないのが現状です.

PCSについての国内での受容と,その日本語訳についてのこれまでの流れを簡単にまとめてみました.これはあくまでもわたし自身のまわりであったことをわたしの視点からまとめたものです.具体的には,産科救急のトレーニングプログラムを提供しているALSO Japan,妊産婦死亡症例検討評価委員会,産科ガイドライン作成委員会での議論が中心です.

PCSの概念を最初にとりあげたのはコンセンサス2005だと思いますが,わたしがはじめてそれを知ったのは産科麻酔分野で有名なT先生のご発言からであり,2007年の妊産婦死亡症例検討評価委員会の場ででした.そのとき強く興味をもったわたしはT先生に個人的にお願いして,関連論文などいくつかの資料を送っていただいて勉強した記憶があります.

ALSO Japanでは,北米でつくられたシラバスの翻訳時(2007頃)にPCSの訳語が問題となり,そのときは「周死期」ということばが造語されました.ALSOでは最初は「周死期帝王切開」という訳語を使っていました.実はわたしは今でも「周死期」ということばには愛着があります.「周産期」,「周術期」といった用語が医学では定着していますので,その流れで“perimortem”を「周死期」と訳されるのは自然だと思います.ただし,医学用語には今のところ「周死期」ということばは正式にはなく,従来から一部では「死戦期」という訳語が使用されてきました.

2008年にでた翻訳本である「救急・ERエッセンシャル手技」では,湘南鎌倉病院の太田凡先生が「死戦期帝王切開」と訳されています.これが「死戦期」の初期の使用例のひとつです.もともと医学用語には「周死期」ということばはありませんが,「死戦期」はときどき使用されます.主に「死戦期呼吸」としてですが,しかしこのときの「死戦期」はagonalであり,perimortemの訳語としてではありません.しかしもっとも近い概念の単語ということで「死戦期」が採用されたものと推測されます.2010年に出た「「ACLSプロバイダーマニュアル-日本語版」でも「死戦期帝王切開」とでています.

妊産婦死亡症例検討評価委員会がまとめた「母体安全への提言」では,2010ではじめてPCSが取り上げられ,そのときは「母体救命を目的とした緊急帝王切開」と説明されていました.このことばはやはり産科麻酔を専門とされるK先生が考えたものです.胎児救命目的の帝王切開はふつうにおこなわれていますので,それと対比した表現として考えたそうです.ただし機関として正式に定めた訳語ではありません.

その当時は上記の三つの場所で訳語についていろいろと議論されました.候補として挙がったのは,「死戦期帝王切開」,「周死期帝王切開」のほかに,「母児救命帝王切開」,「蘇生的帝王切開」,「心肺停止時帝王切開」,「母体の蘇生処置としての帝王切開」などがありました.しかし日本蘇生協議会(JRC)による日本版ガイドライン2010で,「死戦期」に統一されたという情報がはいり,やはり「死戦期帝王切開」でいくべきだろうというコンセンサスが徐々にできあがってきました.

ALSO Japanでは AHA2010ガイドラインに合わせ,当面は「死戦期帝王切開」で統一することになっています.「Perimortemの翻訳としては「死戦期」を当面は使い,妊婦蘇生のレクチャーやワークステーションでは,その意味するところとして,「心肺停止時の蘇生」「妊婦心肺蘇生時の超緊急帝王切開」など,死戦期という語句の違和感を払拭できるように言葉を選んで意味を補う」という見解がだされました(2011年10月10日).

第1回の産科ガイドライン2014作成委員会は2011年9月7日に開かれ,perimortem CSが新しい項目として取り上げられることが決まりました.ALSOの決定を受けたのち,わたしは「死戦期帝切」の訳語とすべきことを提案し,最終的にそのようになっています.さきに紹介した産科麻酔科領域のT先生やK先生とはメールで意見交換していましたが,もし産科ガイドライン作成委員会で「死戦期帝切」という用語を採用するならば,自分たちも今後はなるべくそれに合わせ,臨床麻酔学会などでもその用語を採用するよう働きかけるという旨のことばをいただきました.

ところが同時期(2011年10月頃),JRCと日本救急医療財団によって,日本版の心肺蘇生ガイドライン2010の確定版が発表になりました.

http://www.qqzaidan.jp/jrc2010_kakutei.html

そしてこれの「妊婦の心停止」の項目のなかでは,PCSは「心停止時の帝王切開」と説明的に訳されていました.JRCによる心肺蘇生ガイドライン2010は正式なものであり,ここで用語がこうなったのはもちろん無視できないことです.しかし「心停止時の帝王切開」というのは正式用語というよりは,一種の解説的記述過ぎないのはあきらかでしょう.これまでの自分たちの議論の経緯もありますし,まだ訳語が固まって定着したわけではなく,とりあえず既定の方針で当面は進めていくということになりました.

ほぼ同時期の2011年10月の日本救急医学会で,防衛医大産婦人科からPCSの症例報告がなされましたが,これがおそらく日本初のPCSだと考えられます.このときは母児とも蘇生できたのですが,母親は4時間後に死亡,児は助かったということです.まあこういった経緯で,日産婦やALSOでは「死戦期帝王切開」,日本産婦人科医会「母体安全への提言2010」では「母体救命を目的とした緊急帝王切開」,日本版心肺蘇生ガイドライン2010確定版では「心停止時の帝王切開」となった次第です.

ここでもっともたいせつなポイントのひとつは,これまであまりなじみのなかった”perimortem cesarean section”の概念を, 産婦人科医をはじめ麻酔科や新生児科にいかに周知させ,実際の現場で施行を推奨していくかだろうと思います.胎児の救命目的の帝切は頻繁に行われていますが,このPCSは第一に母体の救命が目的で行われるものであり,母体の心肺蘇生法の重要な一要素であることです.しかし実際には,胎児の子宮外蘇生治療も可能(心肺停止4分以内に娩出できれば児のintact survivalが期待される)にする帝切でもあることも,きちんと伝えられることが重要です.“Perimortem cesarean section”をどう訳すかもその点をじゅうぶんに考慮して決める必要があります.

わたしの個人的意見は「死戦期帝王切開」がもっとも適切ではないかというものです.日本でこの概念が定着するためには,適切でわかりやすい訳語が必要なことは議論の余地がありません.その意味で直訳の「死戦期」はなかなかピンとこないという欠点があります.しかしこの表現を見た人は,これはどういう意味だろうと考えると思いますし, 説明的にながなが記述するよりも,新しい概念として人目をそばだてる用語を提案することが,普及にも効果的ではないかと思います.これを機に「死戦期帝王切開」を正式に提案し,その実践を目指していけば,麻酔科をはじめとして全体も必ず追随しますし,用語も定着していくのではないでしょうか.

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カウンタ 8195(2015年7月13日より)