検査は妊婦の権利なのか?
検査は妊婦の権利なのか?
(2013年5月11日 室月 淳)
朝日新聞2013年5月11日朝刊の「私の視点」に,NIPTにかんするわたしの文章がのりました.全国紙のおおくの読者に主張を伝えられるというほんとうに稀有な経験をさせていただきました.
掲載されたもののもともとの原型となったわたしの文章をしたに再現いたします.わたしの例のごとくのだらだら書きの悪文を失礼いたします.
(5月12日追記 中田雅彦先生から,朝日新聞デジタル版の画像のいいものをいただきましたので,さしかえさせていただきました.ありがとうございました)
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検査は妊婦の権利なのか?
「新出生前診断」の検査がはじまって一カ月近くがたち,開始早々の喧騒もすこしだけ落ちつきつつあります.最初の一二週間は病院への電話での問い合わせや申し込みが殺到し,日常臨床にもさしつかえるほどで,われわれもこのまま検査を継続すべきか深刻に受けとめていました.しかし最近は個人からの直接の問い合わせは徐々に減り,また検査予約の過半がかかりつけの医療機関をとおすようになってきました.
検査開始当初の過熱と最近の落ち着きはおそらくマスコミ報道による影響がおおきかったのでしょう.カウンセリングと検査を担当するわれわれ遺伝専門医はこういった状態を憂慮すると同時に,逆に一般のかたがたにいわゆる「遺伝リテラシー」をもっていただくいい機会とも考え,できるかぎりの対応をこころかげてきたつもりです.
この検査は妊婦さんや家族が希望すればだれでも受けられるわけではありません.きびしい適応がさだめられています.そして,検査によって胎児の染色体の病気がわかったときはどうするか? そういったときの選択についてひとりひとりがしっかりと考えておく必要があります.
たとえをあげてみます.45歳で妊娠したかたがいるとします.これまでながく不妊であったのが,あるとき妊娠していることに気がついた.45歳で自然妊娠することはもちろんめずらしいことですが,それでもそういうかたにはときどきいらっしゃいます.もちろんご本人は天からのめぐみとしてこころからよろこんでいます.しかし45歳であれば流産の頻度もたかく,またうまれてきたこどもが染色体の病気をもつ頻度は30分の1をこえるハイリスクです.こどもはぜひほしい.しかしもし染色体の病気をもつとすれば,自分たちがどこまでめんどうをみていけるか自信がない.そういう不安や逡巡をかかえて遺伝カウンセリングにくることになります.
実はここには,安心して染色体の病気の子をうむことができないという日本社会の問題もふくまれています.しかしカウンセリングでいくら社会問題を告発しても,現実に目のまえにいるクライアントが直面している不安を解消することにはなりません.カウンセラーとクライアントのやりとりのなかで,現実的でもっとも妥当な道筋をなんとかみつけていくことになります.
このときに出生前診断がひとつの選択肢としてでてくるかもしれません.従来ならば羊水検査となりますが,羊水検査にはひくいとはいえ流産のリスクをともないます.こんかいの妊娠自体が僥倖であり,そういったリスクにさらされること自体が心理的にたえがたい,そういうことはよくあります.そんなときにNIPTが有力な選択肢となりえます.
NIPTはさまざまな問題をかかえています.あるひとたちにとっては倫理的に許容できない検査であるかもしれませんし,またべつのひとたちにとっては一種の福音であり,希望するひとたちにはできるかぎり提供しなければならないものと考えられています.しかしわれわれ遺伝カウンセラーは,この検査が本質的に是であるとか非であるという考え方はしません.NIPTをひろく普及させよう,あるいは逆に情報提供しないようにしよう,禁止しようとする態度はとらないのです.
われわれのめのまえにあるのはさまざまな状況におかれているクライアントの不安であり躊躇といった具体的な事情です.そんななかからすこしでも前向きな選択肢をかんがえ,それを提示し,そしてクライアントが自分たちで決断し選択していくのを,背中からそっとあとおしすること,それが遺伝カウンセリングの役割といえるかもしれません.
検査希望者へのカウンセリングをおこなって気になったことが2つあります.ひとつは不妊治療によって妊娠されたかたの希望が多いこと,もうひとつは他地域の妊婦さんからの問い合わせがふえていることです.
不妊治療を経験した妊婦さんからの希望がおおいのは,一般に平均年齢がたかいこともあるのですが,不妊治療に肉体精神的,また経済的な負担をうけたぶんだけ,「完全な」こどもを求める傾向があるのかもしれません.しかしこの検査でわかるのは胎児の染色体の病気の,それも一部にしかすぎず,そういった願望が実現することはけっしてありません.そのことは検査前にきちんと説明しています.自費診療がおおい不妊治療の一連の流れに,新出生前診断が自然とはいりこむ傾向だけは絶対にとどめなければならないでしょう.
電話での問い合わせには他地域,特に関東圏からがかなりありますが,われわれも地元地域のニーズに対応するのにいっぱいの状況です.海外にいって検査をうけるという一種の「医療ツーリズム」が営利企業によって企画されたくらいですから,国内であればどこでもという妊婦さんの心情もわかります.しかし現時点では,この検査は医療サービスとしてではなくあくまでも臨床研究の一環ですので,希望があれば,あるいは適応をみたしていれば検査を必ず受けられるわけではありません.
新出生前診断をうけるのは妊婦さんの権利なのか? そもそも倫理的に許容される検査なのか? いまそれが問われています.新出生前検査のニーズにこたえられるように,経済原理を医療もちこむことだけは少なくとも許容できないでしょう.日本社会がこれまでずっと問題を回避しつづけてきた出生前診断について,いまこそ議論を喚起し社会的なコンセンサスをつくらなければならない機会と感じています.
社会の議論の場については,むかしの「臨時行政審議会」といった諮問委員会形式にして,国民のコンセンサス形成を目指すべきですが,国のイニシアチブによる立法による規制には最大限に抑制的であるべきと考えています。なぜならば,生殖行動や生む生まないといったきわめて微妙で個人のプライバシーにかかわる意思決定に関して,国が表だって規制をかける発想はきわめて危険と思うからです.一歩あやまれば容易に優生主義に傾斜していくことになります.専門家が主導して社会におけるコンセンサス形成ができればいいのですが,さて具体的にどうしたらいいものやら.
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カウンタ 3817(2013年5月11日より)