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運慶仏の寺の件

伊豆韮山・運慶仏の寺の件

                                   (室月 淳 2014年1月24日)

左から,不動明王及び二童子立像,阿弥陀如来坐像,毘沙門天立像.いずれも運慶作

 

韮山•願成就院.運慶作の国宝の諸尊像で有名な寺です.

お堂のなかにはいった瞬間に,ああ,このお顔だ,というつぶやきがまず最初にでてきました.これまでなんども写真集などでみた仏像ですね.目をつぶって静かに手をあわせてからあらためて見あげると,正面の如来像の全身がようやく目にはいってきます.そのころには動悸もおさまり気持は静まってきていて,そろそろ拝観モードにはいっています.

両脇侍像にも目をうつします.毘沙門天立像,不動明王及び二童子立像のいずれもみごとなものです.三つの像をまわってそれぞれをたんねんに見ていき,それから諸尊像の前のいすにすわり,ふたたびゆっくりと見まわします.じっと見つめていると,あるとき突然に像容の印象がかわることがあります.そこで変化した印象がまた突然もとにもどることもあり,そのままもどらないままのこともあります.

その前後でどこがどのようにかわったのか? それはあまりに複雑で,またあまりに微細すぎてことばであらわすことはむずかしい.しかししいて表現すると,たとえば毘沙門天の尊容で,目鼻口がばらばらにみえていたものが,突然ひとつのまとまったイメージとなり,顔の輪郭と対比して際だってせまってくる,といったそんな微妙な印象の変化です.

すこしはなれた距離から三尊像を等分にみわたしていると,またいろいろな想念が浮かんでは消えていきます.三つの像の印象はまったく異なります.しかしまったくちがう三つの仏像が、,おなじひとりの仏師の手によるということが否応なく腑におちてくるのです.

如来坐像はゆるぎない厚みと重みを感じさせ,それは祈りの対象の理想形を実現しています.毘沙門天立像は武神としての理想を目指しなら,だがおそらく実際の美男をモデルにしたかのごとく,いい意味で世俗的な生きた人間の香りがします. 不動明王立像はたくましさと勢いの像です.三者三様でそれぞれの理念の究極を実現をはたしています.

いくら見ていても飽きない,いや気持の区切りがつかない,だからこそ立ち去りがたいのです.おそらくこの瞬間はわが人生のときであり,いまが過ぎ去ってしまえばもうふたたび帰ってこない.このかけがえのないときを止めたい,いやそのまま持ち帰りたい.

わたしたちが日ごろ目にするものは,日常のなかで感覚をとおして知覚されたものです.実はそれは仮の姿にすぎず,わたしたちのまわりのすべてのものは常に変化し続け,一瞬たりとも同じ姿をとどめることはありません.そうした世界にわたしたちは生きているのであり,そのなかでしか生きている実感を手にいれることができません.

旅の写真は単なる習慣ではなく,一瞬のうちに過ぎさる人生を永遠にとどめたいと願う人間のはかない願望なのでしょう.それでもなお写真はやはり擬似光景であり,小さく凍りついた影にすぎません.写真を残すことで人生を止めることも,再生することもできません.われわれは生きているときを生きているのであり,それは二度と帰ってこない永遠の一瞬です.

かつて運慶という名の仏師がいた.その人間がつくりあげた仏像は,永遠をそこにとどめるという奇跡を実現した.ある一瞬をたしかに生きるわれわれは,ほんのわずかなあいだですが,その前で自分の生を確かめられるのです.たとえいまが自分の思うとおりにならなくても,そのいまをないがしろにしてはいけない.すべてそれは自分が生きている姿そのものだから.いまというときこそ過去からきて未来につづく人生の一瞬なのです.

仏像がすばらしいと,わたしごときがそれにたいして云々するなどあまりにおこがましいと思えてきます.ここに書き残せることがあるとすれば,それは仏像そのものについてではなく,そういった仏像にふれて惹きおこされるわたしのこころの表面の揺らぎと波立ちといったものがせいぜいです.

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カウンタ 782 (2015年1月25日より)