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ワークショップ批判

「ワークショップ」批判

                                 (室月 淳 2016年2月29日)

もちろんここでの「批判」というのは、根本に立ちかえっての吟味というくらいの意味で、カントが「純粋理性批判」と題したときの「批判」の意味ですね。決してわたしがワークショップを否定しようとしているわけではありません。

もちろんワークショップは留保なくすばらしいもので、到底批判の対象となるようなものではありません。参加型学習ともいわれる新しい学びのスタイルであり、人間にとって根源的な喜びを内包した方法論であり、人類の未来の希望ですらあります。どうしてわたしごときの批判の対象となりましょうか。批判されるべきは、教育理論などでは決してなく、常にわれわれのほうなのです。

ワークショップは、参加者をまず日常の世界から引き離し、一種の隔離された状態におきます。通常は一泊二日のかなりつめこまれたスケジュールが用意され、朝早くから夜遅くまで、食事の時間もふくめて同じメンバーで過ごします。まったく新しい発想や考えかたに触れた受講者は、驚きとともにそれらを体験的に我がものにしていくようになります。そして二日間でなにかしらの壁をこえ、新しい自分に生まれかわったことを実感するのです。

ワークショップは非日常の体験であるからこそ、そこに自己変革のおおきな可能性を秘めているのですが、実は落とし穴もおなじところにあります。しばしば見られるのは、ワークショップを渡り歩くある種の中毒者の存在です。しばらく参加しないでいるとたまらなく参加したくなる、参加しているほかの人間をつい羨んでしまうといった、ワークショップといわば依存関係に陥っている人間をよく見かけます。

ワークショップに参加したそもそもの目的はなんだったのでしょうか? それはおそらく、まったく新しい発想、新しい考えかた、新しいノウハウ、新しいスキルを学び、それを職場に持ちかえって仕事仲間に伝え、明日からの仕事に生かすことにあったはずです。

週末のワークショップにでて、すばらしい体験をし、新しい自分と出会うことがてきた。考えを同じうする新しい仲間とも知りあえた。しかし月曜日からまた日常の職場に戻ると、現実はなかなか難しい。気づいたり得たりした学びはそう簡単には活かせない。それどころか自分の大切にしたい世界と、現実との乖離はますます深まっていきます。

だからまた、同様の週末のワークショップに参加し続けて、特別の瞬間を追い求めることになります。今度はファシリテーターを目指し、最初はアシスタント、助手、補助から始めて、新たな参加者を指導しながら何度も参加を繰り返すことになります。また都合のいいことに、正式なファシリテーターになるためには無限とも思われる階梯が存在していて、数多くのワークショップ参加の実績が求められています。

ここでは当初の手段であったものが目的そのものに変化しています。日常の現実にていねいに、忍耐強く向きあって生きることより、安易に非日常を追い求めているといえるでしょう。ワークショップであたたかく、気持のよい思いをすることは貴重なことかもしれません。また同じ思いを抱いた仲間と語りあうこともすばらしい体験だとは思います。

しかしワークショップは、ひとつの出発点なのです。それはゴールではなく、学びやスキルアップの手段であり方法にすぎません。そこでの学びを活かして、日常の現実にこそ取り組んで変革したり、高めていかなければ意味はまったくないのです。矛盾や居心地の悪いところから逃げずに踏みとどまりながら、日々すこしずつ進むことがたいせつだと思います。

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カウンタ 1875(2016年2月29日より)