ご家族の体験談
チームプレーでQOLアップ
夫は「多重がん」と診断されて、いつ、どこに転移や再発をするのかわからない状態で不安を抱えながらの療養生活でした。そんなときに24時間体制で在宅医を始められた医師を紹介していただきました。
医師もまだ手探り状態のなか、担当医との連絡を取っていただきながらの在宅生活でした。夜中の異変にも対応していただける心強さは本人にとっても家族にとっても安心の重要なポイントでした。また、日頃ケアしてくれる訪問看護師さんに加え、在宅リハビリテーションをしてくださる理学療法士さん、薬を持ってきてくださる薬剤師さんなど、在宅でも多くの方々に関わっていただけることが心強く、安心して生活できました。
ACP(アドバンス・ケア・プランニング)―― 話し合いの大切さ
がんを患った娘への話の取っかかりは、東北の震災を例として、私から口火を切りました。当たり前のように帰宅すると思っていたのに、「さよなら」を言えないお別れはどれほどつらかったか。余命を聞きながらも治療して生きている娘もつらいですよね。明日、もしかしたら事故、災難でみんなと別れてしまうかもしれない。でも今日、今はまだ大丈夫。
「あなたはどうしたい?」
「お母さんの最期はこうしたい。こうしてほしいなあ……」
それからは治療が変わるたびに話し合いました。そして話の最後に毎回、「全部は叶えてあげられるかわからないけど、家族みんな全力であなたの願いを叶える努力をするよ」と伝えました。
最終的に決まったのは、以下のことでした。
- 棺に入れる物
- 最期はきっと麻酔でそのまま逝ってしまうだろうから、麻酔を入れる前のお別れは「じゃあ、またね」と家族みんなで笑って送ってほしい
- 家で普通に逝きたい
娘は限られた時間のなか、「自分がいなくなってもお母さんを時々気にかけてね。母さんはヘタレだから」と笑ってほかの方に託してくれました。
4年半の闘病のなか、お互いに想い、想われたこと。この話し合いは、私にとってとても大きなことであり、大切な大切な宝物です。
支援は一歩ずつ段階を踏んで
夫は58歳でしたが、末期がんとの診断で介護保険の対象でした。担当のケアマネジャーさんが看護師さんということもあり、今後在宅で過ごすためのさまざまなアドバイスをいただきました。子どもたちは県外にいて頼れない状態でしたので、外部の方々のお力をお借りするしかありませんでした。お風呂や手すりなどの住宅改修で、ケアマネジャーさんをはじめ、いろいろな方々が少しずつ家に来られるようになり、在宅医、ヘルパーさん、訪問看護師さん、在宅リハビリテーションの理学療法士さんの方々を、夫は自然に受け入れられるようになりました。
また、夫には日記のように「備忘録」を書いてもらっていたので、ノートを介して自然に話をすることで気持ちを知ることもできました。「エンディングノート」*というと構えてしまいますが、一冊のノートを交換日記のように書くほうが、かしこまった話も違和感なくできたように思います。
*エンディングノート:人生の終末期にあたり、ご本人の想いや希望をご家族などに伝えるために書き留めておくノート。
今とこれからを話し合う
父ががんとなり自宅での療養が始まるにあたり、今まで話したことがなかったことを話すようにしました。そのなかで、これからの療養にあたり、費用を考えなくてはなりませんでしたが、家計管理は父がしていたこともあり、このとき初めて家計の実情について知りました。
民間の医療保険には入っておらず、また預貯金もほとんどなく、在宅療養を始める以前に、治療費の捻出もままならない状況でした。年金は十分にあったのですが、その年金が父の兄弟への貸付に回っていました。
治療や在宅療養に必要なお金を確保するために社会保険の利用を検討し、治療方法の再考などに際してもお金が最大の問題でした。今は兄弟からの返済を含め、なんとか治療と在宅療養ができています。家族がすべてを話し合うところから、心構えや準備が始まると実感しました。
家族は主役ではなく、本人の想いに寄り添うことが大切
父が、命の期限を告げられたとき、病弱な母に代わり娘である自分がすべてを取り仕切らなくてはならないと思っていました。今後の治療方針、療養場所、生活など、何から手をつけたらよいのか……。まず本やインターネットで情報を集め、親戚や友人に相談しながらも、頭のなかが混乱していました。
そんなとき、知り合いの人から「決めるのはお父さんだろ。それはお父さん自身の問題だから、あなただけで決めるべきではないのですよ」と言われたのです。一瞬理解できませんでしたが、はっと気づきました。自分がキーパーソンとしてすべてを背負うのだという過度な気負いから、私は自分の立ち位置を勘違いしていたのです。中心は父本人であること、選択や決断を迫られたときには、「父の意思と願いにいかに沿えるか」を判断の基準にするということ。そんな一番大切なことを見失っていました。
父の人生、父と母の夫婦の物語の主人公はあくまで父、あるいは両親なのだから、脇を固める私たち家族は自分の思いや他人の意見に振り回されず、ただ裏方として主役を支えながら物語の最終章を見届ければよいと思ったとき、覚悟ができました。
笑顔と活気が戻り、準備を整えて故郷へ
父が自宅での療養を決めてから2か月。往診の先生や看護師さんの協力で、病院にいるときよりも痛みが和らぎ、本人、家族が想像していた以上に動けるようになり、笑顔と活気が戻りました。人間は欲が出る生き物のようで、生まれ故郷の佐渡に最後にもう一度行きたい、先祖の墓参りをしたい、親戚にあいさつしたいと希望するようになりました。父は筋金入りの頑固者。言い出したら聞きません。娘としても、なんとか希望を叶えてあげたいと願い、往診の先生と看護師さんに相談しました。先生には、万が一のための紹介状(診療情報提供書)を準備いただき、看護師さんには旅行中の薬の準備、往復の新幹線やフェリーなどの移動手段について助言をもらい、準備万端でいざ佐渡へ。家族全員で降り立った佐渡の澄み切った空気は、移動の疲れを吹き飛ばすほどでした。
夢を実現するために、「無理」と思わないで声に出してみる
夫の夢は、退職後に夫婦で車に乗って日本一周することでした。しかし、58歳でがん治療のために退職せざるを得なくなり、旅行も夢のまた夢となってしまいました。そんなときに「一番行きたかったところは?」と聞いたところ、「北海道の摩周湖」との答えでした。すでに進行して体力もだいぶ落ちておりました。主治医に相談したところ、「知り合いの医者が北海道にいるので連絡しておくから安心して行っておいで」とのこと。その言葉をありがたくいただき2人で摩周湖を目指して旅をしました。霧も晴れ、念願の美しい摩周湖に出会えました。
半年後、今度は自信がついたのか、「台湾の故宮博物院に行ってみたい」と希望し、在宅医が「知り合いが台湾にいるから連絡しておきますよ」と言ってくださり、娘と3人で行くことができました。最高の2つの思い出ができました。
「病人」扱いせず、普段どおりの生活を心がける
夫の訪問看護をお願いして2か月が経った頃、食事のことで言い争いになったことがありました。夫にすれば、食べたくないのに無理に食べさせようとする私に腹が立つ、私にすれば、なんとか食べてもらおうと一生懸命なのに、と互いにストレスが溜まってきていたのでしょう。
冷静になると、当然私が悪いことに気づき「ごめんね」と謝ると、「こちらこそ」と夫が小さい声で答え、今まで言ったこともない言葉に思わず吹き出して2人で笑ってしまいました。
夫を介護することに必死で、「病人」扱いされ焦りいら立つ夫のつらさを思うゆとりをなくしていたことに気づきました。病院なら「病人」ですが、家では今までどおり、一家の主としての日常生活をさせてあげるべきでした。
それ以降は、過去のこと、将来のことなど2人でいろいろ話す時間が増えました。在宅のよさは、そのような話が率直にできる時間がたくさんあることではないかと思います。
頼れる「ケアマネさん」
だんだん母親の状態がよくないと感じられるようになりました。最初のケアマネジャーさんから、事情があって同じセンターに所属している別の方に代わりました。地域の医療や介護について多くの知識をもっている、現場経験が多い、人脈がすごい、そんな「ケアマネさん」でした。母に寄り添い、私の心に寄り添ってくれました。
在宅で床ずれがひどくなったとき医療機関につないでくれたこと、入院している病院を出たらどんな選択肢があるかを提案してくれたこと、日中の心配ごとの解消も兼ねて在宅リハビリテーションを提案して機関につないでくれたこと、介護ベッドの必要性から介護用品の会社につないでくれたこと、訪問看護の看護師さんとしっかり情報の共有をしていたことなど、あのケアマネさんがいたからこそ家族はふんばることができました。
「あの人なら知っている」「あの人ならつないでくれる」「なんとかなる」と思わせてくれるケアマネさんでした。
職場への伝え方とコミュニケーション
両親のがん、配偶者のがんを経験しました。手術や治療が必要になったとき、真っ先に「できるだけそばにいたい」と思いました。しかし、私は会社員です。検査や通院、入退院時、お見舞いなどを考えると、介護休暇制度はすぐに使い切ってしまいます。家族として認められる休暇は決して多くはありません。有給休暇を合わせても、先々に不安が押し寄せ、悩んだ末に退職を視野に入れ、今の家族の病状や、できるだけそばにいたい思い、会社にも迷惑をかけたくない思い、両立できるならばできる限りがんばりたいことを正直に会社に相談しました。
結果的には、会社側からの提案により、私は仕事と介護を両立することができました。具体的には、休暇の取得は時間単位で事後申請すればよい、外出先・在宅も業務時間としてカウント、勤務時間は1週間単位で満たせばよい、などです。
権利として利用できる制度から考えるだけでなく、会社が応援してくれる可能性もあることを忘れずに、相談してよかったと思っています。
退院前の準備、そして自宅へ
母親の入院を機に、介護保険の申請をすることになりました。病院のソーシャルワーカーさんからおおまかな手順を聞き、信頼できる施設のケアマネジャー(ケアマネ)さんに依頼することを決めました。笑顔の感じのいいケアマネさんは、介護認定や手続きについて一から教えてくれ、母の状態、家族の希望などを考えたケアプランを作成してくれました。
退院して自宅へ……。本当ならうれしいことですが、不安もありました。退院前カンファレンスで、数名のスタッフが自宅に来て必要なことを母と検討する機会をもつことにしました。看護師・リハビリテーションスタッフ・ケアマネ・介護用品の会社の方などが一緒に自宅に来てくれました。必要な用品やその配置、気をつけることなどを話し合って母が安心した表情になったことを覚えています。
退院までにできなかった手すりの工事でしたが、工事当日、母の希望で設置場所を追加しました。普段の生活をしたい、自分ができることをしたいという母の願いだったと思います。
レンタル用品と配置は母の行動に合うように揃えてセッティングしてもらいました。母は介護用品のスタッフに信頼を寄せていて、定期的な点検時に「この手すりは私の大事なものなの」とよく笑顔で話していました。
退院前、母は私の知らないところで歩行などのリハビリテーションをしていました。大好きなリハビリテーションスタッフに励まされ支えられていました。なんとか日常生活を取り戻すことができたのは、多くの方のおかげでした。
納得して旅立ちたい気持ちに寄り添って
緊急入院からわずか数日で、娘の残り少ない余命を聞かされました。娘が現実を受け入れるにはあまりにも残酷でした。それでも生きることに貪欲でした。わかっていながらもある程度納得したうえで逝く決心をつけたかったのでしょう。その気持ちを理解して、ソーシャルワーカーさんと連携してセカンドオピニオンを受けるなど、娘の納得できることをしました。
私はその間をぬって在宅の準備、訪問診療の医師・看護師の手配をしました。
その頃の雰囲気を感じ取っていただきたく、亡くなる数日前の会話の一部を抜粋しました。
娘 | 「こんなに早く逝くなら、もっと母さんに孝行しとくんだった」 | |
私 | 「そう? この数年はすごくお母さん孝行してくれたじゃない。お母さんこそいつも考えを押しつけて、駄目な母親だったね。あ~あ、あなたと一緒に逝けたらお母さんの人生パーフェクトなんだけどなあ」 | |
娘 | 「あはは、母さんが一緒ならあの世も楽しいね。猪突猛進していく母さんを笑って見てられるのに」 | |
私 | 「ねっ! ホントそう思ってくれる? でも人生ままならないんだな」 |
その後も二人でケラケラ笑いながら話しました……。
翌日、娘の大好きだったテーマパークに二人で行き、その数日後に
娘 | 「じゃあ、またね」 | |
私 | 「うん、またね。体に気をつけるのよ」 | |
娘 | 「クスクス(笑)」 |
短期間でも食欲が戻って笑顔を見せた夫
肝臓がんと診断された夫は、入院中、食欲が落ち、ほとんど食事が摂れなかったため点滴をしていました。退院してからも看護師さんに手伝ってもらい、鴨居やポールハンガーなどを使って点滴を続けました。数日すると、夫が「点滴、やめられないかな……。お腹が空かないんだよ」と言いました。「では、少しずつ少なくしてみて、食べられるようならやめましょう。身体のだるさもとれるかも」と笑顔の先生。先生のおっしゃるとおりで、点滴をやめると大好きだった中トロを食べたいと言って平らげ、不思議なことに腹水も減り、だるさも軽くなりました。末期といっても病状が変わるのですね。残念ながら食べられた時間は、そうは長く続きませんでしたが、中トロをおいしそうに平らげた夫の笑顔は昨日のことのように覚えています。
いよいよ食事ができなくなりましたが、夫は点滴を断り、腹水も退院前のようにパンパンになることなく、穏やかに天に召されていきました。
信頼できる情報と対話で療養生活を支える
がんの治療にあたっては、医師に丸投げではなく、家族が本人の病状や心の様子をできる限り把握し、精いっぱいのケアに努めることもとても大切で、ケアの基本になると思います。
その思いをもちながら、肺がんを患い実家で在宅療養する兄(70歳代)のケアにあたりました。距離的隔たりには結構苦労しましたが、亡くなるまでの約1年は、週1回の帰省と毎日の電話で連絡をとり、診断や治療の副作用について聞き、当方からはインターネットや資料などの情報を逐一提供しました。
がんが見つかった時点で進行していたことから、抗がん剤による治療を開始しつつ、主治医による治療に加えて本人の病状に適した方法を探すこととしました。そこで、インターネットでの情報から本人の病状(病期や抗がん剤の種類、副作用ほか)について、その類似性に着目しました。その結果、いくつかの参考情報を得ることができました。がんを専門にする信頼できる医療者や、関連する書物から経験談などの情報を集め、類似したものを本人へ詳しく伝えることで本人の治癒のための気持ちアップにつなげたい、という思いをもち続けました。本人と奥さんにできる限り寄り添い、情報を提供したり対話したりすることは、何にも代えがたい大切なことと感じた経験です。
「みんなが集まる日に旅立つわ」
母は80歳、進行した腎臓がんでした。実の娘の私に「介護で面倒をかけて申し訳ない」と、着替えを手伝う、トイレに付き添う、食事を出すたびに謝っていました。私としては、「面倒をかけてくれていいのよ、もっとわがまま言っていいのよ」とやさしく伝えるのですが、母は変わりませんでした。「介護で迷惑をかけるなら、早く死んだほうがまし」とまで追い詰められているようでした。訪問看護師さんは、そんな母の心の痛みを訪問のたびにじっくり聴いてくれていました。でも、特にアドバイスをしているわけではなかったようです。
ですが、ある日突然、看護師さんと話している最中に、視線を窓に向け、希望に満ちあふれた顔になりこう言いました。「おばあちゃんは、この心の痛みを天国までもっていくわ。そう、そう決めたの。そして、家族みんなが集まる日に旅立つわ。準備をお願いね」と。それからも、「申し訳ない」と介護のたびに謝ってはいましたが、心は明るく晴れ晴れしているようでした。そして本当に、宣告どおり家族が集まった日に、皆に見守られるなか、安らかに旅立ちました。
在宅療養のご褒美は、孫娘が施したエンゼルメイク
85歳の母は、肺がんで亡くなりました。私と孫3人で手をつなぎ合い見守るなか、静かに息をひきとりました。息が止まった時間を先生に連絡すると、間もなく到着し死亡確認をしてくださって、看護師さんと一緒に洗髪し、身体を拭き、大好きだった訪問着に着替えました。そして、看護師さんの勧めで20歳代の孫娘が死化粧を行うことになりました。
眉毛を整え、ファンデーションをきれいに塗り、アイライン、チーク、口紅と進めていくと、母が生き生きと蘇ったようになりました。肺がんとわかってから、血色も悪くつらそうだったけれど、最期のお別れの顔を見るたびにすべての苦痛が吹き飛んでいったように感じました。父のときは、病院で亡くなり、家族は病室の外でケアが終わるのを待っていました。在宅で、亡くなったあとのケアを家族が一緒にすることで、こんな素敵なプレゼントが待っていました。
大切な人を失ったご家族へ
私は、10歳代、20歳代で両親、祖父母、そしてつらい時間をともに支えてくれた親や姉のような大切な友人を次々と失くしました。命には限りがあると頭ではわかっていても、大切な人が目の前からいなくなり、触れることができない、声を聞くことができない日常は耐えられない苦しさです。
周囲の方が心配し、善意でかけてくださる言葉にも耳を塞ぎたくなりました。涙の量が決まっているなら、もうとっくに使い果たしたはずだと何度も思いました。
長い時間が経過しても、その思いは消えるわけではなく、今でも風が吹くように突然襲ってきます。ほかに代わりがきかないたった一人の人です。大切な人を失くしたその思いは、癒えることはないのかもしれません。
ですが、人生で、こんなにも大切だと思える人と出会えたこと、時間をともにしたことに感謝し続けたいと思います。苦しさも涙も、心から大切な人であった証です。
妻が教えてくれたこと
私が妻を亡くしたとき、2人の娘はまだ小学校と幼稚園に通っていました。妻がいなくなり、私は途方に暮れることもありましたが、仕事や家事に、子育てにと、とても忙しい時間を過ごすことになりました。ああ、この料理はどうすればよいのだろう、娘たちとはどうコミュニケーションをとればよいのだろうなどと、迷うことは多々ありましたが、妻が教えてくれたことを思い出しては、なんとか今までやってくることができました。今年、末の娘も成人を迎えます。以前妻がよく作り、今では私の得意料理となった栗ごはんで、末娘の20歳の誕生日を祝いたいと思います。
大切な人を送ったあと
私は24時間、娘を中心に生活していました。喪失感とともに自分も生きていることを忘れてしまいました。毎日、娘の所に行きたいと願うことしかできず、普段から心のケアをしていても、悪魔は一瞬の心の隙をついて襲いかかってくるのです。
私はこの悪魔を心に入れないために、
生前 |
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見送り後 |
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そう毎日願いました。そして今は、 | |
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私は、100人のお別れがあれば100通りの悲しみ・苦しみがあると思います。正解はなく、課題はたくさんあると思います。どのようなかたちでも、携わることができれば幸いです。