靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

 厥というのはやっぱりよく分からない。
 一般的な辞書を引いても、虚詞として「その」とか「すなわち」とかの他は、動詞として「岩を掘る」とか「頭をさげてぬかづく」とか、名詞として「石」とかくらいで、そして唐突に中医の術語として「卒倒」とか「手足の冷え」とかが有る。頭をさげすぎてつんのめるのから卒倒まではほんの一歩かも知れないけれど、『素問』や『霊枢』に出てくる厥を理解するには、これではちょっと足りないだろう。
 古医書の訓詁に即して言えば、むしろ「厥は逆なり」であって、辞書の知識から言えば「蹶」(つまづく)の本字であるというのが良いのではないか。では何が何に逆し、つまづくのか。
 『霊枢』厥病篇の頭痛と心痛の厥と真から推し量れば、真は頭脳や心臓の損壊であり、厥は機能障碍であろう。厥頭痛や厥心痛なら、経脈の末端近くを取って治療できると言うのだから、機能の障碍が経脈を変動させ、末端近くのポイントに異常を発生して、だから翻って、ポイントの異常を是正すれば、その情報は経脈の変動を治め、機能の障碍を改善する、という理屈になる。モノ自体が壊れているわけではないから、そうしたことが期待できるわけだ。情報伝達物質としての気が伝達経路としての経脈上でつまづいている。
 『霊枢』経脈篇の是動病に、肺手太陰は臂厥、胃足陽明は骭厥、心手少陰は臂厥、足太陽は踝厥、腎足少陰は骨厥、足少陽は陽厥とある。是動病は経脈説を発想する起点となったポイントの主治病症である。躯幹に発生した病症が、先のほうの経脈上に気のつまづきを生む。心肺の病症では上肢に起こし、胃の病症ではスネに起こし、背中に関わる病症では踝に起こし、腎の病症では深部の骨に起こす。足少陽の陽厥は少し毛色が変わっていて、ぴったりの言い回しを思いつかないが、考え方としてはこれらに倣うべきだろう。
 身体は経脈によって縦横に連絡されていると認識され、疾病はいずれもその連絡の齟齬を伴っていると考えるようになれば、肉体という物質そのものの損壊によるものではない限り、病苦は全て「経脈上の気のつまづき」と表現することができる。『素問』、『霊枢』において病症を説明するのに最も多く用いられる文字であるのも当然であろう。我々、経脈説を奉じるものの観点から言えば、広義の厥は病と言うのとほとんど同じである。そして、つまづきが最も顕著な症状であるところの卒倒とか手足の冷えを、その狭義とする。

諸原所生

『太素』21諸原所生
五藏有六府六府有十二原
楊上善注:《八十難》五藏皆以第三輸為原,各二,以為十原也,又取手少陰經第三輸二,為十二原。六府皆井滎輸經四穴之後,別立一原,六府各二,為十二原。然則五藏六府有廿四原。原者,齊下腎間動氣,人之生命也,十二經之根本也,故名為原。三膲行原氣,經營五藏六府,故三膲者,原氣之別使也。行氣五藏第輸,故第三輸名原。六府以第四穴為原。夫原氣者,三膲之尊號,故三膲行原氣,止第四穴輸,名為原也。今五藏六府有十二原者,言五藏六府各有十二原也,合而言之,亦有廿四原。言六府有十二原者,後人妄加二字耳。
 八十難の一は、底本には無い。
 六府は井滎輸經四穴の後に、別に一原を立てると言いながら、「六府は第四穴を以て原と為す」と言うのはおかしい。は衍文では三の誤りではないか。
 を、缺巻覆刻では収とし、『黄帝内経太素校注』は以に似ると言うが、杏雨書屋にある原本では左上部に虫食いの痕が有るとは言え、まず間違いなく取。
 を、缺巻覆刻では故としているが、明らかに見間違い。『黄帝内経太素校注』は放としているが、杏雨書屋にある原本では上部に虫食いの痕が有る。恐らくは业の下に放で、『干禄字書』に發(厳密にはこれも下部が弓に攵)の俗とする字の弓がさらに方に変わったものだろう。
 第輸、缺巻覆刻では第一輸とするが、杏雨書屋にある原本では上部に虫食いの痕が有り、ほとんど間違いなく三。
 ここのところ、意味としては「三焦は原気をめぐらして、五蔵六府を経営するものであるから、三焦は原気の別使である。気をめぐらして五蔵では第三輸に発する、だから第三輸を原と名づける。六府では第四輸を原とする。そもそも原気というのは三焦の尊号であるから、三焦が原気をめぐらして、(六府においては)第四の穴輸に止まる、そこでそれを名づけて原とする」と言うことだろうと思う。ただ、それを表現するのにこういう書き方が相応しいのかどうか、やや不審である。文字の誤りが有るのではないか。
 楊上善は、「五藏六府有十二原」とは、五蔵と六府のそれぞれに十二原が有るという意味だと説明しており、また文に「六府有十二原」と言うのは、後人が妄りに二字を加えただけだと説明する。してみると楊上善の見ていた経文は「五藏六府六府有十二原」であった可能性が有り、妄りに加えられたと言うのは重複している「六府」二字ではないか。(実のところ、ここのところはよく分からない。)
 言を、『黄帝内経太素校注』は又言だと言うが、杏雨書屋にある原本では間違いなく文言である。

岐黄

 むかし、まだ原塾を始めたばかりの頃、島田先生らが、多分、東洋学術出版社の山本社長の先導で、中国各地の中医学院を訪問したことが有った。そのとき創刊したばかりの『塾報』を持ってまわって、学術交流を提案してみえた。まもなく天津中医学院から交流の打診があって、そのころ、郭靄春教授の『黄帝内経素問校注語訳』が仲間内で評判になっていたことも有って、飛びつくようにして行ってきました。一九八五年の十一月のことです。図はその時の記念品のバッチです。当時、無理矢理コピー機で採った画像が残ってました。本当は赤を主体としてます。何かの交流会の使い回しだと思うけれど、裏の刻印は新しくしたあったように記憶しています。これが「岐黄」の文字が入ったモノの初めです。
 上海に居たときには、いくつもの印を刻ってもらいました。大体は豫園の集雲閣か南京路の朶雲軒で、別に書法の趣味が有るわけじゃないから、ほとんどは蔵書印ですが、いくつかはお遊びです。「神麹斎」の他に、「蔭軒」とか「無齋」とか。「無齋」は友人に進呈してしまったけれど、篆書でこの二字を横に並べると実に良い感じになっていた。「岐黄」はどういうつもりだったか覚えてないが、瑪瑙の印材を見つけて適当な文字を選んだんだろう。無論、岐伯と黄帝なんだけど、考えてみると「岐阜の黄帝」でもある。
 そこで、読書会の名を「読古医書岐黄会」とする。じつは名前を必要とするほどの規模の会じゃない。ほんの数人のグループです。読古医書は李今庸先生の『読古医書随筆』にあやかって、しんどいけれどドッコイショ、岐黄会は「岐阜で黄帝内経」について、はなそうかいキコウカイです。

右手に酒杯

 晋の畢卓が、「一手に蟹螯を持ち、一手に酒盃を持ちて、酒池中に拍浮すれば、一生を了るにたる」と云ったと『世説新語』に載っていて、天晴れ酒飲みの蟹好きの名言と思っていたけれど、『酒牌』の解説によると、『晋書』の畢卓の伝には「得酒滿數百斛船,四時甘味置兩頭,右手持酒杯,左手持蟹螯,拍浮酒船中,便足了一生矣。」とあるらしい。「右手に酒杯を持ち」なんですね。
 酣酣斎酒牌にはもう一つ別の話が使われている。畢卓が吏部郎だったとき、隣の同僚の家が新たに酒を醸したのを知り、夜間忍び込んで盗み飲みをして、案の定、酒庫の番人に縛られた。朝になって、隣の畢吏部であるのがわかったから、釈放されたのだけれど、今度は主人を甕の側まで引っ張っていって、べろんべろんになるまで一緒に飲んだ。

留于胸腹中

『霊枢』衛気失常篇
黄帝曰:衛氣之留于腹中,稸積不行,苑蘊不得常所,使人肢脇胃中滿,喘呼逆息者,何以去之。
伯高曰:其氣積于胸中者,上取之;積于腹中者,下取之;上下皆滿者,傍取之。
黄帝曰:取之奈何?
伯高對曰:積於上,寫人迎、天突、喉中;積于下者,寫三里與氣街;上下皆滿者,上下取之;重者,與季脇之下一寸,雞足取之。診視其脉大而弦急,及絶不至者,及腹皮急甚者,不可刺也。
黄帝曰:善。
【校】
:郭靄春説によって補う。伯高は「積于胸中」と「積于腹中」に分けて答えている。
人迎:『霊枢』は大迎に作るが、『甲乙』によって改める。『甲乙』には「胸滿,呼吸喘渇,窮詘窘不得息,刺人迎」とあるが、大迎にそれらしい主治は無い。
重者:郭靄春の説によって、與季脇之下一寸の下から移す。
【解】
 胸中に積するものには、人迎、天突、喉中を瀉す。これは海論で「膻中は気の海と為す、その輸は上は柱骨の上下に在り、前は人迎に在り」というのと通じるところが有る。
 腹中に積するものには、三里と気街を瀉す。これは海論で「胃は水穀の海と為す、その輸は上は気街に在り、下は三里に至る」というのと同じだろう。
 これによって考えれば、海論の「水穀之海」は、もう一つの可能性として言及した「胃すなわち足陽明」というのが良さそうである。輸穴はやはり気衝穴と三里穴で、胸中については上の頚部の前後に取り、腹中については下の足陽明の上下に取る。

水穀之海

 『太素』5四海合(『霊枢』海論)に、「胃者水穀之海,其輸上在氣街,下至三里」とあり、この気街を一般には「毛際の両傍、鼠鼷上一寸の脈動処」である気衝穴と解している。渋江全善『霊枢講義』に引く楊上善も張介賓も同意見のようである。しかし、これはどうにも腑に落ちない。他の三海はおおむね問題の箇所を上下あるいは前後に挟み込んでいる。水穀の海の二輸穴だけが、いずれも胃よりも下部に在ると言うのはおかしい。
 森立之『素問攷注』の靈蘭祕典論「膻中者,臣使之官,喜樂出焉」の注に引く多紀元胤『体雅』には、『千金方』の失欠頬車蹉に「灸氣街二百壯」とした上で、「胸前喉下甲骨中」とあり、「亦名氣堂」とあると紹介する。そこで、元胤が按ずるに「甲骨はまた臆骨であって、その穴はおそらくは膻中である。蓋し膻中は気の海と為す、故に気衝と名づけ、また気堂と名づけるものか。」
 考えてみれば経文に明らかに「その輸はは気街に在る」と云うのに、ほとんど誰もが無視してきたのは奇怪である。気街は胃の上方に在って、気が通行する処のはずである。元胤の按語に言う膻中は有力な候補ではあるが、残念ながら『甲乙』では胃を主治するらしい気配が無い。他の文献にもあまり有りそうにない。『太素』10経脈根結(『霊枢』根結)には、足陽明は外陵に入り人迎に結ぶという記述が有る。外陵は三里であり、足陽明が消化器系つまり水穀に関わる脈ということは常識であったろうから、その輸は「上は人迎に在り、下は三里に至る」というほうが妥当であるかも知れない。もっとも、人迎にも胃を主治するらしい記述はあまり無さそうであるが。
 もう一つの可能性として、『太素』10経脈標本(『霊枢』衛気篇)には四街が有って、三つは胸気、腹気、頭気の街で、四海の気の海、十二経脈の海、髄の海とほぼ対応している。のこる一つの胻気が水穀の気と対応しているかどうかは微妙なところである。四街では上から単純に頭、胸、腹、胻のどこに気が在るかだったものを、四海ではもう少し深遠な意味を持たせて、頭は脳で髄の海、胸は膻中で気の海、腹は衝脈で十二経脈の海としたのだから、胻は筋脈の海でもよかったろうに水穀の海としたい人がいて、もともとは後の足太陽で「気街と承山、踝の上下に止める」だったものを、換骨奪胎して前にもってきて、足陽明で「上は気街に在り、下は三里に至る」としたのではないか。改編のしかたが安直だったので、不都合な点が残ってしまったけれど、胃とは足陽明の言い換えであって、腹部の胃袋のことではない。つまり、「胃すなわち足陽明は水穀の海、上は気街に在り、下は三里に至る。」

戒求仙也

 最近そのものずばり『酒牌』という本が山東画報出版社から出て、任渭長の「列仙酒牌」も紹介されている。その中に老子の牌について、白居易の新楽府「海漫漫 戒求仙也」から採られたというのは甚だ良いが、「酒令避清乾隆帝玄燁之諱,改云元元」は腑に落ちない。どちらかというと「玄〃」に見えませんか。つまり老子を玄元皇帝と呼んでいるわけじゃなくて、『道徳経』の五千言を「玄のまた玄なるもの」と言ったんじゃないかね。では、諱を避けなくてよかったのか、というと末筆を缺いているみたいです。もっとも、筆でさらさらと書かれたら、缺いているか缺いてないかの判定には、虫眼鏡が要りそうだけど。
海漫漫
直下無底旁無邊
雲濤煙浪最深處
人傳中有三神山
山上多生不死藥
服之羽化爲天仙
秦皇漢武信此語
方士年年采藥去
蓬萊今古但聞名
煙水茫茫無覓處
海漫漫 風浩浩
眼穿不見蓬萊島
不見蓬萊不敢歸
童男丱女舟中老
徐福文成多誑誕
上元太一虛祈禱
君看驪山頂上茂陵頭
畢竟悲風吹蔓草
何况玄元聖祖五千言
不言藥 不言仙
不言白日昇靑天

点と線

 現在の常識では、ツボと経脈の関係はどういうことになっているのだろう。全てのツボが経脈に属して、言い換えれば経脈はツボとツボをつなぐ線ということだろうか。譬えて言えば、鉄道の線路に沿って点々と駅が有る。いくつかの駅にはいくつかの本線が関係するが、基本的には駅はナントカ線の駅である。
 これは少し違うんじゃないか。
 飛行機の航路と空港と譬えたほうがまだしも、かも知れない。つまり成田空港から首都空港へ飛ぶ。上空を経由したところで、浦東空港に降りなければ、上海とは直接の関係はない。
 なんでこんなふうに考えるかというと、経脈説発想の起源は、原穴と五蔵、下合穴と六府を結ぶモノ、つまり、診断と治療のポイントと患部をつなぐライン、これが一つ。もう一つは根結とか標本、つまり四肢末端近くの起点と躯幹や頚部の止点の関係。本輸と頚周りの諸穴もおそらくは同じ仲間でしょう。で、実際には診断と治療のポイントと患部の関係というのは、身体のあちらこちらに有って、それぞれに両者をつなぐラインが有ったわけだけれど、手足陰陽の十二条の経脈にまとめ上げる過程では、それはまあ経由域のポイントを支配下に組み込んでいった。
 ここでややこしいのは、古代中国の人々というのは、かなり極端に即物的な思考の持ち主だったみたいで、つなぐラインが有るということは、そういうモノが有るということだ、そうなるとそれは当然血管である。血管という具体的なモノとの関係で、これはこれにあれはあれにと配属が決まってくれば、人の思考習慣としては、駅と駅とをつないで線路がひかれたという感覚になる。実際には多くの場合はノンストップの直行列車だったと思うんですがね。
 で、ツボは十二経脈上に在るのが当然ということになると、今度は経脈はツボをつないで記述されるようになる。行き着くところの一つの成果が、つまり『十四経発揮』であって、えらくありがたがる人もいるらしいけれど、私はあんまり好きじゃない。特に腹部や背部の諸穴が、内部を行く経脈に隷属しているなんて思えない。重要とされる募穴や腧穴が、別の五蔵六府を冠した脈に属しているなんて気持ちが悪い。そもそも経脈篇の循環も眉唾だと思っている。下って大腸を絡うとか、小腸を絡うとか、そんなの蔵と府を表裏にして、その表裏関係を陰陽表裏にのっけたかっただけでしょう。太陰と陽明は表裏だけれど、肺と手太陰の関係はともかくとして、大腸と手陽明なんてほとんど全く関係ないでしょう。心と手少陰の関係はともかくとして、小腸と手太陽なんてほとんど全く関係ないでしょう。肺と大腸、心と小腸の表裏関係の起源がはっきりしないから、その妥当性はどう評価したらいいのか微妙なところだけれど。

桃園結義


 上は青木正児「支那の絵本」に紹介されている元刻全相三国志平話の挿図である。
 「筆致は素朴の中に姿態備わり、洵に珍とするに足るものである。」
 絵の評価はこれに尽きようが、画かれている内容は、細かく見ると興味が尽きない。先ず桃園結義なんだけれど、桃は右上端にちょこっと画かれただけで、柳の木が二本有りそうで、ここも桃と柳の組み合わせだ。絵の右半は専ら酒宴に興を添える楽団である。野郎ばかりなのは三国志の性格から武骨を貴んだのだろう。太鼓と鼓と笛と、右端のはおそらくは拍板だろう。簡単に言えば短冊状の板からなるカスタネットのようなもの。太鼓が平たいようだが、これは今でも普通に有るものなのかどうか。中央のテーブルに載っているのはたぶん酒瓶で、左のテーブルには各人にそれぞれ酒杯と箸と小皿が有る。酒肴は三皿。少しずつ違って画かれているみたいだから三種であって、三人に一皿ずつではなさそうである。だから小皿は取り皿だろう。盛り上げた姿から乾きものかと思ったけれど、箸が添えられてるところからするとそうとも限らない。テーブルの下には黒犬が横たわっている。中国だからといって狆やチャウチャウばかりではない。三人の豪傑の脇にはそれぞれの武具を従者が捧げ持っている。張飛に青竜刀、劉備に剣、関羽は何だかわからない。青竜刀は関羽じゃないか、などと言うなかれ。演義ではこうして飲んでいるところへ商人の一行が通りかかり、鉄の寄贈を承けて、劉備は二振りの剣、関羽は青竜偃月刀、張飛は蛇矛をあつらえている。この図はむしろ正確なのである。鉄は当時の統制品で、そう簡単に好みの武具をあつらえることはできなかった。つまり、鑌鉄一千斤を贈ってくれた商人というのもそんなにまともな商人ではなかろうし、志に感じてなんてきれいごとじゃなくて、暗に強請ったのかも知れない。関羽を関王としるしているのも面白い。三国志の中でも関公とくらいは、呼ばれておかしくなかったろうが、今や関帝である。ここではその中間の関王。
 で、ここにながながと三国志の図をながめて戯言を吐いてきたのは、実は「刘俻」を見つけたからなんです。こういう俗字、元代にすでに有ったんですね。関王も關じゃなくて「関」です。

防禦

 『東京夢華録』に仇防禦とか蓋防禦とかいう薬屋が登場し、日本語訳の注には「防禦とは武官の防禦使のことであろうが、医者がどうしてこの官名を僭称するようになったかは未詳」と言っているけれど、中国伝統医学が「未病を治す」と唱えて予防重視を標榜していると関係が有るのではなかろうか。
 注釈には清明上河図にも、某防禦が描かれているというが、私には見つからない。(張択瑞のものでなく、清院本のことだろうか。でも、そうだったらそう書くべきだろう。)
 大夫なら一軒有るらしい。ちょっと不明瞭になっているが「楊大夫經驗」云々じゃないかと思う。対になった向こうがわの看板は「楊家應症」云々だろう。現代でも大夫と書いてdaifuと発音すれば、医者のことである。

 大夫だってもとはと言えば、卿の下で士の上の古代の官名である。僭称には違いない。こんなに堂々と看板に掲げて良いんだろうか。
 巻末近くには「趙太丞家」も有る。太医院の属官に太丞というのが有るかどうかは調べてないけれど、これも多分は僭称。
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