靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

聾而痛

『太素』巻30耳聾(『霊枢』雑病篇)
聾而不痛,取足少陽;聾而痛,取手陽明。
 『甲乙』で、聾で痛むことを言うのは、12手太陽少陽脈動發耳病第五の「耳痛聾鳴,上關主之,刺不可深」のみである。そこで、上関は手陽明と関係が有るかとみてみると、『甲乙』03耳前後凡二十穴第十一には「手少陽、足陽明之會」と言う。問題にしている経文の「手陽明」は本当にこれで良いのか、「足陽明」の誤りではないか、あるいはむしろ「手少陽」のほうが良くはないか。
 それに、『甲乙』ではこの条は「手太陽少陽脈動發耳病」に在る。もし足少陽か手陽明(もしくは足陽明)かの選択であれば、篇名に言う手太陽とも少陽とも関係が無い。ただし、『甲乙』の篇名の体例は良く分からない。単に耳に関する条だからそこに置いたのかも知れないし、そもそも『明堂』部分の諸穴の大部分が、本当に篇名に挙げる経脈に在るのかどうかも、実はまだ検討していない。
 雑病篇のこの条の上には喉痺、瘧、歯痛が有り、下に衂血が有る。いずれも同名経の足を取るか手を取るかの二者択一になっている。上関と対にする最適の穴は下関であろうが、「陽明、少陽之會」である。もし経文を「聾而不痛,取足少陽;聾而痛,取手少陽」にしてしまえば、上下の通例に叶うし、上に言った難癖もクリヤする。ただし、この手の校改は概ね妄改ということになっている。
 もう一つ贅言すれば、『甲乙』の同じ篇に「聾,耳中不通,合谷主之」とある。これも何だか頗る怪しい。通と痛は同音であるが、古来これを疑った人は無さそうである。合谷は言わずもがなの手陽明。怪しむべし、怪しむべし。

金屈卮


勸君金屈卮 滿酌不須辭 花發多風雨 人生足別離

 この于武陵の勧酒の詩、井伏鱒二の訳が名訳なのか迷訳なのか、そっち方面ばかり気になって、金屈卮とは何ぞや、なんて考えたことなかったですね。考えてみればこれは当然ながら酒器である。卮というのは『漢辞海』によると、「木を円筒状に曲げ、漆をぬった酒器」で、ジョッキのように持ち手がつくことが多く、ふたがつくものもあって、容量はビヤホールに喩えて言えば、大きければピッチャー以上、普通のものでも中ジョッキに近いそうです。ちょっとイメージと違うなあ。

 青木正児先生の『中華飲酒詩選』の解説では、「つまりコーヒイ茶碗のやうに取手の有る杯」ということで、そこにも引かれている宋・孟元老『東京夢華録』によれば、宮中の宴会に用いる盞はみな屈卮であって、殿上では純金、廊下では純銀のものを用いた。勿論、民間でもこの手の物は用いられたはずで、少なくとも青木先生の経験では「此の式の物は現今も行われてゐる。」

 そういえば、京劇の舞台に登場する酒杯にも取手が有って、金属製のようですね。それから想像しても、まあコーヒーカップ並みの大きさというのが妥当じゃなかろうか。

局部の病証学

 全体像を把握する為には病証学が必要であり、局部が全体を修正しうる為には経脈説が必要である。
 よく考えてみると、術者にできることは局部への施術だけである。全体像が把握され、蔵府・経脈がそれとどのように関係しているかが説明されれば、いくつかの経脈を選び、あるいは兪募穴を取って、それぞれに相応しい手技を施すことによって、全体像を理想の状態にもっていくことができるはずである。経穴と言い兪募穴と言う、いずれも局部である。
 それでは、全体像は局部の具体的な状況までも表現しているのか。これは、いつもそうだ、とは言えないのではなかろうか。局部が全体を構成し、全体が局部を支配するのは間違いないとして、相互に影響する過程に在っては(現実にはいつもそうした過程に在る)、相対的に別々に病証を把握する必要が有るのではないか。
 ところが、脈診術にせよ病証学にせよ、全体像を知ろうとして発展してきたというのが歴史の趨勢であろうから、今ここで局部の病証を知るためには、別の方策をたてる必要が有るだろう。少なくとも、独り寸口を取る脈診から十二経脈みな動脈有りへの反転とか、さらにはその色を見、その膚を按じ、その病を問うことの意義を再認識し体系化する必要が有るのではないか。
 と、ここまで書いた時に、次のような意見に接した。
脉状が現している病証は、今現在、一番苦しんでいる症状だと思います。
 それでは多分、脉状が現している病証は、実は局部の病証だと思う。そして実在するものはいつも局部であって、全体というのはついに虚構である。局部を足し算すれば全体になるのではなく、局部を見渡して「構想」しなければ全体というようなものは存在しない。脈診によって全体像を把握するというのは多分錯覚であり、把握のための材料を求めていたのだろう。局部の病証に従って治療し、局部の病態の変化はまた脈状に反映して、新たな病証として把握される。病証の全体像とは、そうした変化の予想図、見取り図であろうか。(引いた句をちゃかしているのではありません。この句によって改心あるいは回心したのです。念のため。)

飢則煩,飽則…

 すでに2006-04-11の「選穴論」のつけたしで触れたけれど、改めて:
『太素』巻30風逆(『霊枢』癲狂篇)
風逆,暴四支腫,身𨻽𨻽,唏然時寒,飢則煩,飽則喜變,取手太陰表裏、足少陰、陽明之經,肉清取滎,骨清取井也。
 これに類似する『甲乙』の記事は:
『甲乙』巻08五蔵伝病発寒熱第一下
寒熱欬嘔沫,掌中熱,虚則肩背寒慄,少氣不足以息,寒厥交兩手而瞀,口沫出;實則肩背熱痛,汗出,四肢暴腫,身濕(一本作溫),揺時寒熱,饑則煩,飽則善面色變(一作癰),口噤不開,惡風泣出,列缺主之。
 身𨻽𨻽と身濕が相応し、𨻽が漯に通じて汗出貌なら、一本の温は取れない。飽くときは喜變が善面色變になっていて、さらに癰に作るものも有るという。このいずれが是であるかは分からない。列缺は手太陰経脈の穴ではあるが、絡穴であって、経でも滎でも井でもない。
『甲乙』巻10陽受病発風第二下
風逆暴四肢腫濕,則唏然寒,飢則煩心,飽則眩,大都主之。
 飢なら煩心、飽なら眩のほうが、煩と善変(一般的な解釈では煩躁と不安)よりはまだ分かりやすい。大都は滎であるが、足太陰であって、足太陰は『太素』巻30風逆の記事には出てこない。
 また、『甲乙』巻10陽受病発風第二下には「風逆,四肢腫,復溜主之」と「四肢腫,身濕,豐隆主之」も有る。復溜は足少陰の経だが、豊隆は足陽明の絡である。
 なお、『霊枢』癲狂篇のこの条の解説に『甲乙』を引くのは、渋江抽斎『霊枢講義』の大都の主治くらいで、しかもそれについての按語は何も無い。
 『太素』風逆の記事と、これらの『甲乙』の主治は相互に関わっているはずだが、どれが正しいとも言い難い。つまり、『霊枢』も『甲乙』もそう簡単に金科玉条と崇めるわけにはいかない。

不可附席

『太素』26寒熱雑説(『霊枢』寒熱病篇)
皮寒熱,皮不可附席,毛髮焦,鼻槀腊,不得汗。取三陽之胳,補手太陰。
肌寒熱,肌痛,毛髮焦而脣槀腊,不得汗。取三陽於下以去其血者,補太陰以出其汗。
骨寒熱,病毋所安,汗注不休。齒未槀,取其少陰於陰股之胳;齒已槀,死不治。
 附は近に通じる。席はムシロ、敷物。どうして敷物に近づけないのかいささか腑に落ちないが、『太素』22五節刺(『霊枢』刺節真邪篇)にも「熱於懷炭,外重絲帛衣,不可近身,又可不近席」とある。突飛な修辞というわけではない。ただし、前が重絲帛衣を身に近づけることを云々しているのであれば、後も重絲帛衣を席に近づけることを云々しているのであって、身を席に近づけるかどうかの問題ではないのかも知れない。
 寒熱雑説の経文で、皮寒熱と肌寒熱を対比検討してみると、症状としては乾くのが鼻か唇かであって、皮不可近席と肌痛が対になっている。また骨寒熱の病毋所安は、『甲乙経』では病が痛になっている。してみると、不可附席も熱いからというばかりでなくて、皮膚が痛んで席に着けないのかも知れない。(上の「身を席に近づけるかどうかの問題ではないのかも」とは齟齬する。)
 皮寒熱の「三陽之胳」について、楊上善は「三陽胳在手上大支脈,三陽有餘,可寫之」と言う。うっかり読むと、手少陽脈の三陽絡穴と解しているようだが、そうではなさそうである。渋江抽斎『霊枢講義』に「手三陽の別絡を言うに似る、因って攷えるに三陽絡は、泛く手足三陽の絡脈を指す、蓋し陽経は表を主る、故に其の絡を刺すなり」と言っている。案ずるに三陽は太陽、陽明、少陽の三つの陽を言うに過ぎないであろう。陽の部の絡脈(細絡)を取る。手少陽脈の三陽絡穴と解するのは、おそらくは楊注の読み誤り。張介賓は、三陽は足太陽であって、その絡穴は飛揚穴であるというが、これも不審。また、『甲乙経』の三陽絡穴にも飛揚穴にもここに相応しいような主治は無い。
 肌寒熱の「三陽於下」についても、楊上善は「足三陽盛,故去其血也」と言い、足の太陽、陽明、少陽の部位に細絡を探して血を去るようである。少なくとも三陽という名の穴が有るようには言ってない。
 肌寒熱に三陽を「下に取る」と有るところからすれば、皮寒熱は「上に取る」で手の三陽で良いだろう。
 発汗させるために、皮寒熱では手の、肌寒熱では足の太陰を補う。
 つまり、皮寒熱と肌寒熱はほとんどぴったり対をなしている。解釈も対になるようにすべきである。
 骨寒熱は、その次の段階に入ってしまっている。それにしても痛と汗と槁を言っている。治療できるものは、やはり刺絡する。

選穴論

乗黄さんからの質問:
(前略)『霊枢』の時代において、おそらくはその時代の原穴を選穴していたであろうことは想像できます。一方、現代において所謂、古典派と言われる会では選穴の段階で、「井穴だ。兪穴だ。いや、合穴だ!」と様々な理論でその選穴法が議論されます。確かに、井穴と合穴においては明らかな位置的差は大きいものがありますが、井穴と栄穴のようにその差の少ないものに関して、理論的な説明ができるのでしょうか?まぁ、五行的な理論や運気論的な解答はあるかもしれませんが。『霊枢』雑病の時代においては、原穴から少し遠位にあろうが、近位にあろうが、感覚的に取穴したところが、原穴であったんではないのでしょうか?そうだとするならば、「井穴だ。いや経穴だ。いやいや合穴だ!」と議論するよりも、原穴とされる穴からより近位にとるか遠位に取穴するのか?という論理の方がより現実的ではないでしょうか?その理論構成において、原穴または遠位の穴を取穴することが導き出されたら、あとは感覚で取穴することになるのではないでしょうか?(後略)
神麹斎の応答:
 今、私もほぼ同じようなことを考えています。『霊枢』の時代、というよりもそれよりやや前の時代には、この経脈の病とにらんだら、選ぶべき経穴は常識的に決まっていたのだと思います。(もっと極端な言い方をすれば、病という電灯から経脈というコードが延びて、その先にツボという一つのスイッチが有る。)それは井滎兪経合の中では中央の兪であることが多く、だから兪が陰経脈の原穴ということになっていますが、乗黄さんが言うようにもう少し巾が有って、その付近でその術者にとって使いやすいものを使えば良かったのかも知れない。(各家庭でスイッチの在処はそれぞれに異なる。)で、現実には一つの常識的な経穴ですむわけもないから、より指先側に取ってみるとか、より肘膝側に取ってみるとか、工夫はしていたはずです。(暗闇で、有ると思ったスイッチが手に触れなければ、そのあたりの壁を探ってみる。)工夫しているうちには、どういう病状ならどういう傾向といった経験も蓄積されたはずです。(例えば、住んでいる人の身長から、スイッチの高さは推し測れる。)『霊枢』の段階における結論としては、春は井、夏は滎、秋は兪、長夏は経、冬は合。またこれを陽気の趨勢、病の状態(例えば『霊枢』順気一日分為四時篇の蔵、色、時、音、味?)に置き換える。ただ、ここには経験から抽出された真実ではなくて、理屈から導き出された空論であるという懼れも有る。
 経脈篇の「不盛不虚,以経取之」も、盛でも虚でもなければ、井滎兪経合の中央付近の経を取っておけという意味じゃないかと夢想しています。兪ではなくて経というところがちょっと不安なんですが、「兪経」がニュートラルで、あとは「井滎」か「合」かの選択だったという可能性は有ると思う。
 今、頭を悩ませているのは、例えば井が春で滎が夏、井が木で滎は火だとして、井滎を取るのは陽気が盛んになってくるのを後押ししている(補)のか、それとも風熱という陽の亢奮を抑えにかかっている(瀉)のか。
また
 『霊枢』順気一日分為四時篇の蔵、色、時、音、味は、本当はよく分からないんです。『難経』六十八難の「井主心下滿,榮主身熱,兪主體重節痛,經主喘咳寒熱,合主逆氣而泄」と何か繋がりが有りそうなんですが、それもまだ思いつきの段階です。
またまた
『太素』巻30風逆(『霊枢』癲狂篇)
風逆,暴四支腫,身𨻽𨻽,唏然時寒,飢則煩,飽則喜變,取手太陰表裏、足少陰、陽明之經,肉清取滎,骨清取井也。
 手太陰表裏、足少陰、陽明の経を取るというのが、ニュートラルなら経を取るという意味なのかどうかはよく分からないが、肉が冷えていれば滎、骨が冷えていれば井というのはおもしろい。骨の冷えが最も深くて井、肉の冷えはそれより浅くて滎。もっと浅い皮の冷えなら、合かも知れない。『太素』巻26寒熱雑説(『霊枢』寒熱病篇)には、皮寒熱、肌寒熱、骨寒熱が出てくる。分類するとしたら、普通はその程度までなのだろう。
 楊上善は五行説で説明しているが、感心しない。
 選穴論とは別の話だが、この「飢則煩,飽則喜變」はよく分からない。一般的な解釈では煩躁と不安だが、それではそれほど違いが有りそうに思えない。実は『甲乙』巻10陽受病發風に「風逆暴四肢腫濕,則唏然寒,飢則煩心,飽則眩,大都主之」とある。「飢なら煩心、飽なら眩暈」のほうがまだ分かりやすい。また、大都は足太陰の滎である。これも『霊枢』の断片が『甲乙』明堂部分の主治の材料になっている例だろうが、かんじんの穴の指示が異なってる。

5月の読書会

ちょっと事情が有りまして、5月の読書会は第一日曜日に変更です。
 5月7日(日曜日)午後1時~5時
 場所:岐阜市南部コミュニティーセンター多目的室


『霊枢』雑病篇はもう少し読み込む必要が有ると思います。
それと『甲乙経』の『明堂』部分の構成について復習するつもりです。

城趾の桜

 読書会の前に近くの加納城本丸跡で、花見をしてきました。
 本丸跡といっても何にも有りません。空っぽです。もっともこれは江戸時代からすでにそうだったらしい。

 だから、この広重の浮世絵に見えるのは、藩主の御殿が在った二の丸の櫓じゃないかと思います。大名行列が通っているのは中山道で、城の北を東西に走る。それを挟んで町屋が有って、絵の地点は東の町外れなんでしょう。もう少し先から、南へ御鮨街道が走り、私の先祖の何人かはその辺りに住んでました。御鮨というのは将軍家に献上する鮎鮨です。加納城は西への備えですからね、士屋敷は専ら西に広がって、東は堀代わりの川を隔てて田んぼだったようです。
 城跡の花見は空っぽで、車は入ってこられないし、人出もそんなに無いし、何と言ってもカラオケが無いのが良いんだけれど、出店も無いからねえ、それがちょっと寂しい。
 桜の満開がまがまがしいのは、黒い幹からいきなり白っぽい花で、葉がほとんど無いからじゃないか。考えてみると曼珠沙華もそうだ。花が一斉にこちらを凝視しているように見える。

雑病

 『霊枢』雑病篇は臨床経験の破片の寄せ集めみたいなものだし、こういうのが『甲乙経』の主治の材料だったと思うけど、なかなかぴったりというのは見つかりませんね。
 厥氣走喉而不能言,手足凊,大便不利,取足少陰。
+嗌乾,口中熱如膠,取足少陰。
=消癉,善喘,
 氣走喉咽而不能言,手足凊,溺黄,大便難
 嗌中腫痛,唾血,口中熱,唾如膠,太谿主之。
 材料はもう一つ有りそうなんだけど、見つかりません。足少陰というのはこれらの病症を診断し治療するポイントには違いないんだけど、それを大谿穴と決めたのは『明堂』の編者です。最初のこうした効果を経験した名医の本意とは限りませんからね。と言うことは、他の主治穴にも編者の色眼鏡がかかっているかも知れない。

手勢令

 一度だけ手勢令というのを見たことが有る。多分、蘇州か杭州だったろう。大衆酒場で、お兄ちゃんが差し向かいで掛け声とともに、ひっきりなしに杯を口にはこぶ。いや、にぎやかなことだった。江南だから、おそらく紹興酒だったと思うけれど、あのピッチでは相当の酒量になるはずだ。
 残念なことに、その手勢令がどんなルールだったのかはわからない。今、ちょっと調べてみると、両人対座して同時に出した手の屈している指かあるいは伸ばしている指かの数を当てあうというのが有る。これを内拳あるいは豁拳と呼ぶらしい。ただし、豁拳では各指に名前がついているから、単純に数を当てるのではないという説もある。
 いずれにせよ掛け声だから、相当に騒がしい。あまり雅ではない。にぎやかであることに価値が有る。
 各指に性格を与える方法では「五行生剋令」というのがある。大指は金、食指は木、中指は水、無名指は火、小指は土で、互いに一本の指を出し合って、その相剋関係によって勝ち負けを決める。掛け声は必要ないから、静かにやることもできるけれど、ひっきりなしに杯を口にはこぶというのは、やっぱり幽人賢士の席には似つかわしくない。
 そうは言っても、いずれにせよ、日本の若者の一気飲みよりは数等ましだと思う。私は一気飲みを人に強いたり強いられたりしたことは無い。勝手にやったことは有りますがね。啤酒はやっぱり一気飲みでしょう。
 それにしてもビールを口が卑しい酒と書くのはなんともはや。中国人は漢字の民なのに、こういうのは案外平気なんですね。日本人は4は死を連想させるとして嫌うでしょう。中国では気にしないどころかむしろ良い数字みたいですね。四と死は現代中国語でも同じ発音のはずなんだけどね。諱の同音字、甚だしくは近音字まで避ける人たちが、ですよ。李賀は父親の名が晋粛で進士の進と同音だからという理不尽な難癖によって、科挙の試験を受けられなかった。ただ、そもそも鬼才と評されるような人が政治家に向いていたかどうかは問題ですがね。鬼才は幽霊のような才能という意味です。それでも、現代日本の政治家よりは数等ましかも知れないけれど。彼らは何才と呼ぶべきなんだろう。
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