靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

緩急小大滑濇

 『霊枢』邪気蔵府病形篇の変化の病形を診る脈は、緩急小大滑濇であるから、どうしたって三つの要素の二者択一の積み重ね、あわよくば座標軸で解釈しようとしてしまうが、本当は後文の「刺之奈何」から考えたほうが良いのかも知れない。
 は、熱である。だから針を浅く入れて、速やかに抜く。
 は、寒である。だから針を深く入れて、久しく留めておく。緩急は確かに二者択一で問題ない。
 は、血気がともに少ないのであるから、針治療にはむかない。だから滋養の薬物を投与する。
 は、小とは対照的に瀉法が主となる。ただし、気は多いから少し瀉すようにするけれど、血は少ないから出血はさせないようにする。
 は、陽気が盛んで、わずかに熱が有る。だから、針を浅くいれてその陽気を瀉して、その熱を去る。の刺法と実質的な違いは無い。つまりの表現する性質は同じようなもので、程度に差が有るのだろう。気を瀉すのを主意とするという点では、とも似たところが有る。
 は、血が多くて気は少なく、わずかに寒が有る。だから、必ずよく揉んでから針を入れて必ず脈に中て、久しく留めた後に抜く。針を深く入れて、久しく留める点においては、の刺法とさしたる違いは無い。抜いた後もすぐその後を揉んでおく。(そうしないと、多血だから出血してしまう?)
 この多血少気のに相い対するものは、多気少血の大であるはずなのに、刺法にそれが反映されてない。また『脈経』巻四の平雑病脈の「濇則少血」と、この篇の刺法中で言う「無令其血出」によって、濇は少血とすべきだとする意見が有る。むしろこっちのほうが常識でしょう。それでは小と濇がほとんど同じになってしまうが、つまり、と似たようなもので程度の差ということかも知れない。
 乃ちは冷えによって滞りがちになることと、生命力の低下傾向という、二つの情況を表現している。
 つまり、緩大滑の傾向か急小濇の傾向かに二分し、さらに精密に診る。座標軸ではなさそうである。

春郊


 『唐詩画譜』(明の天啓年間)から採りました。詩自体はさして有名なものではない。椀が大きいので最初は茶かとも思ったけれど、瓶はやはり酒瓶でしょうし、臥そべっているのは酔っているのだろうし、第一、詩題が「春郊酔中」でした。花はおそらくは桃で、やっぱり柳と取り合わせてあります。水辺ということは、西湖のほとりかも知れない。
 おもしろいと思ったのは酌をうけるのに托を持っていること。それと酒肴を入れている割子です。
 こういう器は『水滸伝』の挿絵にもあって、例えば梁山泊の菊の宴でも、いくつかのグループにわかれた豪傑たちのテーブルに一つづつ置かれています。魯智深や武松は大椀でやってますな。ドンブリみたいなのは李逵ですかね。
 

当候胃脈

『素問』病能論(『太素』巻十四・人迎脈口診)
黄帝問曰:人病胃脘癰者,診當何如?
岐伯對曰:診此者當候胃脈。其脈當沈細,沈細者氣逆,逆者人迎甚盛,甚盛則熱。人迎者胃脈也,逆而盛,則熱聚於胃口而不行,故胃脘爲癰也。
黄帝曰:善。
 この胃脘癰を診るという「當候胃脈」の胃脈は、どこの脈処を指して言うのか。
経文にはっきりと「人迎は胃脈なり」と言っている。脈が甚だ盛んなのは熱なのであって、人迎即ち胃脈が盛んということは、つまり熱が胃口に聚まって行らないということであって、だから胃脘が癰になる。何も難しいことはない。
 問題は「其脈當沈細」のほうで、この脈は沈細というのだから、甚盛の人迎とは別の脈処である。
 楊上善の注に「今於寸口之中診得沈細之脈」と言うのははなはだ良い。しかし、その前に「胃脈者寸口脈也」というのは感心しない。森立之『素問攷注』に、一度は「胃脈,楊以為寸口脈,可從」としながら、後に「寸口脈」と「可從」の間に「不」の字を書き足しているのはそういうことだと思う。沈細を寸口で診ることには同意している。本当は「其脈口當沈細」に作る版本が有れば一番すっきりするのだけれど、残念ながらそういうものは見つかってないようである。(言うまでも無いと思うが、脈口も寸口も気口も、時代の差、学派の違いはともかくとして同じこと。)
 もう一つの可能性として、尤怡『医学読書記』では、趺陽脈であると言う。これに対して、多紀元堅『素問紹識』は、「趺陽を診ることは、仲景に剏まり、内経には未だ見ざる所なれば、則ちこの説もまた従い難し」と言う。本当にそうですか。『内経』に、はっきりと趺陽の脈を診るという記述が無いというのは、茝庭先生に敬意を表して認めるとして、それらしいものなら『霊枢』には有ると思う。
 『霊枢』動輸篇に、「黄帝曰:經脈十二,而手太陰、足少陰、陽明獨動不休,何也?」とあるが、この手太陰は寸口、足陽明は人迎である。残るところ足少陰は何か。実際には衝脈である。胃から生じた清気が肺に上って、手の太陰に入り、腕関節に至って、寸口の脈動となる。悍気は頭に衝き上げ、咽を循り、空竅に走り、眼系を循り、腦を絡い、頷(顑)に出、客主人に下り、牙車を循って、足陽明に合し、下って人迎の脈動となる。もう一つは、足少陰とともに腎の下から気街に出、下肢を下り、踝から出て跗上(足の甲、附と趺は通じる)に属し、つまり趺陽の脈動となる。手太陰と足陽明が診脈の処なら、足少陰だってそうでしょう。ここでは足少陰であると言い、また実は衝脈と思しい。しかし、また足陽明でもある。『素問』瘧論に「足陽明之瘧……刺足陽明跗上」とあり、王冰注に「衝陽穴也」と言う。足陽明を胃脈と言うことは、『内経』の随所に見られる。人迎と衝陽が足陽明の上下の代表的な搏動であるとすれば、甚盛が人迎であれば、もう一つの沈細のほうは衝陽であると考えるのが、むしろ普通かも知れない。この場合には、「當候胃脈」の胃脈は足陽明脈であって、胃脘に癰が有るような場合には、その起点である衝陽の脈は沈細のはずである。起点こそが元来の診断点という認識も有ったかも知れない。しかし、その反動として止点の人迎の脈は甚盛となっているはずで、それこそが胃に熱が有り、胃口に癰をできていることを直接に表現する。
 呉崑や馬蒔や張介賓が、胃脈を右の関(寸関尺の関)とするのは、全くお話にならない。多紀元簡が「寸関尺の脈を以て、五蔵六府に配するものは、『難経』以後の説」と切り捨ててます。

病変定矣

 『霊枢』邪気蔵府病形篇で、変化の病形を診る脈状が緩急小大滑濇であって、浮沈が無いのは何故か。まさかとは思うが、甚微がそれに相当するということは……。ただ、甚微を単に程度の差と解すると、微のほうが重篤そうに思えるなどの謎は有る。羅列された病症名に痹の字をふくむものは、いずれも微である。寿夭剛柔篇に、病の陽に在るものは風、陰に在るものは痹と名づけるが、陽に在れば脈は浮、陰に在れば脈は沈とも言えるだろう。また現在の脈状がそれぞれ定義された情況を離れて虚心に考えれば、指が皮膚に触れるか触れないかで感じられる脈は甚と捉えられたかも知れないし、指を余程押し下げないと得られない脈は微と捉えられたかも知れない。
 くれぐれもまさかのはなしですよ。


 数遅も無いけれど、これは一応は緩急がそれに相当すると考えられる。でも、これだってそんなに簡単に言っちゃって良いのかとは思う。


 本当は急緩で寒熱、大小で血の多少、滑濇で気の多少、甚微で病の外内を知る、なんて言いたいところなんだけど、無理でしょうねえ。

本輸の使い分け

 『霊枢』に於ける五輸穴の運用法は、四季に応ずる選穴を主とするようだが、未だ洗練されているとは言い難い。つまり、四季に応じて取るべきところの指示に、井滎輸経合以外のものが多く混入している。
 一応の完成形は順気一日分為四時篇で、冬は井を刺し、春は滎を刺し、夏は輸を刺し、長夏は経を刺し、秋は合を刺す。本輸篇ではその他に、春には絡脈や分肉の間に取り、夏には肌肉皮膚の上を取り、秋には(春と法の如しというから)絡脈や分肉の間も取り、冬には諸輸を取る。つまり本輸篇では井滎輸経合のうちの何を選択するかの他に、部位名称を挙げている。本輸篇の冬は「取諸井諸輸之分」であるが、順気一日分為四時篇の井を引き算すれば諸輸であり、この諸輸は井滎輸経合の輸ではなくて、所謂ツボということになる。
 では部位名称だけを挙げる篇はというと、寒熱病篇に、春は絡脈を取り、夏は分腠を取り、秋は気口(腕関節橈側とは限らず、一般に気の発する口だろう)を取り、冬は経輸を取るとある。この経輸について、多紀元簡が「総言経穴,非諸経之経穴兪穴」と言う。逆に推し量れば、古来、井滎輸経合のうちの経と輸と誤解するものが多かったということである。この誤解に基づいて、さらに冬至に一陽が生じるという思想による修正を加えて、冬を井と定め直し、ならば他の季節は何かと配当していったのではないか。
 四時気篇にも本輸篇に似た配当が有るが、微妙に異なる。春は絡脈分肉の間(王冰注に引くもので校正済み)、夏は盛経孫絡と部位名称を言い、秋は経輸、冬は井滎という具合に本輸からの選択を指示する。おもしろいことに、これは『素問』水熱穴論と基本的に同じである。ひょっとすると、暖かければ衛気、寒ければ営気を調節するというつもりかも。
 つまり、寒熱病篇の冬の経輸を誤解することから発して、井滎輸経合に四季を配当できるのではないかと工夫した人が何人かいて、それぞれの努力の跡が残されているのであろう。
 結論として、季節によって井滎輸経合を使い分けようとするのは、誤解に発するこじつけである可能性が高いが、結果として順気一日分為四時篇ともなると、陽気の推移にしたがって指先から肘膝までを使い分けることになるので、本来の発想の経緯とは別に、またそれなりの妥当性が生まれているかも知れない。

仙人になる

 中国人というのは、なんのかのと言っても、やっぱり道教がお気に入りで、弁証論だの唯物主義だのと言ったところで、進香も易占も護符も、別にすたれた様子は無い。で、彼らの望むところは不老長生であって、なろうことなら仙人になりたい。

 ところが、あれだけの広い大地だから、昔から斜に構えた人には事欠かないわけで、仙人なんてのは、身体に奇妙な毛が生えたり、骨相が変わって人間離れした顔になったり、羽翼を負うたりして、まるで化け物じゃないかという人がいる。人との交わりを棄てて、僻遠の地に住むなんて御免こうむる。美味いものを食らって、暖かにしているのが良いのよ。

 養生にしても、単豹なんてのは、内を養って、七十にもなって小児のようにつやつやした顔をしていたそうだが、山奥に住まいして、飢えた虎に出くわして喰われちまったじゃないか。張毅なんてのは、権門に取り入って良い目をみて、つまり外を養ったけれど、あくせく精神疲労の極で、四十になるやならずで内熱の病を生じて死んじまったじゃないか。普通にしてりゃ良いのよ。

 そうは言っても、それでも仙人になりたい人は多いわけで、努力する人もいるわけで、杜子春にでてくる道士なんてのはそうですね。芥川では父母の優しい言葉に思わず口をきいてしまって、その人間性を嘉されているけど、何とも生ぬるい。そんなことでは仙人になれるはずがない。本場の本当の話では、人間離れした散財ぶりに目を付けた道士の為に無言の行をやって、かなり上手くいっていたけれど、女に生まれ変わらされて産んだ子供が殺されたときに、人間性というよりも動物性によって、本能的にうめき声を発してしまうんですね。しかも道士はそのヘマに怒り狂っている。

......子供の両足を持ち、頭を石に叩きつけた。頭はくだけて、血が数歩さきまでとびちった。杜子春の心に、子供に対するが生じた。突然、道士との約束を忘れて、思わず、声をもらした。「ああ!」

......道士は、叫んだ。「書生めが!わしをこんな有様にしくじらせた!......あなたは、心のなかの喜び、怒り、哀しみ、懼れ、悪み、欲は、すべて断ち切ることができた。できなかったのは、であった。......」
 現代人は、この愛を「慈しみ」とか思うでしょうが、そうじゃないんですよ。この前には女房が切り刻まれても平然としていた。ここの愛は、むしろ「執着」といったことです。母親の、産んだ子に対する動物的な本能的な「執着が生じた」ということなんです。それすらも断ち切らなければならない。つまり、仙人になるというのはそういう異常の世界なんです。しかも、それが批判されているわけじゃないんです。まあ、どちらかと言えばそういうものとして肯定されている。

杜子春は、帰ってから、誓いを忘れたことが恥ずかしかった。自ら努力して再び試み、失敗をつぐなおうと思って、雲台峰に行ってみたが、まったく人影がなかった。口惜しく、溜息をつきながらもどったのである。
 仙人なんてはた迷惑なんです、なろうとする人もね。

新発見の医簡

 中国在住の某氏の情報によれば、上海中医薬大学は、香港の骨董市場にもちこまれた戦国末~前漢の竹簡若干を入手した模様。内容は医学に関わるもののようで、五色、奇咳、揆度、石神などの文字が見えるそうです。ただし、長く水に漬かっていたものらしく、コンニャクのようなぶよぶよの状態で、上海中医薬大学では扱いかねて、現在、上海博物館に初歩的な処理を依頼しているとのことです。内容についての研究は処理が終わってからになりそうです。なお、出土地は山東のようですが、盗掘の品らしく詳しくは不明。
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九霊

 古代の書籍には、まともな名前がついてなかったものが多い。我々の世界でもそうで、中でも今いうところの『霊枢』などはひどい。分量が9巻だったから『九巻』なんだって。そういう分量の書籍なんて他にも有ったろうに。ましてや9というのは聖数なんですよ。そこで別名がどんどん付けられた。『鍼経』なんていうのは、内容にそったまともなものみたいだけど、これだって九針十二原篇の初めにある「先立鍼経」から取ったんで、別に全体の内容を吟味して鍼の経典として名づけたものじゃないみたいです。だから、「鍼に関することばかりじゃないのに」と批難するのも的外れかも知れない。
 魏晋南北朝から隋唐にかけては、道士たちが自分たちの価値観にもとづく名前をつぎつぎと生み出したようです。『九虚』、『九霊』、『霊枢』など。別に特に道教徒の気に入るような書物じゃないと思うんですがね。いつの時代もファンの大部分は誤解して熱狂している。
 で、『九霊』は、『唐志』に「黄帝九霊経十二巻 霊宝」とある。だから「九」は昔の巻数であったにせよ当時は違うし、「霊」は霊宝の一字を取ったというのは言い過ぎだろうけど、霊宝と名乗ったのと、『九霊』と名づけたのは同じ発想なんでしょう。
 九霊は、枢の略であるという説も最近見たけれど、確かに文献に登場する順番と実際に呼ばれていた時代は微妙に食い違っているかも知れない。
 と、ここまでは前置きで、一寸おもしろいものを見つけたので紹介しておきます。
……また一説、初めの三皇の時には玄中法師となり、次の三皇の時には金闕帝君となった。伏羲の時には鬱華子となり、神農氏の時には九霊老子となり、祝融氏の時には広寿子となり、黄帝の時には広成子となり、顓頊氏の時には赤精子となり、帝嚳の時には禄図子となり、堯の時には務成子となり、夏の禹王の時には真行子となり、殷の湯王の時には錫則子となり、周の文王の時には文邑先生となった。あるいは王室文庫の司書であったともいう。越の国では范蠡となり、斉の国では鴟夷子となり、呉の国では陶朱公になったともいわれる。……
 だから何なんだ、なんですがね、『神仙伝』(晋・葛洪)の老子の項に載ってます。もっとも『列仙全伝』に引く混元図は「神農時為太成子」です。他にも少しづつ異なるものが有る。ちなみに『列仙全伝』は漢・劉向の『列仙伝』とは別で、仙人の伝記の集大成として明代の編輯です。
 彭祖が師匠から承けた著述の中にも『九霊』が有るともいうが、これは文字の誤りの可能性が高いらしい。

弥生の雪

 寒い寒いと思っていたらなんと雨交じり雪降る夜です。気がついたのは昨夜十一時ころ、まさか積もりはすまいと思ってましたが、朝起き出して見ると屋根、車、樹木の上などは白い。
 今朝もまだ降り続いています。
 昼、さすがに降り止みました。
 夕方、ほとんどきれいに消えました。ほとんどまぼろし


 今日は旧暦三月二日、例の桜田門外の変は、たしか桃の節句に登城してくるのを待ち伏せたんだと思う。むかしも有ったんですね、弥生の大雪。
 ゆきかとまどうきさらぎのはな はなかとみやるやよいのふぶき

櫟窓

 江戸の考証学者の多くは、号の一字に植物を用いている。先ず伊沢蘭軒がそうであるし、その子の榛軒と柏軒、榛軒の養嗣の棠軒、みなそうである。多紀家でも、元簡は桂山、元胤は柳沂、元堅は茝庭。茝が、セリ科の香草でヨロイグサというのが、具体的にどんなものか知らないが、みなまあまともな植物を選んでいる。森立之の枳園は皮肉れていて、『晏子春秋』の「橘は淮南に生ずれば橘と為り、淮北に生ずれば枳と為る」をふまえて、在るべきところに居ないとうそぶく。無論、橘のほうが価値が有るという常識に従えば、であるが。
 問題は元簡の別号の檪窓である。これは、おそらく『荘子』人間世篇の次の話をふまえていると思う。右上の絵は櫟にとまる鸚哥。
 匠石齊に之く。曲轅に至りて櫟社の樹を見たり。その大いさ數千牛を蔽い、これをはかるに百圍あり、その高きこと山を臨む。十仞にして後に枝有り、その以て舟を為るべきもの旁に十數あり。觀る者市の如し。匠伯顧みず、遂に行きて輟まらず。弟子つらつらこれを觀て,走りて匠石に及びて曰く、「吾れ斧と斤を執りて以て夫子に隨いてより、未だ嘗って材の此くの如くそれ美なるものを見ざるなり。先生肯て視ず、行きて輟らざるは、何ぞや?」と。
 曰く、「已めよ。これを言うこと勿れ!散木なり。以て舟を為れば則ち沈み、以て棺槨を為れば則ち速やかに腐り、以て器を為れば則ち速やかに毀れ、以て門戶を為れば則ち液をふきだし、以て柱を為れば則ち蠹まる。これ不材の木なり、用うべき所無し。故に能くかくの若く壽し」と。
 匠石歸る。櫟社夢に見れて曰く、「なんじは將になににか予を比さんとするや?なんじは將に予を文木に比さんとするか?それ柤梨橘柚果蓏の屬は、實熟すれば則ち剝れ、則ち辱しめらる。大枝は折られ、小枝はなだめらる。これその能を以てその生を苦しむるものなり。故にその天年を終えずして中道に夭す。自ずから世俗に掊ち擊かるるものなり。物はかくの若くならざるは莫し。かつ予は用うべき所無きを求むること、久しきなり。幾んど死せんとして、乃ち今これを得て、予が大いなる用を為せり。予をしてまた用有らしめば、かつこの大なるを有するを得んや?かつまたなんじと予はまた皆物なり。柰何ぞそれたがいに物とせんや?なんじは幾んど死せんとする散人なり、また惡んぞ散木なるを知らんや!」と。
 匠石覺めてその夢を診す。弟子曰く、「すすみて無用を取るに、則ち社と為れるは何ぞや?」と。
 曰く、「密にせよ!なんじ言うこと無かれ!彼また直だ寄せしのみ。以て己を知らざるものの詬り厲しむると為すなり。社と為らざるも、またあに翦らるること有らんや!かつまた彼その保つ所は、衆と異なれり。しかるを義を以てこれをはかるは、また遠からずや!」と。
 これをもって思えば、檪窓もまた世をすねた号である。彼が幕府の医官であったことも、「すすみて無用を取るに、則ち社と為れるは何ぞや」に対する「彼また直だ寄せしのみ」が弁明になっている。その保つ所は、衆と異なれり。
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