靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

淳于意対問訳釈

内経の夏季合宿の成果を、どのような形で公表するか、とはひとまず無関係に、「淳于意対問訳釈」という、個人的なお遊びをはじめようか、と。
で、現在の日本で、倉公伝に関して最も目が肥えているのは、少なくとも身近では、内経の夏季合宿で発表する面々だと思うので、コメントがもらえたら嬉しいな、と。
というわけで、ジタバタしているうちに思い出したのだけれど、南京の沈澍農さんの、今年の賀状に、「我正在做《扁鵲倉公列傳》的校注」とありました。これを入手できたときに、論戦(?)の資材になったらいいな、とも。皆さん、ご協力お願いします。

寸口の脈だけを診て、病の所在部位を知る?

一カ所だけの脈を診て、分かることは、全身的な意味で、病情は如何に、であろう。
寸口という一カ所の脈を診て、病は何処に在るのか、を知ろうとすれば、別の工夫が必要となる。
一つには、『素問』三部九候論(ただし、原形と思われる頭に三カ所、臍以上に三カ所、臍以下に各三カ所の脈診部位を想定するもの、それの臍以上と臍以下)を、腕関節部に持ってきて(少し調整して)、いわばミニチュア版の三部九候診を試みることがある。大雑把に言えば、耳の針で、耳殻に全身を投影した図が有るでしょう、まあ、あんな感じです。
もう一つには、手首のどこかを陰陽の境界線と想定して、そのどちら側に問題が在りそうかを診て、そこから陰陽論的に問題の所在を割り出すことを試みる。
現代日本の、所謂六部定位脈診は、左右の寸関尺に五蔵を配置し、そのうえで五行の相克関係から、虚している蔵を割り出そうとしている。上の二つの行き方の、どちらの正嫡なんだろう。

呪い師

針術の、古典的な仕組みを知らずに治療しているとしたら、それは呪いとさして違わない。
あるいは、古典的な仕組みを気にせずに治療しているとしたら、それは呪いとさして違わない。
努力する目標は、より良く効く呪い師になることである。

良く効く呪い師に、存在意義が無い、などとは言わない。
患者にとっては、最終的には、効けば良い。
(本当か?本当の本当の最終は、そうはいかないかも知れない。)

でも、呪い師には、絶対になりたくないという、頑なものはいる。
あるいは、少なくとも自分流の呪いでなくては嫌だ、という不器用者も。
どうするか?古典を紐解いて、自分なりの虚構を構築するしかない。
これは苦しい、報われるわけが無い。(あるいは、わずかにある?)
苦しみを、少しでも紛らわすためにはどうするか。
たまに、自分以外を、この!呪い師めが!!と罵倒してみる。

良い呪い師になるには、古典なんぞに手を出さない方が、無事かも知れない。
努力するのは、より良く効く呪い師になるために、である。
あるいはまた、自分の呪いに疑いを抱く呪い師の呪いが、効くだろうか?

より良い治療家になるには、古典に手を出さない、というわけにはいかない、とは思いたい。

欲以微針通其経脉

『霊枢』の成立は何時か。
それは、何をもって成立と見なすかによる。
私としては、毒薬と砭石を拒否し、微針でもって経脈を通ずれば、ありとあらゆる病を癒やすことができる、と宣言した時だと思う。
つまり、現在のように『霊枢』を構成しなおした時である。
上記の宣言は、九針十二原篇第一の冒頭に見える。そのように手を加えた。
少し丁寧に読めば、九針十二原篇が一枚岩でないことは分かる。
そのうち、九針でも十二原でもない部分が、本当に言いたかったところだろう。
九針とか十二原とかの部分は、古い文献の再利用かも知れない。
そういう意味でなら、『霊枢』の成立は、うんと古いかも知れない。
微針でもって経脈を通ずれば、ありとあらゆる病は癒える。どうしてそんなことが可能であるかはさておいて、できるはずだと宣言する。
人体のすべてを管理するものとして、五蔵というものを想定する。そして、五蔵の不調は原穴で調えることができる。
五蔵と原穴をつなぐものは必要だが、宣言が真実ならば、もうそれだけで充分なはず。
実際には、どっこい、そうはいかない、だから本輸のセットを考え出す、管理の他にエネルギー問題も有る、だから六府と合穴を考え出す。
「必ず治す!」と宣言して、その舌の根が乾かぬうちに「治せざれば」と続ける世界である。
九針十二原篇の十二原は遠隔操作である。九針はそうではない。他の篇で、次第にそうなりはするが。だから、九針十二原篇が一枚岩でない。
宣言を言い換えれば、『霊枢』が目指す針治療は、遠隔操作である。でも、『霊枢』に書かれている針治療の全てがそうだというわけではない。
だから、おもしろい、けど、困ったね。

万愚節

『よくわかる黄帝内経の基本としくみ』とか『霊枢概要』とかいう本なんか出したから、誤解してくださるかたも、有るかも知れない。けれども、私の臨床の腕なんて、まったく大したことありません。どうにもならないからこそ、なんとかならないものかと、『素問』とか『霊枢』とかを引っかき回しているのです。
むかし、島田先生だったかに、東鍼校のころだったか、原塾のころだったかに、自分のシステムを築ける人なんて、ごく僅かの選ばれた人だけだ、と忠告されました。
自分を選ばれた人だと思うほどの大人物≒自信家≒ノーテンキではありません。もし、そうだったら、それはそれで何とかなった。
でも小人物でも、眼の前にあるシステムに得心がいかなければ、じたばたするしか無いわけで、それに本当は誰でも、自分なりのシステムをなんとか手に入れて、それになんとか納得しなければ、臨床なんて出来ないんじゃないですか。要は、素直か、そうでないか、だけです。
別に、素直じゃいけない、というわけは無い。井上先生は、眼の前にあった父上のシステムに素直だったのだと思う。だからご自分では、自分のやっているのが経絡治療である、なんて長い間知らなかった、と言われました。でも、本間先生の治療を見て、どうして父の弟子なのに違うのかと問うて、だって同じようにやったって効かないもの、各々が工夫して変えるべきところは変えなきゃ効かないもの、と応えられたとも言われました。そして井上先生は、やがてご自分の必要のために、新たな工夫で人迎脈口診というシステムを構築された。先生たちは、眼の前にあったシステムの改善につとめ、成功されたわけです。
だから、とりあえずは素直に従って、なんとかそれに習熟する。そして、やがて疑問を生じたら、それに対処する、というのがたぶん王道です。
でも、最初から疑問を抑えられないとしたら、それは因果な性です。どちらが有利であるかで選ぶ、なんてできません。
『よくわかる黄帝内経の基本としくみ』とか『霊枢概要』とかなんて、要するにそうした不器用ものが、足掻いた痕です。そしていまだにじたばたしている。でも、これでもなにかの足しになる人は、いるかも知れない。私自身は、東鍼校のころ、あるいは原塾のころに、せめてこの程度のことが分かっていたら、もう少しはましな臨床家になれていたんじゃないか、と思う。

はじめに虚すれば補い、実すれば泻すとか教えられて、何の疑問も無く、母を補い、子を泻して、無邪気に効いた効いたと喜んだり、六十九難とか七十五難とかをひもといて、古典を学んでいる、古人の魂にふれていると感動したり、そういう素直な人は羨ましい。

自分が学ぼうとしているもの、あるいはさらに、教えようとしているものの姿が見えている人(見えていると思っている人)が羨ましい。私には、未だ見えて来そうにない。

そうは言いながら、臨床をあきらめたわけじゃない。だから、未だに読み解こうとしている。鍼が効く理由は、効かせられる秘密は、本当はもっともっと単純なのだと思う。

人の都合で……

鳥インフルエンザ,全殺処分しか無いんでしょうか?
免疫がつくのを期待するわけには,いかないんでしょうか?

免疫が間に合わない,その間にどんどん死んでしまいます。
免疫がつく前に,突然変異で人間への感染力が高まる恐れも有ります。過去に,教訓的な事例も有ります。


まあ,全殺処分しか無いのかも知れない。

でも,我々のような,細菌を見つけた→細菌を殺せ→殺した→治った,という医学とは別の医学を模索している人間が,全殺処分しか無いんです,と言われて,あまりにも素直に簡単に納得するのは,やっぱりなんだか納得しにくい。

渡り鳥が運んで来た可能性を言いますよね。
渡り鳥は,別に絶滅してません。来年もきっとまた別のを運んで来ます。

社会に迷惑な病は,隔離して,滅びるのを待つ。
なんだか,別の病の歴史で,聞いたことが有るような気がする。

研と記聞と考

『黄帝内経研究集成』に銭超塵先生の「金窪七朗《素問考》与丹波元簡《素問記聞》」というのが載っています。1999年に『北京中医薬大学学報』に発表されたものだそうです。で、2004年の11月に韓国はソウルで開催された大韓韓医学原典学会・国際学術大会の後の晩餐の席、中国から参加なさっていらした銭先生との会話の中で、多紀元簡の『素問識』と金窪七朗の『素問考』の相似を指摘され、多紀元簡と金窪七朗と、どちらが老師であるか論争(?私は酒が入っていたと思う)したんです。この件に関しては、当時、内経のBLOGでぐだぐだいってたんですが、今、改めて銭先生の論文をみると、いやなつかしい。

そこで、ここから先は妄想です。当時、ひょっとしたらと思ったことが、ふくらんで妄想と化したというわけです。

多紀元簡の『素問識』は、偉大な著作にはちがいないが、最近の評価としては、稲葉通達の『素問研』に負っているところはかなりあるというのが常識的です。ましてやその準備としての『素問記聞』においては……、ということになるんでしょう。
稲葉通達が如何なる人であるか、当時も今もさして明らかではないけれど、医家になって(少なくとも)三代目で、かなりの著述が有ったらしい。ところで稲葉氏で有名なというと、豊後臼杵の藩主で、関ヶ原の戦いの後、美濃から入ってきて、幕末・廃藩置県にいたっています。この一族は「通」の一字を諱に用いています。藩主は下の一字として。だから、通達も藩主の一族のはしくれかもしれない。
もう一方の『素問考』、これの筆者は鼇城公観ということになっています。でも、この名は日本人としては異様です。今ならペンネームとでもいうのではないか。で、いろいろ調べているうちに、偶然にも豊後の臼杵城の別名の中に「鼇城」というのが有ることが分かりました。とすると、豊後臼杵の藩主一族が変名を用いようとしたとき、鼇城某というのを思いつくのも自然じゃないか。後に改姓名して金窪七朗としたのは、母方の氏でも用いて、稲葉一族としての束縛からも逃れたかったんじゃないか。
で、多紀元簡と金窪七朗と、どちらが老師であるか。もし、鼇城公観なるものが、稲葉通達の子孫で、それが多紀元簡の師匠になっていて、しかも周囲の誰も知らない、というのは異様じゃないか。多紀元簡の『素問』講座に、稲葉通達の子孫が変名して紛れ込んでいても気づかれなかった可能性なら有りそうに思う。そして多紀元簡の講義内容は、ノートのようなものが受講者の書き写しをある程度許されていたとする。そこには多紀元簡の説も勿論記されている。それが「桂山曰」云々と書き始められていたのは当然でしょう。鼇城公観なるものにはやや粗忽なところがあって、「桂山先生曰」と改めるところまで気が回らなかったんじゃないか。
あるいは、鼇城公観が後に改姓名して金窪七朗というのではなくて、もともとそう名乗っていたのかもしれない。稲葉氏でなく金窪氏という理由は分かりようがないが、当時は今ほど苗字というものも杓子定規なものじゃなかったから、場面に応じて使い分けたかもしれない。ノートには鼇城公観輯などと署して、稲葉通達の子孫であり、引いては豊後臼杵の藩主一族であることを、秘かに誇っていたのかもしれない。

だから、これは妄想ですよ。証拠なんか有りそうにない。念の為。

人迎脈口診とは何だったのか?

Ⅰ 『霊枢』の旗印か?
 話の発端は、先輩諸氏から、『霊枢』を代表する脈診は人迎脈口診であり、『素問』を代表する脈診は 三部九候診であると教わってきたが、はたしてそうか、という疑問である。
 人迎脈口診の主な資料は『霊枢』に在る、という主張に異存はない。ただ、人迎脈口診とは何かを曖昧にしたままの発言であったとすれば拙いだろう。『霊枢』のいくつかの篇に紹介されている人迎脈口診には、歴史的変遷があったはずであり、それはそれぞれの段階ごとに評価すべきである。そこで方便として、『太素』の構成と、その楊上善注とを参考にして、資料が出そろったころの様子をうかがい、「人迎脈口診とは何だったのか」という問題を、少し考えてみようと思う。
……
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偽医者

むかし,酒席で鍼灸師に向いた性格が話題になったとき,冗談めかして,でも実はかなり本気で,「偽医者になる氣慨と能力」と言ったことが有ります。で,今夕の地方新聞に,韓国の百三歳の「無免許医師」の話が載っています。東京では六月の上旬にすでに,どこかの新聞に載ったかも知れない。
「私は,懲役を受けるようなことをしていない。国家は,法律で医師免許を得たものだけから,治療を受けろというが,それなら,国家が患者の生命に責任を負ってくれるのか。私の願いは,安心して病気の治療をさせてほしいということ。」初めは生後二カ月の時に背中におったヤケドを,治してくれた母方の祖父から,背中の病気の治療法を教わったけれど,「治療法は,誰にも言ってはいけない」と口止めされた。十七、八歳ころから薬草に興味を持ち,自分で口にしたり,犬に食べさせたりしながら効能を調べた。また父の生前から交際の有った道士に可愛がられ,山に入りともに修行をし,薬草を教わった。さらに独自の修行を積み,三十年以上前から韓方医としての活動を始め,医師免許はなかったが,癌や持病に大きな効果が有った。息子さんは(ちゃんと免許を得た)韓方医となっているけれど,まだ薬の調剤方法などは教えてない。「薬は,患者の状態などを見て判断するもので,一律的に定めることができない。患者を治す調剤方法は,心から心に伝えるものだ。まだそれを伝えるだけの人物に出会っていない。」
なんだかどこかで聞いたことが有るような気がしませんか。
「医師免許が無いのに医療行為をしたとして訴え,執行猶予ながら有罪判決を下す」と,「秦の太医令の李醯は,自ら伎の扁鵲に如かざるを知り,人をしてこれを刺殺せしむ」と。同種の嫉妬のような気がします。

私自身には,残念ながら偽医者になれるような性格も能力は有りません。

淳于意の略年表

    ※ 臨葘の人 少時より医の方術を好む
    ※ 葘川唐里の公孫光に師事
高后八年  臨葘元里の陽慶に師事
文帝二年  斉の文王の元年
     (斉の悼恵王の孫 悼恵王は高祖の庶長子)
文帝四年  陽慶歿 淳于意三十九歳(陽慶に師事して三年余)
      この年 斉の悼恵王の子のひとりが楊虚候となる
文帝八年  斉の文王 来朝(まだ病んでない?)
文帝十二年 斉の文王 来朝(まだ病んでない?)
    ※ 斉の文王が病んで 召されるも拘束を嫌ってのがれる
      国中を遊行して数師に事える
    ※ 楊虚候に仕える
    ※ 楊虚候に従って長安に赴く(もっと前?もっと後?)
文帝十三年 罪に問われて長安に送られるも
      季女の上書によって赦される
      このとき 肉刑が除かれる
文帝十五年 斉の文王病死 子無く国除かる
文帝十六年 楊虚候が斉王となる(諡は孝王)
      召問のことが有ったのはこれ以降のはず
      (学成ってより十年所?)
景帝三年  呉楚七国の乱 斉王(孝王 在位十一年)は自殺

 淳于意の手記を主な資料として,推測すればこういうことになるはず。
 最も重要な師である陽慶に事えたのが三年余,その前は勿論その後にも数師に事えて研鑽を怠らなかった。それにひきかえ,弟子が淳于意に事えたのは一年余とか二年余とかである。臨葘召里の唐安に至っては,「未成」であるのに斉王の侍医になっている。淳于意は,本当はげっそりしていたのではないか。「今どきの学生は……」と慨嘆するのは,古来のことらしい。
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