靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

淳于意の略年表

    ※ 臨葘の人 少時より医の方術を好む
    ※ 葘川唐里の公孫光に師事
高后八年  臨葘元里の陽慶に師事
文帝二年  斉の文王の元年
     (斉の悼恵王の孫 悼恵王は高祖の庶長子)
文帝四年  陽慶歿 淳于意三十九歳(陽慶に師事して三年余)
      この年 斉の悼恵王の子のひとりが楊虚候となる
文帝八年  斉の文王 来朝(まだ病んでない?)
文帝十二年 斉の文王 来朝(まだ病んでない?)
    ※ 斉の文王が病んで 召されるも拘束を嫌ってのがれる
      国中を遊行して数師に事える
    ※ 楊虚候に仕える
    ※ 楊虚候に従って長安に赴く(もっと前?もっと後?)
文帝十三年 罪に問われて長安に送られるも
      季女の上書によって赦される
      このとき 肉刑が除かれる
文帝十五年 斉の文王病死 子無く国除かる
文帝十六年 楊虚候が斉王となる(諡は孝王)
      召問のことが有ったのはこれ以降のはず
      (学成ってより十年所?)
景帝三年  呉楚七国の乱 斉王(孝王 在位十一年)は自殺

 淳于意の手記を主な資料として,推測すればこういうことになるはず。
 最も重要な師である陽慶に事えたのが三年余,その前は勿論その後にも数師に事えて研鑽を怠らなかった。それにひきかえ,弟子が淳于意に事えたのは一年余とか二年余とかである。臨葘召里の唐安に至っては,「未成」であるのに斉王の侍医になっている。淳于意は,本当はげっそりしていたのではないか。「今どきの学生は……」と慨嘆するのは,古来のことらしい。

Comments

神麹斎
斉の文王の病に際し,治せないとふんで,また拘束されるのを嫌って,楊虚侯のもとに隠れ,よって仕えたのが,文帝の十三年以前であれば,問われた罪というのは,つまりその診療拒否であるかも知れない。
ただ,文王は文帝の十二年にも長安へ赴いている。まだその頃には病んでないとすれば,形罪を問われ,季女の上書によって放免された後に,文王が病み,召され,逃れて,楊虚侯のもとに隠れ,よって仕えたという一連の行動がおこったのかもしれない。文帝の十三年の件以降のこととなる。この場合,問われた罪というのは,つまり陽慶の方術をこっそり受けていたことである可能性もある。陽慶の死から十三年まで間が空きすぎる感もあるが。(倉公伝の文帝四年が,文帝十三年の誤りであることは,ほぼ確実を考えている。)
2010/07/19

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