靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

万愚節

『よくわかる黄帝内経の基本としくみ』とか『霊枢概要』とかいう本なんか出したから、誤解してくださるかたも、有るかも知れない。けれども、私の臨床の腕なんて、まったく大したことありません。どうにもならないからこそ、なんとかならないものかと、『素問』とか『霊枢』とかを引っかき回しているのです。
むかし、島田先生だったかに、東鍼校のころだったか、原塾のころだったかに、自分のシステムを築ける人なんて、ごく僅かの選ばれた人だけだ、と忠告されました。
自分を選ばれた人だと思うほどの大人物≒自信家≒ノーテンキではありません。もし、そうだったら、それはそれで何とかなった。
でも小人物でも、眼の前にあるシステムに得心がいかなければ、じたばたするしか無いわけで、それに本当は誰でも、自分なりのシステムをなんとか手に入れて、それになんとか納得しなければ、臨床なんて出来ないんじゃないですか。要は、素直か、そうでないか、だけです。
別に、素直じゃいけない、というわけは無い。井上先生は、眼の前にあった父上のシステムに素直だったのだと思う。だからご自分では、自分のやっているのが経絡治療である、なんて長い間知らなかった、と言われました。でも、本間先生の治療を見て、どうして父の弟子なのに違うのかと問うて、だって同じようにやったって効かないもの、各々が工夫して変えるべきところは変えなきゃ効かないもの、と応えられたとも言われました。そして井上先生は、やがてご自分の必要のために、新たな工夫で人迎脈口診というシステムを構築された。先生たちは、眼の前にあったシステムの改善につとめ、成功されたわけです。
だから、とりあえずは素直に従って、なんとかそれに習熟する。そして、やがて疑問を生じたら、それに対処する、というのがたぶん王道です。
でも、最初から疑問を抑えられないとしたら、それは因果な性です。どちらが有利であるかで選ぶ、なんてできません。
『よくわかる黄帝内経の基本としくみ』とか『霊枢概要』とかなんて、要するにそうした不器用ものが、足掻いた痕です。そしていまだにじたばたしている。でも、これでもなにかの足しになる人は、いるかも知れない。私自身は、東鍼校のころ、あるいは原塾のころに、せめてこの程度のことが分かっていたら、もう少しはましな臨床家になれていたんじゃないか、と思う。

はじめに虚すれば補い、実すれば泻すとか教えられて、何の疑問も無く、母を補い、子を泻して、無邪気に効いた効いたと喜んだり、六十九難とか七十五難とかをひもといて、古典を学んでいる、古人の魂にふれていると感動したり、そういう素直な人は羨ましい。

自分が学ぼうとしているもの、あるいはさらに、教えようとしているものの姿が見えている人(見えていると思っている人)が羨ましい。私には、未だ見えて来そうにない。

そうは言いながら、臨床をあきらめたわけじゃない。だから、未だに読み解こうとしている。鍼が効く理由は、効かせられる秘密は、本当はもっともっと単純なのだと思う。

Comments

神麹斎
かつて、臨床に秀でた友人から電話があったときに、そういえばという感じで、世話になっている先生のおひとりが体調不良で、お腹が脹って、ものを食べてもすんなり胃におさまらず、かといって吐くこともならない、といいだした。で、わたしは鳩尾と三里と上巨虚ではどうか、と応じた。すると、友人は、じつは助手の先生が治療して、取りあえずは落ち着いている、といった。わたしの応じた内容のもとは、『霊枢』九針十二原、邪気蔵府病形、四時気あたりです。最重要なのは膏の原の鳩尾でしょう。助手の先生は、『資生経』だったかを師匠に突き付けたうえでの施術だったそうです。師匠の普段のシステムには無いですからね。ただ、鳩尾は、常識的には禁鍼禁灸穴です。そこで、背中に回って膈兪を取った。
わかりますか。臨床が苦手とか得意とかいうのはこうしたことでしょう。鳩尾が本当に禁鍼禁灸穴か、を追求するよりも、代わりに膈兪を取る頓知と、それよりなにより、そのツボをちゃんと効かせる技術です。それが臨床向きな性格ということだろうと思います。わたしには、残念ながら不足気味じゃないか、とおそれているということです。
2011/04/03

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