靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

研と記聞と考

『黄帝内経研究集成』に銭超塵先生の「金窪七朗《素問考》与丹波元簡《素問記聞》」というのが載っています。1999年に『北京中医薬大学学報』に発表されたものだそうです。で、2004年の11月に韓国はソウルで開催された大韓韓医学原典学会・国際学術大会の後の晩餐の席、中国から参加なさっていらした銭先生との会話の中で、多紀元簡の『素問識』と金窪七朗の『素問考』の相似を指摘され、多紀元簡と金窪七朗と、どちらが老師であるか論争(?私は酒が入っていたと思う)したんです。この件に関しては、当時、内経のBLOGでぐだぐだいってたんですが、今、改めて銭先生の論文をみると、いやなつかしい。

そこで、ここから先は妄想です。当時、ひょっとしたらと思ったことが、ふくらんで妄想と化したというわけです。

多紀元簡の『素問識』は、偉大な著作にはちがいないが、最近の評価としては、稲葉通達の『素問研』に負っているところはかなりあるというのが常識的です。ましてやその準備としての『素問記聞』においては……、ということになるんでしょう。
稲葉通達が如何なる人であるか、当時も今もさして明らかではないけれど、医家になって(少なくとも)三代目で、かなりの著述が有ったらしい。ところで稲葉氏で有名なというと、豊後臼杵の藩主で、関ヶ原の戦いの後、美濃から入ってきて、幕末・廃藩置県にいたっています。この一族は「通」の一字を諱に用いています。藩主は下の一字として。だから、通達も藩主の一族のはしくれかもしれない。
もう一方の『素問考』、これの筆者は鼇城公観ということになっています。でも、この名は日本人としては異様です。今ならペンネームとでもいうのではないか。で、いろいろ調べているうちに、偶然にも豊後の臼杵城の別名の中に「鼇城」というのが有ることが分かりました。とすると、豊後臼杵の藩主一族が変名を用いようとしたとき、鼇城某というのを思いつくのも自然じゃないか。後に改姓名して金窪七朗としたのは、母方の氏でも用いて、稲葉一族としての束縛からも逃れたかったんじゃないか。
で、多紀元簡と金窪七朗と、どちらが老師であるか。もし、鼇城公観なるものが、稲葉通達の子孫で、それが多紀元簡の師匠になっていて、しかも周囲の誰も知らない、というのは異様じゃないか。多紀元簡の『素問』講座に、稲葉通達の子孫が変名して紛れ込んでいても気づかれなかった可能性なら有りそうに思う。そして多紀元簡の講義内容は、ノートのようなものが受講者の書き写しをある程度許されていたとする。そこには多紀元簡の説も勿論記されている。それが「桂山曰」云々と書き始められていたのは当然でしょう。鼇城公観なるものにはやや粗忽なところがあって、「桂山先生曰」と改めるところまで気が回らなかったんじゃないか。
あるいは、鼇城公観が後に改姓名して金窪七朗というのではなくて、もともとそう名乗っていたのかもしれない。稲葉氏でなく金窪氏という理由は分かりようがないが、当時は今ほど苗字というものも杓子定規なものじゃなかったから、場面に応じて使い分けたかもしれない。ノートには鼇城公観輯などと署して、稲葉通達の子孫であり、引いては豊後臼杵の藩主一族であることを、秘かに誇っていたのかもしれない。

だから、これは妄想ですよ。証拠なんか有りそうにない。念の為。

Comments

唐辺睦
もし、躋寿館の受講生名簿が残っていて、鼇城公観あるいは金窪七朗に相当しそうな人、あるいはさらに稲葉某とかを見つけたらバンザイなんだけど、誰も何も言わないところをみると、駄目なんでしょうね。
それから、寛政重修諸家譜の豊後臼杵の藩主・稲葉氏のところに、通達さんのお祖父さんか、ひいお祖父さんと言えそうな人がいないか、調べてみても良いかもしれない。
2011/01/26

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