靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

花の下にて

 今年の開花宣言は早い、と言ってもつい先頃、実際の見頃はそれから一週間ぐらい後らしい。で、西行法師の:
願わくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ
 例えば今年の旧暦二月の満月は、新暦の三月十五日。「きさらぎの望月」に桜は、ちと、早過ぎやしませんか。和歌で花と言えばということになっているけれど、この花、本当に桜なんでしょうか。いまの染井吉野は、むかしの山桜より遅いのでしょうか。それとも、「やよい」では字数が合わないからの絵空事なんでしょうか。
 二月十五日は涅槃会だから、実はそっちのほうに重点が在って、文学的虚構として開花時期を早めたんじゃなかろうか。満開にはちょっと早そうだけど、まあ、絶対に咲いてるわけがない、というほどでもない。
 それにしても、西行の命日は実際に二月十六日、きさらぎの望月のころなんだってね。

一年の始まり

 日本では、四月から新たな年が始まるような気分が有る。入学式はその最大の理由だろうし、桜の満開がそれを後押ししている。
 また、正月から年が始まるにしても、旧暦のほうが良い、つまり春節こそ本当の正月と考える中国人に、共感する人もいる。新暦の一月一日では、とても初春とは思えない。
 これらは、一年は春から始まるという考えである。
 しかし、純粋に陰陽説に則って考えるならば、陰が極まって一陽が生じる冬至こそが年の始まりに相応しい。一年は冬の真っ直中に始まる。
 だから、『霊枢』順気一日分為四時篇に、冬は井を刺し、春は滎を刺し、夏は輸を刺し、長夏は経を刺し、秋は合を刺すと言っているのは、まったく相応しい。出る所を井と為し、溜まる所を滎と為し、注ぐ所を輸と為し、行く所を経と為し、入る所を合と為すのとも、ぴったりあっている。

経脈というモノ

 経脈による針術の本質は、此処に施した術の効果が彼処に発現することだと思う。しかし、此処で祈れば彼処に聞きとどけられる、では経脈説は成立しなかった。此処と彼処が連動するのであるからには、此処と此処は何らかのモノでつながっているはずだ、この古代中国人の即物的な思考が、針術を世界に冠たる物理療法たらしめている。
 両処をつなぐモノとは、元来何であったか。陽経脈については筋肉、陰経脈については血管ではなかったか。
 本輸篇で陽経脈が頚に至るというのは、筋肉の連なりが頚に至るということであろうし、手の陰経脈が腋から入るというのは血管がそこから躯幹に入り込むということである。足の陰経脈に至っては、脚の付け根で躯幹に入り込むから、頚部の情報とあわせて記述することではない。根結篇で足三陽は頭部に結するが、足三陰が結するのは舌の付け根と胃と心胸である。やはり外と内である。
 勿論、これはもともとはということであって、経脈篇で十二経脈を循環させて「環の端無きが如し」というためには陽経脈にも血管系としての性格が必要であろうし、経筋には陰の経筋も有る。
 経脈説が、芽生えてから完成するまで、異様に短時間であるというのも、それまで筋肉、血管系のお話として蓄積してきた知識を、「欲以微針,通其經脉,調其血氣,營其逆順出入之會」という方針に沿って改編したにすぎないからではないか。ただ、この改編の意味することは当事者の意図を超えて大きかった。
 筋肉や血管系に関する認識には古代的な限界が有った。経脈の効用の最も重要な部分を担うことができないのは、今や明らかである。しかし、あくまでそうしたモノが有るとしての、仮定した上での論であったことは、記憶しておいたほうが良い。筋肉や血管系でなければ何か。別にモノを探し出すのも、我々の任ではない。我々はかつて認識されていた、あるいはより合理的な相互関係を追求したい。モノに依拠するとは、つまりそこに絶対者を想定しないということである、恣意的であるのを許さないということである。不思議であろうが神秘であろうが、法則に従ったことしか起こらない。法則を外れているように思えるとしたら、それは法則が不備だからである。

鶯はウグイスに非ず

 青木正児『中華名物考』に「鶯はウグイスに非ず」という文章が有った。
『本草綱目』によれば、黄鳥は一に黄鶯、また黄鸝・鵹黄・楚雀・倉庚などと呼ばれて、立春後すぐ鳴き出して、麦の黄ばむころ最もよく鳴き、その声は円滑で機を織るようであると。これはまずウグイスに当てはまる要件であるが、その形色が違う。すなわち鸜鵒(哵哵鳥)よりも大きく、体毛は黄色で、羽及び尾に黒毛があって相間て、黒い肩、尖った嘴、青い脚、とある。これでは「体毛は黄色」以外は一つもウグイスに該当しない。……ところで私が夜鳴くように考えたのは見当違いで、実は朝非常に早く、人がまだ眠っているうちに鳴くのらしい。それは唐詩を見ると、春暁に鶯を聞く詩が多いのに徴して明らかである。
 日本では梅にウグイスであるが、中華では柳に鶯であることにもふれて、杜甫の対句を例に挙げてある。
兩個黄鸝啼緑柳 一行白鷺上青天

西湖の柳

 杭州西湖の春は柳、夏は蓮、秋は月、冬は雪。杭州へは何度も足をのばしたが、さすがに断橋残雪には出会ってない。カラーの写真を見た記憶は有るから、近年全く降らないというのでも無かろうが、先ず望み薄だろう。上海ですらちらほらしだしたと思ったら、地に触れるまえに消える、というのを一度目にしただけ。
 春の柳は素晴らしい。しだれ柳が湖水に垂れている。薄曇りか、いっそのこと雨模様のほうが好ましい。桃と柳が中華の春の景色というけれど、桃はともかく柳の良さは西湖で始めて知った。鶯が柳の間で鳴いている。柳浪聞鶯、これも西湖十景の一つ。もっとも、中華の鶯は、我が鶯とは違う種類らしい。梅でなくて柳と取り合わせるのも面白い。
 梅も西湖の孤山に沢山に植わっているはずだが、満開を観た記憶は無い。ちょっとづつ時期をはずしていたのだろうか。


 森鴎外の史伝小説に江戸の漢学者が長崎へ商売に来る清国人に依頼して、西湖の柳を手に入れようと苦心する話が有ったように思う。当時の人々はいくら中華に憧れても、自ら赴くことは夢のまた夢だったわけだ。今ならそんなことは無いし、柳は枝を折って挿せば根付くと言われるほど丈夫なものだから、今度行ったら一枝をポケットのしのばせてこようと思っている。もう十年ほどになろうか、未だ果たせないでいる。

緑蕚の梅

 先日、市内の公園へ梅見に行ったんですが、白梅は満開、紅梅の蕾はまだ固いのが多いといった情況でした。例年なら、三月初めの梅祭りには盛りを過ぎているくらいなのに、今年は異常ですね。
 ところが、桜のほうはもうチラホラと開花宣言。いつもと同じく、小学校の入学式は桜吹雪か、ひどければ葉桜という予想です。
 そこで:桜咲いたぞ、梅はまだかいな。
 ところで、宋・范成大の『范村梅譜』に、緑蕚梅について:
およそ梅花の蕚はみな海老茶色なのに、ただこの品種のみは緑で、枝も小枝も青く、特に清く気高いので、好事家はこれを九疑山の仙人蕚緑華に喩えている。京師の艮嶽に萼緑華堂というのがあって、その堂の下にはもっぱらこの花が植えられていたが、民間には多くないので、当時は貴重されたものである。
 私の好みのものは、この緑蕚梅のようだけど、徽宗皇帝と趣味を同じくするのは、光栄なんだか恥ずかしいんだか。ただ清・文震亨『長物志』にも、「緑蕚が一段とすぐれ、紅梅はちと俗だ」と評されている。また我が青木正児『中華名物考』にも、緑蕚梅についての文章が有って、日本ではアオジク(青軸)と名づけ、花の香りが非常に高いとして、「読者諸君の中に、もし緑蕚を知らずして梅は香ると思っている人があったならば、それは妄信に過ぎない」とまで言う。

 『説文』に載る脈の正字は「𠂢に从い血に从う」もので、「血理分れて、體に衺(ななめ)行する者なり」と言う。「脈」はその或体で肉に従い、正字の字素を左右に入れ替えた「衇」は籀文である。これは明らかに血管系のことであって、その意味が拡張されて山脈とか水脈とかに広がっていく。
 すじをなして連なっているものとして、先ず「血管系のように」と感覚したわけである。これは驚くべきことではないか。そうした感覚の持ち主である古代中国人が、身体を縦(経緯の経は縦糸、緯は横糸)に連絡するものとして経脈を発想したときに、血管系を意識していないわけが無い。
 経脈説の独特である所以は、「ここに施した術の効果が、かしこに発現する」ということである。そして「互いに相関しているからには、両者をつなぐモノが有るはず」という即物性が、経絡学説発展の基盤であった。そのモノとは血管系であったはずである。だから、経脈学説に血管系についての知識が混入しているのは避けがたい。問題は、現代の目からみて、経脈現象を担うモノは血管系なのか、ということである。現代医学は、血管系がそのような能力を有することを否定している。この判断はおそらく正しい。
 経脈現象を担うモノを、他に求めることが必要であるかどうかは分からないが、どのみち我々には手に負えない世界であることは間違いないだろう。我々にできることは、文献に現れる所謂「経脈現象」から、血管系を初めとする現代医学にすでに知られたものを取り除き、他に預けることのできない現象、私見では「患部と、遠く離れた診断兼治療点の関係」を洗い出し、新たに体系づけることではないかと考えている。


血脈に拠る体系
 血管系のしかるべきポイントに何らかの刺激を与えて、血液循環を制御し、そのことによって健康を維持し、疾病から回復させる体系も、一応考え得る。ただ、これをもって『素問』、『霊枢』などに記載される現象の全てを説明することは、やはりかなり困難であろうと思う。現代医学も、このことについてはほとんど何も知らないようである。

灸盞

『灸法秘伝』灸盞圖
古聖用九針,失傳久矣。今人偶用者,不但不諳針法,亦且不熟『明堂』,至於灸法亦然也。今用銀盞隔姜灸法,萬無一失。凡欲用此法者,須仿此樣爲式。四圍銀片稍厚,底宜薄。須穿數孔。下用四足,計高一分許。將盞足釘在生姜片上,姜上亦穿數孔,與盞孔相通,俾藥氣可以透入經絡臓腑也。


 日本内経医学会の掲示板で、菉竹氏が紹介しているものです。
 仰式は普通に置いたところ、俯式はひっくり返して見たところでしょう。足の高さが一分ばかりと言うのだから、小さなものです。
 使い方の具体的なところがもう一つはっきりしない。
 まず大きめのショウガを用意して、二分ばかりの厚さに切る。その上に灸盞の足を刺すようにして置く。足の高さは一分ほどだから下までは突き抜けない。安定させるというまでのことだろう。灸盞には穴が円周をなして八つくらい有るから、(凡例によれば)それに銀針を通して、ショウガまで貫く。さあ、刺した後でこの針をどうするのかが分からない。まあ、熱くなったら灸盞を持ち上げて、また下ろすというのだから、恐らくは穴だけあけて抜くのだろう。でも、だったらなんで銀針にこだわるのか。細い針で、小さな穴というのが良いのか。さて、灸盞の中に艾をまるめて入れて、さらに薬を加えて点火する。で、熱すぎたら持ち上げろと言うけれど、治療家の指は熱くないんだろうか。どうして木の取っ手でも工夫しないのだろう。
 詳しくは日本内経医学会掲示板の菉竹氏の解説を見てください。

黄帝と炎帝

 黄帝伝説の主要な内容は、炎帝との戦いであり、炎帝は即ち神農であって、神農は百草の滋味を嘗めて、医薬の祖となっている。してみると、針の経典を黄帝に仮託するのは、「毒藥を被らしめることなく、砭石を用いることなきを欲し、微針を以てその經脈を通じ、その血氣を調え、その逆順出入の會を營せんと欲す」云々と関係が有って、黄帝が炎帝を滅ぼしたのと同様に針が薬を凌駕するのを標榜している、と言いたいところであるが、そうもいかない。『太平御覧』に引く『帝王世紀』に「帝使歧伯嘗味百草,典醫療疾,今經方、本草之書咸出焉。」とある。


 炎帝が神農なら、黄帝は何かと言うと、軒轅なんですね。でも、軒轅って何なんだ!?
 あんまり考えたことが無かったでしょう。それがねえ、『山海経』海外西経には、次のようにあるんです。
軒轅之國在窮山之際,其不壽者八百歲。在女子國北。人面蛇身,尾交頭上。
 そりゃまあ、古の天神に人面蛇身は多いわけで、伏羲や女媧もそうなんですがね。

寒厥と熱厥

 『太素』26寒熱雑説(『霊枢』寒熱病)
寒厥,取陽明、少陰於足,留之;熱厥,取足太陰、少陽。
 陽明と少陰、太陰と少陽という表裏ではない組み合わせが面白いが、その理屈は何か。
 寒厥も熱厥も足から始まる。してみればこの陽明と少陰、太陰と少陽も、足(くるぶしから下の部分)と考えて良い。陽明は足の甲を行き、少陰は足底を行く。つまりこの両者(たとえば衝陽ー太谿、然谷)を取れば、足の芯に在る寒を挟み撃ちにすることになる。太陰は大指の内側に沿って内踝に向かい、少陽は小指と小指の次指の間を外踝に向かう。つまりこの両者(例えば商丘・太白ー臨泣)を取れば、足の甲に在る熱を挟み撃ちにできる可能性が有る。
 『太素』26寒熱厥(『素問』厥論)には、熱厥は陽気が五指の表に起こり、足下に集まって足心が熱し、寒厥は陰気が五指の裏に起こって、(当然くるぶしを経て)膝下に集まり、その間がみな内から寒すると言う。これと『太素』寒熱雑説の治療方針とは関係が有るだろう。
 また、『太素』22三刺(『霊枢』終始)には「刺熱厥者,留針反為寒;刺寒厥者,留針反為熱」、乃ち留針することによって正常にもどすことができると言っている。この同じことをしても、情況に応じて逆方向に効くというのも、針治療の重要な特徴であると思う。
<< 49/50 >>