靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

経脈というモノ

 経脈による針術の本質は、此処に施した術の効果が彼処に発現することだと思う。しかし、此処で祈れば彼処に聞きとどけられる、では経脈説は成立しなかった。此処と彼処が連動するのであるからには、此処と此処は何らかのモノでつながっているはずだ、この古代中国人の即物的な思考が、針術を世界に冠たる物理療法たらしめている。
 両処をつなぐモノとは、元来何であったか。陽経脈については筋肉、陰経脈については血管ではなかったか。
 本輸篇で陽経脈が頚に至るというのは、筋肉の連なりが頚に至るということであろうし、手の陰経脈が腋から入るというのは血管がそこから躯幹に入り込むということである。足の陰経脈に至っては、脚の付け根で躯幹に入り込むから、頚部の情報とあわせて記述することではない。根結篇で足三陽は頭部に結するが、足三陰が結するのは舌の付け根と胃と心胸である。やはり外と内である。
 勿論、これはもともとはということであって、経脈篇で十二経脈を循環させて「環の端無きが如し」というためには陽経脈にも血管系としての性格が必要であろうし、経筋には陰の経筋も有る。
 経脈説が、芽生えてから完成するまで、異様に短時間であるというのも、それまで筋肉、血管系のお話として蓄積してきた知識を、「欲以微針,通其經脉,調其血氣,營其逆順出入之會」という方針に沿って改編したにすぎないからではないか。ただ、この改編の意味することは当事者の意図を超えて大きかった。
 筋肉や血管系に関する認識には古代的な限界が有った。経脈の効用の最も重要な部分を担うことができないのは、今や明らかである。しかし、あくまでそうしたモノが有るとしての、仮定した上での論であったことは、記憶しておいたほうが良い。筋肉や血管系でなければ何か。別にモノを探し出すのも、我々の任ではない。我々はかつて認識されていた、あるいはより合理的な相互関係を追求したい。モノに依拠するとは、つまりそこに絶対者を想定しないということである、恣意的であるのを許さないということである。不思議であろうが神秘であろうが、法則に従ったことしか起こらない。法則を外れているように思えるとしたら、それは法則が不備だからである。

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