靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

仙人になる

 中国人というのは、なんのかのと言っても、やっぱり道教がお気に入りで、弁証論だの唯物主義だのと言ったところで、進香も易占も護符も、別にすたれた様子は無い。で、彼らの望むところは不老長生であって、なろうことなら仙人になりたい。

 ところが、あれだけの広い大地だから、昔から斜に構えた人には事欠かないわけで、仙人なんてのは、身体に奇妙な毛が生えたり、骨相が変わって人間離れした顔になったり、羽翼を負うたりして、まるで化け物じゃないかという人がいる。人との交わりを棄てて、僻遠の地に住むなんて御免こうむる。美味いものを食らって、暖かにしているのが良いのよ。

 養生にしても、単豹なんてのは、内を養って、七十にもなって小児のようにつやつやした顔をしていたそうだが、山奥に住まいして、飢えた虎に出くわして喰われちまったじゃないか。張毅なんてのは、権門に取り入って良い目をみて、つまり外を養ったけれど、あくせく精神疲労の極で、四十になるやならずで内熱の病を生じて死んじまったじゃないか。普通にしてりゃ良いのよ。

 そうは言っても、それでも仙人になりたい人は多いわけで、努力する人もいるわけで、杜子春にでてくる道士なんてのはそうですね。芥川では父母の優しい言葉に思わず口をきいてしまって、その人間性を嘉されているけど、何とも生ぬるい。そんなことでは仙人になれるはずがない。本場の本当の話では、人間離れした散財ぶりに目を付けた道士の為に無言の行をやって、かなり上手くいっていたけれど、女に生まれ変わらされて産んだ子供が殺されたときに、人間性というよりも動物性によって、本能的にうめき声を発してしまうんですね。しかも道士はそのヘマに怒り狂っている。

......子供の両足を持ち、頭を石に叩きつけた。頭はくだけて、血が数歩さきまでとびちった。杜子春の心に、子供に対するが生じた。突然、道士との約束を忘れて、思わず、声をもらした。「ああ!」

......道士は、叫んだ。「書生めが!わしをこんな有様にしくじらせた!......あなたは、心のなかの喜び、怒り、哀しみ、懼れ、悪み、欲は、すべて断ち切ることができた。できなかったのは、であった。......」
 現代人は、この愛を「慈しみ」とか思うでしょうが、そうじゃないんですよ。この前には女房が切り刻まれても平然としていた。ここの愛は、むしろ「執着」といったことです。母親の、産んだ子に対する動物的な本能的な「執着が生じた」ということなんです。それすらも断ち切らなければならない。つまり、仙人になるというのはそういう異常の世界なんです。しかも、それが批判されているわけじゃないんです。まあ、どちらかと言えばそういうものとして肯定されている。

杜子春は、帰ってから、誓いを忘れたことが恥ずかしかった。自ら努力して再び試み、失敗をつぐなおうと思って、雲台峰に行ってみたが、まったく人影がなかった。口惜しく、溜息をつきながらもどったのである。
 仙人なんてはた迷惑なんです、なろうとする人もね。

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