靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

局部の病証学

 全体像を把握する為には病証学が必要であり、局部が全体を修正しうる為には経脈説が必要である。
 よく考えてみると、術者にできることは局部への施術だけである。全体像が把握され、蔵府・経脈がそれとどのように関係しているかが説明されれば、いくつかの経脈を選び、あるいは兪募穴を取って、それぞれに相応しい手技を施すことによって、全体像を理想の状態にもっていくことができるはずである。経穴と言い兪募穴と言う、いずれも局部である。
 それでは、全体像は局部の具体的な状況までも表現しているのか。これは、いつもそうだ、とは言えないのではなかろうか。局部が全体を構成し、全体が局部を支配するのは間違いないとして、相互に影響する過程に在っては(現実にはいつもそうした過程に在る)、相対的に別々に病証を把握する必要が有るのではないか。
 ところが、脈診術にせよ病証学にせよ、全体像を知ろうとして発展してきたというのが歴史の趨勢であろうから、今ここで局部の病証を知るためには、別の方策をたてる必要が有るだろう。少なくとも、独り寸口を取る脈診から十二経脈みな動脈有りへの反転とか、さらにはその色を見、その膚を按じ、その病を問うことの意義を再認識し体系化する必要が有るのではないか。
 と、ここまで書いた時に、次のような意見に接した。
脉状が現している病証は、今現在、一番苦しんでいる症状だと思います。
 それでは多分、脉状が現している病証は、実は局部の病証だと思う。そして実在するものはいつも局部であって、全体というのはついに虚構である。局部を足し算すれば全体になるのではなく、局部を見渡して「構想」しなければ全体というようなものは存在しない。脈診によって全体像を把握するというのは多分錯覚であり、把握のための材料を求めていたのだろう。局部の病証に従って治療し、局部の病態の変化はまた脈状に反映して、新たな病証として把握される。病証の全体像とは、そうした変化の予想図、見取り図であろうか。(引いた句をちゃかしているのではありません。この句によって改心あるいは回心したのです。念のため。)

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