靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

外内と彼此

 針治療には外と内が有る。外がもともとのもので、内は仮想されたものである。
 外とはつまり皮肉筋骨で、基本的には痛を以て輸となし、熱刺激(燔針、熨あるいは灸)と針術を局所に施す。九針の用い方はほとんどがこの範疇である。ただし、緊張した筋肉の上下に置針して緩解させた経験は、ほとんどの針灸師が初歩段階で持っているであろうから、古代の名人がそれに類する術を知らなかったわけがない。改善させ得たのは単なる緊張だけでもなかったろう。しかし、そのためには現今の毫針に近い針の制作が無ければならない。これによってはじめて病所を挟み撃ちにする方法が考案される。根結や標本は、もともとそうした試みではなかったかと思う。
 内とはつまり五蔵六府であって、古代の科学知識の水準からすれば、仮想された部分が必然的に多いはずである。五蔵六府に直接的に関連する募穴と背兪は、局所的な施術の範疇である。遠隔的な作用は五蔵と原穴、六府と下合穴の関係としてまとめられたが、これにもれた経験も沢山有ったろうし、その一部は絡穴と絡脈と絡病として再度まとめられた。頚周りの大牖五部とか大輸五部とか言われるものも、挟み撃ちの一方の端であるとともに、暴病を主どるということからは、また病に脈でつながる遠隔操作に用いる穴でもある。
 ところで古代の方士は意外と即物的な人たちだったようで、四肢の要穴と五蔵六府が関連するからには、両者を結ぶモノが有るはずと考えた。古代人の技術水準で捜せば、それは当然ながら血管であって、今度は両者の役割の混淆が始まる。刺絡は、おそらくはもともと局部の状態を改変するもう一つの方法であったろうが、血液循環を制御する方法として認識される。勿論、普通に刺針して制御することも工夫されたはずであるし、彼らにとってはそれは経脈の気を制御するのと同義であった。
 内の関係は、つまり点と点の関係である。ただし、点と点の関係と言ったところで、近くの点は同じ点に結びついていることは多かろう。問題は近くと言うことの意味であって、隣り合わせた点よりも、点と点をつなぐ線上のもう一つ別の点のほうが近いということはある。ところが、線上の点というのはおおむね肘膝から先の点、せいぜいが腋窩や鼠蹊までのことであって、胴体ではとてもそうは言えない。全ての穴を十四経脈上に配置する試みなどは、無駄なあるいはさらに後世を誤る努力であった。
 こうして見てくると、他の世界では発見されなかったか、あるいは少なくとも発展させ得なかったものは、診断と治療のポイントとそこから遠く離れた患部との関係である。なぜそういうことが起こり得るのかは分からない。そこで、血管系にはそんな能力は無いと現代西洋医学に言われと、たちまちたじろいでしまった。たじろぐ必要が有るかどうかは分からないが、どのみち我々に解決できる問題ではない。我々にもできそうなのは、古書に掲載されたポイントと患部の関係の整理とその検証だろう。言い換えれば、どのスイッチあるいはどのスイッチとどのスイッチを押せば、どのライトが灯るのかを知りたい。さらにまた、この舞台を照明するためには、どのライトあるいはどのライトとどのライトを灯すべきかを知りたい。押しかたに工夫が必要ならば、それも知りたい。どうして灯るのかは、誰か研究してくれ。

譙周

 実は『三国演義』にはもう一人、気になる人がいる。譙周、字は允南、蜀の儒者で天文に詳しい。この人は、劉備が死に諸葛亮も死んだ後に、魏の大軍が押し寄せてきたとき、さっさと降参すべきだと強く主張した。たしか、劉備が蜀に乗り込んできたときも、前の領主であった劉璋に同じようなことを進言している。他にも諸葛亮やら姜維やらの北伐に、一貫して反対し続ける徹底した平和主義者である。だから威勢の良い講談小説の中ではあんまり評判は良くない。
 でも、それほど無茶苦茶に罵倒されているわけではない。何故か。下った相手が同じ漢民族だからじゃないかな。魏に下ったのを罵倒すると、魏もそのあとを襲った晋も、ひいてはその後の正統の王朝をも罵倒することになりかねない。正統は重んじなければならない。それが歴史に対する正しい認識というものです。だから手心を加える。これが金に対する宋の秦檜の態度となると、もう情け容赦無い批難の嵐、今もって杭州にある鉄像は唾を吐きかけられ、杖で打たれてますからね。
 そもそも蜀人の立場から言えば、劉璋も劉備も余所者に過ぎないんです。そんなものが振りかざす正義によって、蜀の平和が乱されるのは迷惑なんです。

同等

『太素』27七邪(『霊枢』大惑論)
耶中其精,所中不相比也則精散,精散則視岐,故見兩物。
楊上善注:五精合而為眼,耶中其精,則五精不得比和,別有所見,故視岐見於兩物,如弟二月等也。
 夜空の月が二重に見えるとでも言うのだろうか。なんだか奇怪な説明ではないか。この二月の月は渋江抽斎『霊枢講義』の引用に従ったのだけれど、原本では若干疑問が有る。そこで、袁昶本は問に作り、蕭延平本もそれを踏襲している。なるほど、门には近いが、どうしてさらに问にしたのかは不思議だ。それに、「如弟二問等」だってやっぱり不可解である。
 実はこの字は原本では左のような形です。そして巻末の識語の同本は右のようです。つまりこれは「如弟二同等」で、第二の同じようなものが見えるというのではあるまいか。第は原本ではおおむね弟と書かれます。

反骨

 例えば『三国演義』、蜀の側に共感しながら読んだことなんて有りませんね、少なくとも子供のときのダイジェスト版以外は。劉備は偽善、これは説明の必要なし。関羽は傲慢、呉の孫権が呉蜀の同盟強化のために、息子の嫁にと関羽の娘を望んだとき、言うにことかいて「虎の娘を犬の子に嫁がせるものか。」そりゃ、孫権も怒るわなあ。張飛は粗暴、関羽の弔い合戦に、全軍の白装束をそろえるなら出陣の日限を少し延ばしてくれと、もっともなことを言う部下に腹をたてて杖で殴りつけ、酒を食らって酔っぱらって寝てしまう。そりゃ、寝首もかかれるわなあ。諸葛亮に至っては妖怪。周瑜を憤死させるくだりなんて邪智のかたまり、魏延の受け入れを拒もうとするなんて狭量もいいとこでしょう。だから、ちょっと前まで思い入れが有ったのは周瑜、今は魏延です。
 赤壁のあと、長沙を攻めたとき、関羽と黄忠が一騎打ちをして、互いに一度ずつ危ういところを義によって見逃したので、長沙の太守は黄忠を疑って斬ろうとした。そのとき、長沙に身を寄せていた魏延が、黄忠を救い、太守を斬って降参しようとした。ところが諸葛亮は、魏延には謀叛の相があると難癖つけて首をはねようとするんですね。まあ劉備がとめて、ことなきを得てるんですが。その後でも、司馬懿父子を谷間に誘い込んで火攻めにしたときも、魏延に囮役を命じて、しかも出入り口を塞いで道連れに焼き殺そうとしている。それはまあ確かに、劉備が死んで諸葛亮も死んだ後、魏延は謀叛を図っているわけだから、諸葛亮の予想は当たったわけですがね、こんな仕打ちをうけていたら、それくらいのことは考えるでしょう。
 といったわけで、あんまり蜀は好きじゃない。でも蘇軾の『東坡志林』によると、北宋においてすでに『三国志』の講談が盛んで、町の子供たちまでが劉備に肩入れして、曹操は敵役として憎まれていたらしい。何で蜀が主人公かというと、劉姓で、だから正統なんだそうです。馬鹿馬鹿しい。所謂歴史認識というやつですな。
 大体、『三国演義』に出てくるのは、ほとんどろくでなしばかり。それはまあ戦乱の世の中なんだから、そう綺麗事ばかりで英雄でいられるわけはない。でも、戦に敗れて逃亡の途中に立ち寄った家で、女房を殺したその肉を供されて、まあ食べたときは狼の肉と言われてたわけだけど、朝になって気付いても感謝するだけで、別に誰も嘔吐なんてしやしません。
 ことわっておきますが、劉備や関羽や諸葛亮を、ちゃんとした人格者として書けと言ってるんじゃないんですよ。『水滸伝』でそれに類することをやって、一本スジを通したと称しているのがいるらしいけど、そんなの理に落ちただけじゃないですか。『三国演義』には、ちゃんと野放図な粗々しさが有る。だから、文句いいながら、何度目かの、今、劉備が漢中王になるあたりを読んでます。

浮沈

 道三の脈書に「約メテ論ズルトキハ只浮、沈、遅、数ノ四脈ノミ」と言うが、それぞれに有力と無力を言い、有力は実、無力は虚と言い換えられるだろうから、結局のところ浮沈、遅数、虚実を脈状の基本として良いだろう。
 で、この脈状を手がかりとして病証の論を繰り広げるわけだが、実際の鍼による臨床の手引きとしてはまた別のとらえ方も有るだろう。虚と実には、多分手技の補瀉によって対応している。遅と数は、本当は良く分からない。そして選穴論の対象となっているのは、主として浮か沈かではないか。これによって、井滎兪経合を使い分ける。ある日本有数の臨床のグループでは、虚証の場合にであるが、脈が浮いていれば合、沈んでいれば兪と教えていた。これの理屈は、多分もともとは五行説から導き出されたのだろうけれど、逆からみれば合には脈を沈める力、兪には脈を浮かす力が有るということになる。さらに言い換えれば、合には深部(陰)を充実させる力、兪には浅部(陽)を充実させる力が有る。脈がそのように変わるということは、つまり病状がそのように変わるということである。経をニュートラルとする。
 例えば浮いて虚しているとしたら、虚していること自体がまず問題であるけれども、浮かせたところでは何とか脈が触れるのであるから、さらに深刻な問題は陰に全く無いことである。だから、これは実の場合と言葉遣いが違っている。実の場合は、実が浮に在るから浮実と言い、沈に在るから沈実と言う。その伝から言えば、所謂浮虚は、浮かべては確かに虚してはいるが指に脈を触れ、沈めれば雲散霧消する。してみれば本当の虚は沈めたところに在る。その意味からは所謂浮虚はむしろ沈虚と言うべきである。今さらそうはいかないのであれば、いっそのこと陰虚と言おうか。そしてより深いところ(陰)に力をつけさせる為には、ニュートラルより肘膝側(陰)に取り、より浅いところ(陽)に力をつけさせる為には、ニュートラルより指先側(陽)を取る。実の場合も、陽の実には陽を、陰の実には陰を取るのではないか。

医心方引太素経

 『医心方』巻1治病大体の中途に、『太素経』云として巻22三刺の「先起于陰者」云々、又云として巻19知形志所宜の「形楽志苦」云々を引いた後に、次のようにある。
又云:病有生於風寒暑濕、飲食男女,非心病者,可以針石湯藥去之;喜怒憂思,傷神爲病者,須以理清明情性,去喜怒憂思,然後以針藥神裨而助之。但用針藥者,不可愈之。
 これは実は、『太素』卷30如蠱如姐病「男子如蠱,女子如姐,身體腰脊如解,不欲食,先取涌泉見血,視跗上盛者,盡見血。」に対する楊上善の注の中にある。沈澍農等校注の『医心方校釈』にも高文鋳等校注研究の『医心方』にも、これにはふれられてないようなのは何故だろう。『医心方校釈』においては、「先起于陰者」云々の最後の五字「皆療其本也」だけは原文でなく、楊上善の注文だと特記するにも関わらずである。
 また「然後以針藥神裨而助之」の「神」字は、確かに奇妙ではあるし、仁和寺本『太素』にも無いようだけど、「藥」と「裨」の間に明らかに小丸を置いて傍書してあるのだから、『医心方校釈』にも一言有ってしかるべきだろう。仁和寺本影写本には「神」字が有り、日本医学叢書活字本でも刪してない。
 「神」字の有無自体は、無い方がよいだろうとは思う。気象条件や不摂生によって病んだのであって、心(こころ)の問題でなければ、針や薬で治せる。情緒の不安定によって神を傷なって病んだものは、情緒を安定させ、そのうえで針や薬でそれを裨(おぎな)って助ける。ただ針や薬を用いただけでは、治せない。
 また、この又云として楊上善注を引いた後には、又云として巻23量順刺の「兵法曰」云々を引き、その楊上善注はちゃんと細字双行にして、「楊上善曰」を冠している。

勅勒の歌

勅勒の川、
陰山の下。
天は穹盧に似て、
四野を籠蓋す。
天は蒼蒼たり、
野は茫茫たり、
風吹き草低れて牛羊を見る。
 これは岩波文庫『中国名詩選』に載る「勅勒歌」であるけれども、もとは鮮卑語であったものを漢語に訳し、いま和訓する。和訓はまあ何とか朗唱に耐えるけれども、現代日本語訳となるともうちょっと無理だろう。そもそも「戦いに不利なのを怒って、士卒を激励するため」に武将に唱わせたというけれど、和訓でもそこまでは難しかろう。

 で、若年のころにランボーとかオマル・ハイヤームに魅せられて、終生の友としたという話をときどき耳にするが、にわかには信じがたい。いままで読んだ外国の詩歌で記憶に残ったものは、漢詩以外には、ほとんど無い。意味は正確かも知れないが、唱ってないからである。

 最近、矢野峰人訳の『ルバイヤート』が復刻されたらしい。
如何にひさしくかれこれを あげつらひまた追ふことぞ、空しきものに泣かむより 酒に酔ふこそかしこけれ。
 なるほど、これならまあなんとかなる、かも知れない。

干禄字書

 仁和寺本の『太素』は、唐代の俗字の宝庫のようなものであるから、これをそのまま保存して活字化するなどということは殆ど不可能である。俗字ばかりか筆の勢いに過ぎないものとか、楷書と行書の違いであるとか、はては誤字、偽字に至るまで、全く切りがない。
 だから、いっそのこと正字に統一しようとするのも、まあ一つの選択ではある。しかし、現今の所謂正字は実のところ『康煕字典』体に過ぎないのであって、千年からの時代差を無視して基準にしようというのは、やっぱり馬鹿げている。そこで、『干禄字書』を持ち出してみる。これならほぼ同時代の正字と通字と俗字が載っているのだが、如何せん収録字数があまりにも少ない。少ない割には、該当率はかなり高いと思うけど。
 問題は他にも有って、『干禄字書』に正という文字が現代の我々の常識と異なることが有る。例えば筒、『干禄字書』ではこれは筩の通である。だからと言って、現に筒と書かれているものを正字の筩に統一して、「原本では筒に作る」と注記するなどというのは滑稽以外の何ものでもない。
 また例えば發、『干禄字書』の正は𤼲、上部の癶が业になっているものは俗である。仁和寺本『太素』では癶の下に放、もしくは业の下に放とすることが多い。そして筆勢のせいで、弓と方はほとんど区別がつかない。例えば、引は多くの場合、方に丨になっている。だから、仁和寺本『太素』の發には、『干禄字書』の正字と俗字がかなり気まぐれに使われているという結論で良いだろう。ところが実際にはその『干禄字書』に正とされる𤼲は、現在はあまり使われてない字形であって、ユニコードでも拡張領域Bになってやっと収録された。殳と攵の差は、やっぱりそこそこ大きい。
 結局、「通行の繁体字」という、何とも曖昧模糊、場当たり的な基準でやるより仕方がないことになる。『太素』を見ていて、それが今使われている字では何にあたるかさえ分かれば、こんなことはどうでも良いことなんだろうけど、作業をする側としては、辛気臭い、鬱陶しい。

拡張領域B

 自分が常用しているブラウザではちゃんと表示されているのでうっかりしてましたが、ユニコードの拡張領域Bの漢字は表示されてますか。
 今、ふと気がついてIEとOperaを試してみたらダメでした。もっともこれは設定次第かも知れない。Lunascape3でブラウザエンジンをGeckoにした場合は大丈夫でした。常用しているMozilla Firefoxではフォントの指定を少しいじったような気もしますが、Lunascape3の設定を変更したというような記憶は有りません。だから、これはGecko Engineの手柄かも知れない。今見てみたら、Mozilla FirefoxのエンジンもGeckoなんじゃないかな。私のパソコン知識は、「じゃないかな」が限界というレベルです。それでもブラウザの切り替えくらいはできます。
 ユニコードの拡張領域Bのフォントも、実は『說文解字』全文檢索測試版のページへ行けば、ダウンロードの案内が有ります。
 いずれも無料ですから、インストールしておく価値は有ると思います。

『太素』巻27十二邪(『霊枢』口問篇)
黄帝曰:人之嚔者,何氣使然?
岐伯曰:陽氣和利,滿於心,出於鼻,故為嚔。補足太陽榮、眉本,一曰眉上。
 嚏は、仁和寺本『太素』では右上のように書かれている。この画像自体はオリエント出版社の模写からの影印によるものだが、昨年の夏に杏雨書屋で実物を確かめてきたから間違いない。経文の二字と楊上善注の一字の間にも差は無い。
 嚏としたのは、直接的には『霊枢』によったのだけれど、勿論、それで問題無いだろうことは確かめている。
 左は『龍龕手鏡』口部去声から取った。嚏(嚔)はこのうちの或作。問題の文字は、この今とされる文字のやや変形したものであって、コンピューターで使える文字で一番近いものは啑であろう。『龍龕手鏡』では右部分の下方の人が廴のようになり、仁和寺本『太素』では左斜めはらい丿が亠の左端に達して庚となり、右斜めはらい乀が乚のようになる。啑噴鼻氣也は経文の「陽気和利にして、心に満ち、鼻に出る」とよく合っている。音帝も仁和寺本の左脇の書き込み都計反(杏雨書屋でほぼ確認できた)と同じ。ただし、啑はショウと読んで魚や水鳥がものを食べるさまを表すのに啑喋と用いるのが本来で、テイと読んで嚏と通じると言うのは、もともとは字形の混淆に始まるのではないかと思う。
 さて、もし底本の字形を可能な限り保存するという編集方針を採った場合、これをどのように表現するのだろう。口と庚が左右にくるのだろうが、真ん中の乚とも廴とも辶ともつかない形はどうしよう。銭超塵教授の新校正がどうするか、ちょっと楽しみである。
 もう一つの問題は、榮と眉。楊上善の注に「太陽起鼻上兩箱,發於攅竹;太陽榮在通谷,足指外側本節前陷中」と言うのだから、楊上善のつもりとしては榮は滎であるし、眉は眉で良い。
 ところが十二邪の篇末付近に再び「嚏補足太陽眉本」とあって、つまり足の太陽の眉本だけという可能性も否定しがたい。「榮」は単にツボの意味ということになる。『甲乙経』に「風頭痛,鼻鼽衂,眉頭痛,善,目如欲脱、汗出寒熱,面赤,頰中痛,項椎不可左右顧,目系急,瘈瘲,攅竹主之」とあるが、通谷のほうは「身疼痛,善驚,互引,鼻衂,通谷主之」くらいしか見つからない。
 また、仁和寺本では眉は実際には尸の下に月のように見える。『太素』巻十一・府病合輸に「膀胱病,……眉上熱若脈陷」云々とあり、この眉を『霊枢』邪気蔵府病形篇では肩に作っている。もともとは眉本であったか眉上であったか、はたまた肩上であったか、頗る疑わしい。
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