反骨
- 雑事
- by shenquzhai
- 2006/05/03
例えば『三国演義』、蜀の側に共感しながら読んだことなんて有りませんね、少なくとも子供のときのダイジェスト版以外は。劉備は偽善、これは説明の必要なし。関羽は傲慢、呉の孫権が呉蜀の同盟強化のために、息子の嫁にと関羽の娘を望んだとき、言うにことかいて「虎の娘を犬の子に嫁がせるものか。」そりゃ、孫権も怒るわなあ。張飛は粗暴、関羽の弔い合戦に、全軍の白装束をそろえるなら出陣の日限を少し延ばしてくれと、もっともなことを言う部下に腹をたてて杖で殴りつけ、酒を食らって酔っぱらって寝てしまう。そりゃ、寝首もかかれるわなあ。諸葛亮に至っては妖怪。周瑜を憤死させるくだりなんて邪智のかたまり、魏延の受け入れを拒もうとするなんて狭量もいいとこでしょう。だから、ちょっと前まで思い入れが有ったのは周瑜、今は魏延です。
赤壁のあと、長沙を攻めたとき、関羽と黄忠が一騎打ちをして、互いに一度ずつ危ういところを義によって見逃したので、長沙の太守は黄忠を疑って斬ろうとした。そのとき、長沙に身を寄せていた魏延が、黄忠を救い、太守を斬って降参しようとした。ところが諸葛亮は、魏延には謀叛の相があると難癖つけて首をはねようとするんですね。まあ劉備がとめて、ことなきを得てるんですが。その後でも、司馬懿父子を谷間に誘い込んで火攻めにしたときも、魏延に囮役を命じて、しかも出入り口を塞いで道連れに焼き殺そうとしている。それはまあ確かに、劉備が死んで諸葛亮も死んだ後、魏延は謀叛を図っているわけだから、諸葛亮の予想は当たったわけですがね、こんな仕打ちをうけていたら、それくらいのことは考えるでしょう。
といったわけで、あんまり蜀は好きじゃない。でも蘇軾の『東坡志林』によると、北宋においてすでに『三国志』の講談が盛んで、町の子供たちまでが劉備に肩入れして、曹操は敵役として憎まれていたらしい。何で蜀が主人公かというと、劉姓で、だから正統なんだそうです。馬鹿馬鹿しい。所謂歴史認識というやつですな。
大体、『三国演義』に出てくるのは、ほとんどろくでなしばかり。それはまあ戦乱の世の中なんだから、そう綺麗事ばかりで英雄でいられるわけはない。でも、戦に敗れて逃亡の途中に立ち寄った家で、女房を殺したその肉を供されて、まあ食べたときは狼の肉と言われてたわけだけど、朝になって気付いても感謝するだけで、別に誰も嘔吐なんてしやしません。
ことわっておきますが、劉備や関羽や諸葛亮を、ちゃんとした人格者として書けと言ってるんじゃないんですよ。『水滸伝』でそれに類することをやって、一本スジを通したと称しているのがいるらしいけど、そんなの理に落ちただけじゃないですか。『三国演義』には、ちゃんと野放図な粗々しさが有る。だから、文句いいながら、何度目かの、今、劉備が漢中王になるあたりを読んでます。
赤壁のあと、長沙を攻めたとき、関羽と黄忠が一騎打ちをして、互いに一度ずつ危ういところを義によって見逃したので、長沙の太守は黄忠を疑って斬ろうとした。そのとき、長沙に身を寄せていた魏延が、黄忠を救い、太守を斬って降参しようとした。ところが諸葛亮は、魏延には謀叛の相があると難癖つけて首をはねようとするんですね。まあ劉備がとめて、ことなきを得てるんですが。その後でも、司馬懿父子を谷間に誘い込んで火攻めにしたときも、魏延に囮役を命じて、しかも出入り口を塞いで道連れに焼き殺そうとしている。それはまあ確かに、劉備が死んで諸葛亮も死んだ後、魏延は謀叛を図っているわけだから、諸葛亮の予想は当たったわけですがね、こんな仕打ちをうけていたら、それくらいのことは考えるでしょう。
といったわけで、あんまり蜀は好きじゃない。でも蘇軾の『東坡志林』によると、北宋においてすでに『三国志』の講談が盛んで、町の子供たちまでが劉備に肩入れして、曹操は敵役として憎まれていたらしい。何で蜀が主人公かというと、劉姓で、だから正統なんだそうです。馬鹿馬鹿しい。所謂歴史認識というやつですな。
大体、『三国演義』に出てくるのは、ほとんどろくでなしばかり。それはまあ戦乱の世の中なんだから、そう綺麗事ばかりで英雄でいられるわけはない。でも、戦に敗れて逃亡の途中に立ち寄った家で、女房を殺したその肉を供されて、まあ食べたときは狼の肉と言われてたわけだけど、朝になって気付いても感謝するだけで、別に誰も嘔吐なんてしやしません。
ことわっておきますが、劉備や関羽や諸葛亮を、ちゃんとした人格者として書けと言ってるんじゃないんですよ。『水滸伝』でそれに類することをやって、一本スジを通したと称しているのがいるらしいけど、そんなの理に落ちただけじゃないですか。『三国演義』には、ちゃんと野放図な粗々しさが有る。だから、文句いいながら、何度目かの、今、劉備が漢中王になるあたりを読んでます。
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