靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

干禄字書

 仁和寺本の『太素』は、唐代の俗字の宝庫のようなものであるから、これをそのまま保存して活字化するなどということは殆ど不可能である。俗字ばかりか筆の勢いに過ぎないものとか、楷書と行書の違いであるとか、はては誤字、偽字に至るまで、全く切りがない。
 だから、いっそのこと正字に統一しようとするのも、まあ一つの選択ではある。しかし、現今の所謂正字は実のところ『康煕字典』体に過ぎないのであって、千年からの時代差を無視して基準にしようというのは、やっぱり馬鹿げている。そこで、『干禄字書』を持ち出してみる。これならほぼ同時代の正字と通字と俗字が載っているのだが、如何せん収録字数があまりにも少ない。少ない割には、該当率はかなり高いと思うけど。
 問題は他にも有って、『干禄字書』に正という文字が現代の我々の常識と異なることが有る。例えば筒、『干禄字書』ではこれは筩の通である。だからと言って、現に筒と書かれているものを正字の筩に統一して、「原本では筒に作る」と注記するなどというのは滑稽以外の何ものでもない。
 また例えば發、『干禄字書』の正は𤼲、上部の癶が业になっているものは俗である。仁和寺本『太素』では癶の下に放、もしくは业の下に放とすることが多い。そして筆勢のせいで、弓と方はほとんど区別がつかない。例えば、引は多くの場合、方に丨になっている。だから、仁和寺本『太素』の發には、『干禄字書』の正字と俗字がかなり気まぐれに使われているという結論で良いだろう。ところが実際にはその『干禄字書』に正とされる𤼲は、現在はあまり使われてない字形であって、ユニコードでも拡張領域Bになってやっと収録された。殳と攵の差は、やっぱりそこそこ大きい。
 結局、「通行の繁体字」という、何とも曖昧模糊、場当たり的な基準でやるより仕方がないことになる。『太素』を見ていて、それが今使われている字では何にあたるかさえ分かれば、こんなことはどうでも良いことなんだろうけど、作業をする側としては、辛気臭い、鬱陶しい。

Comments

Comment Form