靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

人迎脈口診

 人迎脈口診は『霊枢』五色篇にも有る。ここには『太素』の文章によってあげる。
雷公曰:病之益甚與其方衰何如?
黄帝曰:外内皆在焉。切其脈口滑小緊以沈者,其病益甚,在中;人迎氣大緊以浮者,其病益甚,在外。其脈口滑而浮者,病日損;人迎沈而滑者,病日損。其脈口滑以沈者,其病日進,在内;其人迎脈滑盛以浮者,其病日進,在外。脈之浮沈及人迎與寸口氣小大等者,其病難已。病之在藏,沈而大者,易已,小為逆;病之在府,浮而大者,其病易已。人迎盛緊者,傷於寒;脈口盛緊者,傷於食飲。
①滑と氣は、釣り合いからいえば、どちらかが誤り。
②損、『霊枢』は進に作る。
③前後は脈口なのに、ここだけは寸口。あるいは出所が異なるのではないか。
 人迎にせよ脈口にせよ、滑緊あるいは盛堅なるものは病む。
 脈口は浮いてくれば回復に向かっており、沈んでくれば悪化している。その病は中つまり蔵府に在る。
 人迎は沈んでくれば回復に向かっており、浮いてくれば悪化している。その病は外つまり肌肉に在る。
 病が蔵に在るときに、脈が沈んでいる。この脈は脈口であって、その沈んでいたのが、浮いてくるのは吉である。大きければ、已え易い。逆は良くない。
 病が府に在るときに、脈が浮いている。この脈は人迎であって、その浮いていたのが、沈んでくるのは吉である。小さければ、已え易い。
 人迎が盛堅となるのは肌肉に問題があるのであり、寒に傷なわれたのである。
 脈口が盛堅となるのは蔵府に問題があるのであり、飲食に傷なわれたのである。
 中外を蔵と府とするのと、蔵府と肌肉とするのが混在している。
 「脈之浮沈及人迎與寸口氣小大等者,其病難已」は、おそらくは夾雑物であろう。これを除けば、ここには人迎と脈口の比較の要素は全くない。

禁服つけたし

 我ながら、いくらなんでもと思うから、ちょっとだけつけたし。
 寸口が中を主り、人迎が外を主るというのは、陰経脈で蔵府つまり内部循行を診、陽経脈で皮肉筋骨つまり外部循行を診ることから発展した考えではなかったかと思う。陰経脈にせよ陽経脈にせよ、元来はもっといくつもの診処が有ったはずなのに、それぞれ一処に統合された。現実的な事情として、診処として充分な搏動は、そういくつも無かったということもあるだろう。その盛虚緊代を診てどんな状態で、どんな治療が必要かをいうわけだけど、内部と外部の違いがあるから、判断も異なる。例えば人迎の緊は肌肉の痛として分肉を刺せば良いだろうけれど、寸口の緊は内部の痺として方策をたてる必要がある。この時点では先ず刺して後に灸しようと言っている。大数の言い分では、灸刺も良いけど薬を飲ませたい。
 で、極端な話、原形は:
寸口主中,人迎主外,兩者相應,俱往俱來,若引繩小大齊等,春夏人迎微大,秋冬寸口微大,如此者名曰平人。盛則為熱,虚則為寒,緊則為痛痺,代則乍甚乍間。盛則徒寫,虚則徒補,不盛不虚,以經取之;緊則灸刺且飲藥。
に近かったのではあるまいか。
 陥下はもとは無かったけれども他所から持ってきて、陽経脈の陥下はつまり肌肉の陥下として、単純に灸をすえれば良いとして、陰経脈の陥下にはもう少し説明が必要と考えて、脈血が中に結ぼれて、つまり中に著血が有って、するとこれは血寒なんだから、やっぱり灸をすえれば良いんだ、と。
 代はもとから有ったけれど、人迎と寸口では血絡を取るのが主なのに、大数では安静にしていろとの指示のみで、しかも『霊枢』では脈代以弱が脈大以弱になっている。治療の指針には後からのつけたしの気配がある。それから代は、楊上善注には「止也」というけれど、ここの乍甚乍間(止)からすれば、たちまち盛たちまち虚と考えても良いだろう。たちまち熱たちまち寒である。不盛不虚なら、瀉でもない補でもない、中庸の治法を採用する。熱したり寒したりだからといって、瀉したり補したりというわけにいかないということなら、中庸の治法を採用するか、それともやっぱり安静にして様子をみるしかないか。
 大数のように緊に灸刺して薬も飲ませるといったら、ようするに何でも有りではないか。ひょっとすると補瀉は針にまかせたつもりかも知れない。

禁服

『太素』巻14人迎脈口診(『霊枢』禁服篇)
寸口主中,人迎主外,兩者相應,俱往俱來,若引繩小大齊等,春夏人迎微大,秋冬寸口微大,如此者名曰平人。
人迎大一倍於寸口,病在少陽;人迎二倍,病在太陽;人迎三倍,病在陽明。
盛則為,虚則為,緊則為痺,代則乍甚乍
盛則寫之,虚則補之,緊取之分肉,代則取血胳且飲藥,陷下則灸之,不盛不虚,以經取之,名曰經刺
人迎四倍者,且大且數,名曰外挌,死不治。
必審按其本末,察其寒熱,以驗其藏府之病
寸口大於人迎一倍,病在厥陰;寸口二倍,病在少陰;寸口三倍,病在太陰。
盛則脹滿,寒中,食不化,虚則熱中,出糜,少氣,溺色變,緊則為痺,代則乍痛乍
盛則寫之,虚則補之,緊則先刺而後灸之,代則取血胳而後洩(『霊枢』作調)之,陷下則灸之。陷下者,脈血結於中,中有著血,血寒故宜灸。不盛不虚,以經取之。
寸口四倍,名曰内關。内關者,且大且數,死不治。
必察其本末之寒温,以驗其藏府之病,通其滎輸,乃可傳於大數
大數曰:盛則徒寫,虚則徒補。緊則灸刺且飲藥,陷下則徒灸之,不盛不虚,以經取之。所謂經治者,飲藥,亦曰灸刺。脈急則引,脈代(『霊枢』作大)以弱則欲安靜,無勞用力也
 いきなり経文を突きつけられたって何のことやらだと思うけれど、まず禁服篇の人迎脈口診では、人迎と寸口のどちらがどちらの何倍という内容の比重はごく軽いということ。それと人迎の記述と寸口の記述が微妙に異なるということ。さらに末尾に「大數曰」なんて余分が有って、しかもよく考えてみるとこれは人迎脈口診に限った内容ではないということ、上の人迎と寸口の記事とは微妙に異なるということ。
 だから、何なんだといわれても困るんですが、もともとは人迎の脈状がこうこうだったら外に在るこうこうの病状、寸口の脈状がこうこうだったら中に在るこうこうの病状、という脈診だったような気はする。

女将

 『三国演義』の関羽には、史実にはいないらしい関索という三男坊が唐突に登場し、これがメチャクチャに強い。まあ架空の人物で、強いのを登場させたかったんだから当然だけどね。他に『花関索伝』というのも有って、そこには出生譚も載っているんだけど、これもメチャクチャ。先ず劉備と関羽と張飛が桃園で義兄弟の契りを結んだ時、関羽と張飛は後顧の憂いを断つために、互いの家族を殺すことにしたんだそうです。でも、張飛は関羽の妻を殺すに忍びないで見逃してやった。それが実家に逃げ帰って生んだ子供が関索というわけです。関羽が張飛の家族をどうしたかは知らない。
 で、成長した関索は親父の関羽を尋ねて旅に出るんだけど、途中の鮑家荘の入り口に「鮑三娘は自分と戦って勝った者を夫とする」と記してあった。美人で豪傑というやつです。首尾良く生け捕りにして娶る。次いで通りかかった蘆塘塞とかいうところにも、王桃と王悦という姉妹の豪傑がいて、これとも戦って次妻にする。勿論、二人とも美人です、小説なんだから。ね、いい気なもんでしょう。
 でも、これは「自分と戦って勝った者を夫とする」という古典的なパターンです。中国の俗文学には、この上を行くやつが有る。『楊門女将』、日本ではあまり馴染みがないけれど、中国では『三国演義』に匹敵するか、ひょっとするとそれ以上の人気が有る。私も京劇の舞台では何度も観た。宋朝のために戦いに明け暮れる楊業とその一族の物語です。その楊業の孫の宗保の話がすごい。穆桂英という女山賊を退治にいって逆に生け捕りにされて、でも彼の美貌を惚れた穆桂英に求婚される。勿論、穆桂英だって美人なんですよ、小説なんだから。この夫婦の間に生まれた文広というのも、女山賊の杜月英に奪われた宝物を取り返しに行くんだけど、彼女は文広の美貌を前もって知っていて、生け捕りにして結婚するつもりでいる。ところがうっかりと義姉妹のこれも女山賊の竇錦姑というのに話したので、横取りされる。当然、杜月英はむくれる、喧嘩になる。で、どうするか。仕方がないので両方とも女房になる。さらにもう一人女山賊の鮑飛雲というのにも生け捕りにされて、やっぱり求婚される。勿論、三人とも美少女なんですよ、小説なんだから。楊文広だってそんなに弱いわけはないんです、何たって楊家の跡継ぎなんだから。でも、つぎつぎと美少女に負けて、生け捕りにされて、逆に惚れられて求婚される話にした。つぎつぎに生け捕りにして女房にする、妾にするでもよかったろうに。古典的なパターンのパロディのつもりなのか、行き着くところまで行ってしまう大衆文学のパワーなのか。

九鍼要道

『太素』巻21九鍼要道(『霊枢』九針十二原)
黄帝問岐伯曰:(五方療病,各不同術,今聖人量其所宜,雜合行之,取十全,故次言之。)余子萬民,(子者,聖人愛百姓,猶赤子也。)養百姓,而收其租稅。余哀其不終,屬有疾病。(中有邪傷,屬諸疾病,不終天年。)余欲勿令被毒藥,無用砭石,(有療之者,行於毒藥,或以砭石傷膚,毒藥損中,)欲以微鍼通其經脉,調其血氣,營其逆順出入之會,(可九種微針通經調氣,)令可傳於後世。(以傳後代也。)
 楊上善の注は、本当は「令可傳於後世」の後に在るのだけれど、どの句をどう説明しているかをはっきりさせる為に分散させてみた。
 「次言之」と言うけれど、先に何か言っているわけではないから、「次」は「順序よくならべて」だろう。
 楊注が「屬諸疾病,不終天年」であるからには、経文も「不終屬」と「有疾病」の対ではない。
 楊注の「砭石傷膚」と「毒藥損中」は対になるはずである。「或以」がその両句をひきていると考えても良いが、後に砭石と毒薬をいうのに、前は毒薬だけというのもおかしい。本当は「行於毒藥,或以砭石,砭石傷膚,毒藥損中」ではないか。つまり「砭石」には重文符号があるべきではないかと思うが、残念ながら原本にもそれらしい痕跡は無い。

まごつく

『太素』巻21九鍼要解
壹其形聽其動靜者言工知相五色于目有知調尺寸小大緩急滑濇以言所病也
楊上善注:相五色於目謂壹其形也相目之形有五色別以知一形也調尺寸之脉六謂聽其動靜也聽動靜者謂神脉意也
 杏雨書屋の『太素』の原本を見て、かえってまごつくことも有るんです。楊上善注中の「思」は原本では画像のようになっています。里の下に心に見えませんか。そんな字は、字書に見つかりません。多分、抄者の単なる筆の誤りだろうとは思うんですがね。ひょっとすると用紙の汚れにすぎないのかも知れない。でも「悝」なら有る。意味は「思い悩む」です。「動静を聴くとは、神が脈の意を思い悩むことを謂うのである。」ちょっと変だけど、全く変でもないでしょう。だから、かえってまごつく。模写は「思」にしてますから、なんとなくやりすごしていた。「動静を聴くとは、神が脈の意を思うことを謂うのである。」なんだか、考えてみればこれだってそんなに分かりやすくはなかった。

経と注の辻褄

 今までに翻訳出版された中国医学古典は、原文と現代中国語訳を、それぞれ勝手に訳して、言い換えれば原文の翻訳はその校注語訳を無視しているのが普通だった。そういうのは嫌です。『太素』の場合、訳すなら経文と楊上善注との辻褄が合うように訳すべきだと思う。そしてそれは極めて困難だと思う。例えば、巻27九鍼要解:
知其往來者,知氣之逆順盛虚也。要與之期者,知氣可取之時也。
楊上善注:知虚實可取之時,爲知往來要期也。
 経文と楊注を付き合わせて考えると、注は「虚実とそれを取るべき時を知るには、往来を知り期を要することを為すべきである」だろうと思う。そうすると「要與之期」は、「與之期を要する」と解する必要が出てくるだろう。で、「要」とはどんな意味ですか、という問題が生まれてくる。楊上善にとってはそんな疑問はなかったから、何もヒントは無い。九針十二原の経文を解釈していたときの「要與之期」に対する理解は、「與之期を要する」ではなかったから、また別に頭をひねらないと、現代日本語訳はできない。だからといって、この「要」を訳さなかったら、現代語訳の価値は減ると思う。しんどい話になる。中国の最近の語訳が楊上善注を省いているのは、現代語訳を必要とするような人には楊注は余計なものと考えたのか、難物だから敬遠したのか。おそらくは後者のほうが、より大きな理由だったのだろうと思う。

日本語訳

 『太素』の日本語訳もあった方がよい。それはまあ、そうかも知れないけれど、至難の業です。経文の訳はなんとかするとして、注文は手強い。楊上善は、正統的な漢語で書いているつもりだろうが、実のところ隋唐の漢語の癖が紛れ込んでいるだろう。隋唐の漢語の解読なんて全く自信がありません。秦漢の漢語だって同じことですがね、これはまあ長年つきあってきました。
 『太素』を読もうという以上は、隋唐の漢語だからといって逃げだすわけにはいかないけれど、いま現に格闘中というか、むしろ飜字がなんとかなったら、みんなで格闘するつもりです。つまり、そういう準備の段階です。
 例えば、句読すら自信が無い。巻二十一の九鍼要解の一節:
不可挂以髮者言氣易失也
楊上善注:利機挂以絲髮其機即發神氣如機微邪之氣如髮微邪來觸神氣之謂之挂也微邪來至神智即知名曰智機不知即失故曰易也
 最近の中国の活字本、科学技術文献出版社の増補点校本は「微邪來至,神智即知,名曰智機,不知即失,故曰易也。」 人民衛生出版社の校注本は「微耶來至,神智即知,名曰,機不知即失,故曰易也。」まあ、ここはどちらを取ってもたいしたことは無いけれど、訳すとなったらどちらを取るかを決めなくてはならない。上は適当に挙げた例です。こんな程度の迷いはほとんど毎行に有る。選択を誤ったらえらいことになる箇所も、それはきっと有るでしょう。
 上の例では他に、楊注中の「利機」は「知機」、「神氣之」は「神氣也」の誤りである可能性を考えています。こういうのが気になりだすと、先へ進めなくなります。

禅問答

 禅の公案に、「狗子にかえって仏性有りや又無しや」というのが有って、答えは「無」で、でも「む~っ」と大きな声で答えないと合格しない。模範回答集にそう書いてあるらしい。
 私なんぞは合格しませんね、きっと。「有。狗子に仏性無くんば、何処に有らん」なんて言っちゃいそうです。しかも、本気でそう思っているわけじゃなくて、人と違うことを言いたいだけです。正解を記憶して、言い方を練習するほうが、まだましだ。
 でもね、「老師に仏性有りや又無しや」の正解も「む~っ」だと思いますよ、きっと。
 あるいは、「一切衆生は清浄なるがゆえに、我もまた清浄なり。」
 あるいはまた、「ほとけもむかしはぼんぶなりわれらもつひにはほとけなり。いづれもぶつしやうぐせるみをへだつるのみこそかなしけれ。」

虎になる

 私にとって中島敦の『山月記』は、「己の珠に非ざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった。」という李徴の自嘲の科白に尽きる。ところが唐代伝奇の『李徴』を読み直して、もともとの話は少し違ったかも知れないと思うようになった。
隴西李徴,皇族子,家於虢略。徴少博學,善屬文,弱冠從州府貢焉,時號名士。天寶十載春,於尚書右丞楊没榜下登進士第。後數年,調補江南尉。徴性疎逸,恃才倨傲。不能屈跡卑僚,嘗欝欝不樂。毎同舍會既酣,顧謂其羣官曰:生乃與君等爲伍耶。其僚佐咸嫉之。
 『山月記』の書き出しと大して違うわけではないが、ここにはわざわざ皇族子と書いて、名族であることを誇示している。隴西の李氏は唐のいわゆる五姓七族の筆頭で、これら七族の出身であるか、あるいは少なくとも姻戚でなければ貴族とは認められなかった。李徴はその端くれであることを誇りに思い、卑僚(卑しい家柄出身の同僚)と同席することを快しとしなかった。彼には、若くして進士に及第する程度には才学も有ったのだから、そろそろ科挙が重んじられるようになる時勢に合わせることさえできれば、相当程度以上の出世は望めたはずなのである。しかし、会合のときに酒がまわるといつも、同僚を顧みて「この世に生まれて君らのようなものと仲間になるのか」などと言っていたのでは、いかに当時でも軋轢は有る。つまり、『李徴』は貴族制から官僚制に変わりつつある時代の波に乗り損ねた、あるいは乗るのを良しとしなかった不器用者の自負と苛立ちと、自嘲と自己嫌悪の物語である。詩家としての成就、名声がどうのこうのとはあまり関係が無い。自分以外はみんな卑しく阿呆であると思えた。その感情を、隠そうとはし、また改めようとはして、だが隠しもならず、また改めもならず、鬱々として楽しまず、ついに狂を発して虎となった。
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