靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

経と注の辻褄

 今までに翻訳出版された中国医学古典は、原文と現代中国語訳を、それぞれ勝手に訳して、言い換えれば原文の翻訳はその校注語訳を無視しているのが普通だった。そういうのは嫌です。『太素』の場合、訳すなら経文と楊上善注との辻褄が合うように訳すべきだと思う。そしてそれは極めて困難だと思う。例えば、巻27九鍼要解:
知其往來者,知氣之逆順盛虚也。要與之期者,知氣可取之時也。
楊上善注:知虚實可取之時,爲知往來要期也。
 経文と楊注を付き合わせて考えると、注は「虚実とそれを取るべき時を知るには、往来を知り期を要することを為すべきである」だろうと思う。そうすると「要與之期」は、「與之期を要する」と解する必要が出てくるだろう。で、「要」とはどんな意味ですか、という問題が生まれてくる。楊上善にとってはそんな疑問はなかったから、何もヒントは無い。九針十二原の経文を解釈していたときの「要與之期」に対する理解は、「與之期を要する」ではなかったから、また別に頭をひねらないと、現代日本語訳はできない。だからといって、この「要」を訳さなかったら、現代語訳の価値は減ると思う。しんどい話になる。中国の最近の語訳が楊上善注を省いているのは、現代語訳を必要とするような人には楊注は余計なものと考えたのか、難物だから敬遠したのか。おそらくは後者のほうが、より大きな理由だったのだろうと思う。

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