靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

咽在肝傍

『太素』巻6五蔵命分
肝大則逼胃迫咽,迫咽則喜鬲中,且脇下痛。

楊上善注:胃居肝下,咽在肝傍,肝大下逼於胃,傍迫於咽,迫咽則咽膈不通飲食,故曰膈中也。肺肝大受耶,故兩脇下痛。

肝が大であると,どうして咽に迫るのか。張志聡は,肝は胃の左に在るから,肝が大きければ胃に逼り,そうすると今度は胃が推し上げられて咽に迫る,というように説明している。咽は『素問』太陰陽明論に「喉主天氣,咽主地氣」とあり,区別して言えば食物のほうの道であるから,この説明はやや「風が吹けば桶屋が......」式に迂遠ではあるがまあ良いだろう,仕方がない。

しかし,楊注の「咽在肝傍」はどういう意味だ。「咽は肝の傍らに在る」以外の解釈なんて有るだろうか。咽が肝の傍らに在るとすると,咽は食道の最下部ということになりそうである。『霊枢』邪気蔵府病形篇に「胃病者,腹䐜脹,胃脘當心而痛,上支兩脇,膈咽不通,食飲不下」とあるが,この膈咽は,食道の下と上ではなくて,食道が胃に接するところの膈および咽なのかも知れない。

咽は一般的な辞典では,喉の上部であるが,もともとの意味はそうとは限らない,のかも知れない。
もし,咽はやっぱり食道の上部ということになれば,今度は傍のほうに「そば,近く」の他に,「間接的に影響の及ぶところ」というような意味が必要になる。諸家が今まで気にしなかったのは,つまりそういう意味も有るということか。

偽物喪志

どろどろに溶かした段ボールの固まりをひき肉に練り込んでいる隠し撮り映像が、11日、北京テレビのニュースで流された。豚肉と段ボールは4対6の割合。香料を足して10分ほど蒸すと「偽肉饅」ができあがる。
北京テレビは18日夜、この報道について「捏造だった」と謝罪した。北京市公安局が、報道にかかわったテレビ局の外部スタッフの身柄を拘束して取り調べている。
いくら中国だからといって,「実は政府筋の指示によって,11日のニュースは捏造ということにして,沈静化を図った。」なんて報道が来週にも発表される,ってことは無いよね。でもね,「偽肉饅」と同様にニュースになっていた,「北京市内で売られている大手4社の飲料水が年間約1億本であるのに対し、実際に流通している4社の銘柄入り大型ボトルは約2億本」とか,「河南省では約1万3000本の偽ワインが見つかった。水で半分以上薄めて香料を加えており、価格は本物の5分の1程度」とかは,未だ何にも解決してない,と思うよ。

それにしてもこの偽肉饅事件,エイプリルフールだったら入賞ものだったろうし,安全に処理された紙製品を練り込んだのだったら,ダイエット食品としてヒットしたかも知れない。
続きを読む>>

外国ったって人間の国

儒教の国だかなんだか知らないけれど,「年上の人の前で酒を飲むときは,横向きになり隠れるようにして飲む」なんてことは,おたくらどうしのジジイとガキとでやってくれ。郷に入れば郷に従うというのは確かに礼儀の基本だろうけれど,客人を客人として扱うのだって当然のことだし,はばかりながら日本ではこそこそと飲むのは卑しいとされている。
お互いがお互いの礼儀習慣を尊重するのが当たり前で,自分の基準に叶わないからと,「礼儀がなっていない」と言い出して,あまりの剣幕に周囲の人たちをも驚かせる,なんてのを礼儀がいいとは言わない。ことわっておきますが,贈り物を片手で渡すのは無礼であるとか,酒をつぐときには両手を添えるべきだとかいう意見には賛成します。まあ,当たり前でしょう。でも,握手をするときにも両手を添えるというのはあなた方の(あるいは日本人がすでに忘れてしまった中国文化圏の)勝手な習慣でしょう。欧米人が片手を差し出したら,本当に怒鳴るつもりですか。いらない摩擦を増やしているのは,大半は日本人だと思うけれど,やっぱりあなた方も,ね。儒教には寛容の徳ってのは無いのかしら。

ソウルで原典学会があったときの宴会で,主賓格の銭教授が飲まない人なので,少々つらい思いをしたことがある。さすがの私も酒を出せとはいわない。いくらなんでも,そのくらいの礼儀はわきまえている。で,主催側の代表が遅れて到着して,(考えてみれば,いかに大学の行事の都合とはいえ無礼な話だ。)「おや,酒が出てませんね,飲みましょう!」といってくれたときは嬉しかったね。勿論,横向きになり隠れるようにして飲む,なんてことはしませんでしたよ,お互いに。

お言葉ですが

「自分の思い上がりと失敗を誇張して書き,それによってよみての笑いをさそおうとしているのである」というのは確かにその通りであろうが,「フザケ文の調子で書いてある」というのはどうだろう。やっぱり荘重に書いて内容とのギャップで笑わそうとしたのではないか。だとすれば,「余兒時誦唐宋數千言」は「余児たりし時,唐宋数千言を誦し」と訓読するほうが作者の思惑に近く,「我輩ガキの時分より,唐宋二朝の傑作名篇,よみならつたる数千言」と巫山戯たのでは,カラクリの大半を失うのではなかろうか。そもそも荘重そうな漢文は荘重な気分で読まなければならぬ,と思いこんでいるほうが頑ななのであって,喜劇はドタバタしていなければならぬ,と思いこむほうが田舎者なのであって,まじめくさってまじめそうな台詞を吐くほうがよっぽど可笑しい,と知らないわけは無いんだけど。

血氣所生

『太素』巻10経脈標本に「足太陽之本,在跟以上五寸中,標在兩緩命門。命門者,目也。」とあり,その楊上善注の冒頭は,「血氣所生,皆從藏府而起,令六經之本皆在四支,其標在掖肝輸以上,何也?」であるけれど,『太素新校正』は「血氣所」を「血氣所」に作って疑わない。でも,原鈔はやっぱり「出」ではなくて「生」です。また,巻8経脈連環のおしまいのほうの楊注に,肝から出て肺中に注ぐといって,手の太陰に接するといわないのはなぜかという問いに対して,「但脉之所生,稟於血氣,血氣所生,起中膲倉稟,故手太陰脉從於中膲,受血氣已,注諸經脉。」と答えています。ここは『太素新校正』も「血氣所生」です。「血氣所出」という句は『太素』の経文にも楊注にも見えません。

七診

『素問』三部九候論に「七診雖見,九候皆順者不死。」とある。九候は上中下の三部それぞれに天地人で,合わせて九候である。それでは七診とは何か。一説には「察九候,獨小者病,獨大者病,獨疾者病,獨遲者病,獨熱者病,獨寒者病,獨陷下者病。」で,王冰はこちらを採っているらしい。もう一つは楊上善の説で,沈細懸絶、盛躁喘数、寒熱病、熱中病、風病、病水、形肉已脱を挙げる。ただし,最後の形肉已脱は疑わしい。「形肉已脱,九候雖調猶死。」の注に「土爲肉也,肉爲身主,故脉雖調,肉脱故死。此爲七診也。」とあるのだから,楊上善説の第七診は形肉已脱と考えるのが,まあ普通ではあろうけれど,その次にまとめて「七診雖見,九候皆順者不死。」と言うのだから,七診の中に形肉已脱が有るのはおかしい。「形肉がすでに脱してしまえば,九候が調っていたとしても死んでしまう」と「七診が現れたとしても,その中の一つ形肉がすでに脱するという状況になったとしても,九候がみな順であれば死なない」,やっぱり矛盾するでしょう。実は「形肉已脱,九候雖調猶死。」の前に「其脉乍䟽乍數,乍遲乍疾,以日乘四季死。」という一条が有って,その楊注には何故だか「此爲○診也」が無い。ひょっとすると,「此爲七診也」は「其脉乍䟽乍數,乍遲乍疾,以日乘四季死。」に対する楊注の末尾に在るべきではないか。そうすれば第七診は「其脉乍䟽乍數,乍遲乍疾」である。

ここでも『素問』の注釈者は概ね王冰説を採り,『太素』の注釈者は概ね楊上善説を採っている。おもしろいねえ。ただし,森立之『素問攷注』では,楊上善説が是であると,明言はしてないようだけれど,楊上善説によって第一診から第六診まで番号を振って,しかも「其脉乍䟽乍數,乍遲乍疾,以日乘四季死。」の上に,ちゃんと第七診と書き込んでいる。ちゃっかりしているねえ。

落選した異体字たち

河出文庫から『異体字の世界』というのが出ています。こんなのが一般向けの文庫に登場するとは驚きです。で,ページを繰っていたら,次のようなことが書いてありました。
第三・第四水準の調査中、電話帳データで名前の用例があり、大きな漢和辞典に載っている漢字が、「他の用例が無い」ためにいくつも不採用になってしまいました。「漢和辞典に載っていることは採録の条件にしない。字書にあることより実際に使われていることが大事」という前提があったためです。名付けのために漢和辞典から字を探すことは普通なので、どんな字が名前にあっても不思議ではありません。(一九四八年からは国が定めた文字以外は子どもの名付けに使えなくなりました)。
なるほどこれでは漢字文献をパソコンで扱う人が満足するわけがない。せめて「使われていた」でないと。ユニコードのほうがましかも知れない。CJK統合漢字の拡張領域Bまで使えば,『康煕字典』に載っている漢字くらいまでなら表示できるらしい。VISTAならそれを表示できるフォントも標準で入っているらしい。そうは言っても,「筆押さえ」の有無なんかは無視するならば,些細な筆画の差は同一視するならば,ということですから,『康煕字典』信者には満足されないでしょうがね。

巨刺と繆刺

先ず最初に,巨は恐らくは互の誤りであろう。そして互と繆は,同じく交差の意味である。しかして経は簡(すっきり単純)であるから、これを互(たがい)といい,絡は繁(いろいろ複雑)であるから,これを繆(入り混じる)という。だから経脈を刺すのを互刺と謂い,また経刺と謂い,絡脈を刺すのを繆刺と謂い,また絡刺と謂う。
互刺と繆刺は,いずれも「左取右,右取左」,つまり痛みが在るのと反対側に取る。経脈を刺すのは,例えば左が痛むのに,九候の診は右にあらわれる場合で,その右にあらわれた反応点を処理する。絡脈を刺すのは,痛みは有るのだが,九候の診にはいうほどの反応が無い場合で,絡脈の異常を見つけて,それを処理する。絡脈の異常も,例えば左が痛めば,右にあらわれると考えられる。

ちょっと簡単に言いすぎですかね。でも,敢えてそうしています。

愚智賢不肖

『太素』巻6五蔵命分に「五藏者,所以藏精神血氣魂魄者也。六府者,所以化穀而行津液者也。此人之所以具受於天也,愚智賢不肖,毋以相倚也。」とあるけれど,この「愚智賢不肖,毋以相倚也」がよく分からない。『霊枢』が「無愚智賢不肖,無以相倚也」として「愚」の上に「無」が有ることは,「愚智賢不肖を論ぜず」も「愚智賢不肖のいずれも」も,結局おなじことだろうから置くとして,「倚」はなんだろう。文脈からして,「愚智賢不肖のいずれも,あい~するものは無い」のはずだろう。「倚」は普通に考えれば「たよる,よりかかる」であるが,それでは人は誰も五蔵六府を頼りになんかしない,ということになってしまいそうである。そこで,張介賓は「偏」(かたよる)の意味だと言い,また一曰として「當作異」と示し,郭靄春はもともと「倚」「奇」「異」は互訓であると言う。「愚智賢不肖を論ぜず誰しも同じであって,なんら偏ったり異なったりすることは無い。」これで意味は通じる。何も問題は無い。
ところが,楊上善の注は「五藏藏神,六府化穀,此乃天之命分,愚智雖殊,得之不相依倚也。」と言う。「依倚」はやっぱり「たよる,よりかかる」ではないのか。少なくとも『漢語大詞典』には他の意味は載ってない。楊上善の注は本当にこれで良いんだろうか。

そもそも,経文の「毋」は本当に「毋」で良いんだろうか。「毋」でなくて,「ことごとく,例外なく」を意味する字のほうがぴったりしそうなんですが......。そうだったら,「倚」は「依る」でなんら問題はない。今度は楊注の「不」の字は衍文ではないか......,となりそうですが。

但得真藏脉

『太素』15尺寸診に「人以水穀爲本,故人絶水穀則死,脉無胃氣亦死。所謂無胃氣者,但得真藏脉,不得胃氣也。」と言うのは良い。しかし,続けて「所謂肝不弦,腎不石也。」とはなにごとか。楊上善は「雖有水穀之氣,以藏有病無胃氣者,肝雖有弦,以無胃氣不名乎弦也;腎雖有石,以無胃氣不名乎石。故不免死也。」と説明するが,到底受け入れられない。五蔵の脈状に弦鉤弱毛石が有っても,胃気が無ければ弦鉤弱毛石とは名づけない,などということは無かろう。
『素問』平人氣象論に「冬胃微石曰平,石多胃少曰腎病,但石無胃曰死,石而有鉤曰夏病,鉤甚曰今病。藏真下於腎,腎藏骨髓之氣也。」とあり,森立之『素問攷注』に『脈經』卷三の「冬胃微石曰平,石多胃少曰腎病,但石無胃曰死,石而有鉤夏病,鉤甚曰今病。【凡人以水穀爲本,故人絶水穀則死,脈無胃氣亦死。所謂無胃氣者,但得真臓脈,不得胃氣也。所謂脈不得胃氣者,肝但弦,心但鉤,胃但弱,肺但毛,腎但石也。】」を引いている。【 】内は小字である。この『脈經』の文章「肝但弦,心但鉤,胃但弱,肺但毛,腎但石也。」は一般に善本とされている,例えば静嘉堂文庫所蔵の影宋本では「肝不弦,腎不石也。」となっている。また【 】内に相当する文章も大字である。沈炎南『脈経校注』によれば,元・葉氏広勤書堂刻本もしくは清・光緒十七年池陽周学海校本が,『素問攷注』に引くものと同じである。
つまり,「所謂肝不弦,腎不石也。」は「所謂肝但弦,腎但石也。」の誤りではなかろうか。
<< 27/50 >>