月下美人
- 雑事
- by shenquzhai
- 2007/07/04
花言葉:繊細,はかない美,はかない恋,つかのまの快楽,艶やかな美人,......妖怪。
中国の伝奇に美女がでてきたら,たいていは幽霊か妖怪である。
……休息している閑な時間
党籍を剥奪されて悲惨な目に遭いそうだが,それで選挙がなんとかなるんだという頭の整理で,しょうがないなと思っている。それに対して党を恨むつもりはない。(某大臣)
五藏有六府,六府有十二原,十二原出于四關,四關主治五藏,五藏有疾,常取之十二原。十二原者,五藏之所以稟三百六十五節氣味者也。五藏有疾也,應出于十二原,而原各有所出,明知其原,覩其應,而知五藏之害矣。ここで言われていることを要約すれば,四関(両腕,両踵関節)に原が有り,それは五蔵の病の診断点であり,治療点であるというだけのことである。実質的には六府の原のことは言ってない。とすると,六府云々は衍文であろうし,十二原云々には誤りが有るに違いない。十二原が四関に出るとあるが,どう考えても四関に出るのは十原である。「十二原而原」を,『霊枢』では「十二原二原」に作る。これは「而」と「二」が同音であるからの紛れだろう。もしこの「二」字が,実はさらに代替符号(重文符号)であったとすれば,下の「原」字は衍文と考えて,「十〃原〃」乃ち「十原十原」となる。前の「十二原十二原」もこれに準じて考える。
陽中之少陰,肺也,其原出于大淵,大淵二。陽中之大陽,心也,其原出于大陵,大陵二。陽中之少陽,肝也,其原出于大衝,大衝二。陰中之大陰,腎也,其原出于大谿,大谿二。陰中之至陰,脾也,其原出于大白,大白二。五蔵の十原である。何も言うべきことは無いように思える。しかし,少し待ってもらいたい。実は九針十二原篇の九針の用法は一つの例外も無く病所に施すものである。しかるに原穴はいずれも腕踵関節部に在る。本当にそうなのか。ここで陽中とか陰中とか言うのは,躯幹に於ける部位の陰陽である。手、足の経脈に位置するから陰陽と言うわけではない。「陽中之少陽」の陽中を『霊枢』や『甲乙経』に従って「陰中」に改めるべしという意見も有るが,それは原穴が腕踵関節部に在るというのが常識になってからの改訂ではないか。躯幹に於いては,何処に陰陽の境を設けるかによって,肝の位置の表現には微妙なところが有る。
鬲之原,出于鳩尾,鳩尾一。肓之原,出于脖胦,脖胦一。残りの二つの原について,膏とか肓とかの説明は教科書に任せるとして,実は局所を対象にしている。膏の原と肓の原の用法については,四時気篇に記載が有る。邪が大腸に在るときには膏の原(『霊枢』四時気篇では「肓之原」に作るが,誤りのはずである。『太素』は「賁之原」に作り,楊上善注に「賁は,膈であり、膈の原は鳩尾に出る」と言っている。)と巨虚上廉と三里を刺せと言い,邪が小腸に在るときには肓の原と巨虚下廉を取れと言っている。これを邪が大腸あるいは小腸に在る場合の使い分けと考えれば,膏の原は大腸と,肓の原は小腸と関係が深いと言えそうである。大腸に在る場合に胃の下合穴である三里も刺せと言うところからすれば,膏の原は大腸と胃に関わると言うべきかも知れない。いずれにせよ,現場主義と言って良い。
凡此十二原者,主治五藏六府之有疾者也。これは五蔵の十原と膏、肓の原をとりまとめて編集したときのものだろうから,「十二原」で良い。また言い換えれば,膏、肓の原が「六府之有疾者」を主治する。つまり,ここまでに挙げた十二原と篇末の三里および陰陽の陵泉とには,少なくとも編者にとっては,価値に微妙な差は有る。
脹取三陽,飡洩取三陰。脹満と飧泄が『霊枢』諸篇にしばしば対挙されることからすれば、ここでも上腹と下腹の主たる症状を挙げたのかもしれない。脹満に上腹の鳩尾を刺し,飧泄に下腹の脖胦を取ると言いたいところである。ただし、そうなると,「三」字には何かの誤りである可能性が出てくる。
今夫五藏之有疾也,譬猶刺,猶汚也,猶結也,猶閉也。刺雖久,猶可拔也;汚雖久,猶可雪也;結雖久,猶可解也;閉雖久,猶可决也。或言久疾之不可取者,非其說也。夫善用鍼者,其取疾也,猶拔刺也,猶雪汚也,猶解結也,猶决閉也,疾雖久,猶可畢也。言不可者,未得其術也。こういう大げさな文章は、概ね宣伝文句のようなもので、大して実際的な意味は無かろうが,ここでは提唱した五蔵の原穴の威力の宣言である。それにしてもやはり,五蔵の原穴は別格なのである。
刺熱者,如以手探湯;刺寒凊者,如人不欲行。ここの針の手技の要諦は,九針十二原篇の冒頭に述べられている気血に対する補写とは異なる。対象が熱であるか寒であるかによって,速刺速抜か徐刺徐抜かを選択する。他の篇にも診断の大枠として,気血の多少ばかりでなく寒熱を考えていることはかなり有る。より原始的とは言われるかも知れないが,捨てたものでもない。
陰有陽疾者,取之下陵三里,正往無殆,氣下乃止,不下復始。脹論に「三里而寫,近者一下,遠者三下,毋問虚實,工在疾寫。」とあるのが,頗る似通っている。治療の要点は速やかに瀉すに在り,その目標は足の三里である。また,そこで岐伯は「脹者,皆在於府藏之外,排藏府而郭胸脇,脹皮膚」云々と説明しているが,これと「陰有陽疾」との折り合いはもう一つはっきりしない。
疾高而内者,取之陰之陵泉;疾高而外者,取之陽之陵泉。四時気篇の「飧洩には,三陰の上を補い,陰の陵泉を補う」という記載を基として,『明堂』などの主治を考察すると,脹満に陽陵泉,飧泄に陰陵泉という使い分けが成立する可能性は有る。気を下すべき状況で,脹満を外なるもの,飧泄を内なるものの代表とする。そうすると,つまり「脹取三陽,飡洩取三陰。」は,ここと大いに関わっている。
臂陽明有入鼽徧齒者,名曰人迎,下齒齲,取之臂,惡寒補之,不惡寒寫之。『太素』巻26寒熱雑説の一節の,新校正における句読である。重校も校注も同じ。しかし,この句読には疑問が有る。臂陽明の「名曰人迎」は,『霊枢』に拠って「名曰大迎」に改めるべきであろうが,それにしても「これを臂に取る」はおかしい。この部分は「下齒齲取之,臂惡寒補之」云々とすべきではないかと思う。つまり足陽明の「視有過者取之」と同文例である。また句読とは別に,角孫は「足之大陽」ではないだろう。それでは下の足太陽云々と重なるし,『甲乙』には「手足少陽、手陽明之會」とあり,『素問』氣府論王註には「手太陽、手足少陽三脉之會」と言い,『甲乙』もここに相当する文章では手太陽とする。また,位置も「在鼻與鼽前」ではなくて「出眉外」のはずである。
足之大陽有入頰偏齒者,名曰角孫,上齒齲,取之在鼻與鼽前,方病之時,其脉盛則寫之,虛則補之。一曰取之出眉外,方病之時,盛寫虛補。
足陽明有俠鼻入於面者,名曰懸顱,屬口對入繫目本,視有過者取之,損有餘,益不足,反者益甚。
足太陽有通項入於腦者,正屬目本,名曰眼系,頭目固痛,取之在項中兩筋間,入腦乃別。
臂陽明有入鼽徧齒者,名曰大迎,下齒齲取之,臂惡寒補之,不惡寒寫之。いくらなんでも突拍子もない意見かと,少し不安になって郭靄春の『黄帝内経霊枢校注語訳』を確かめてみたら,ちゃんと「下齒齲取之,臂惡寒補之」云々となっていました。安心するとともに,ちょっとがっかりです。私が言い出しっぺではなかった。それどころか,私の調べたいくつかの『霊枢』の参考書はたいていそのように句読していました。『太素』の研究者と『霊枢』の研究者の違いがこれほど際だつのも珍しいのではなかろうか。
臂太陽有入頰偏齒者,名曰角孫,上齒齲取之,出眉外,方病之時,盛寫虛補。
足陽明有俠鼻入於面者,名曰懸顱,屬口對入繫目本,視有過者取之,損有餘,益不足,反者益甚。
足太陽有通項入於腦者,正屬目本,名曰眼系,頭目固痛取之,在項中兩筋間,入腦乃別。