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選択的中絶禁止の根拠または無根拠

選択的人工妊娠中絶禁止の根拠または無根拠

                              (室月 淳 2014年4月12日,4月25日一部修正)

出生前診断は「生命の選別である」という倫理的な批判にたいしては,産むか産まないかはカップルがきめる「自己決定」という論理で答えられることが一般的です.そのかわりに「どちらを選択しても社会的不利益を受けないよう,国や社会は全力で支援する」ことが必要とされます.産むことを選択した家族のために,各種の福祉,社会対策やノーマライゼーション政策の実施が求められます.障害者が排除されるのではないかという不安のもとでは,どのような出生前検査も障がいを持って生活している方や家族を始め,国民に受け入れられるはずはありません.NIPTの導入を契機として,「すべての障害者が安心して生活できる社会」をつくっていくという社会の姿勢が求められます.

といったところが,出生前診断をめぐる現在の議論の一般的な結論だろうと思います.しかしこの結論は「生命の選別」という批判にたいして真正面から答えているというよりは,「生命の尊重」という主張にたいし「産む側の自己決定」という別の価値観を単に並列しているだけのようにもみえます.女性の自己決定尊重(プロチョイス)と,胎児の生命尊重(プロライフ)の対立軸で人工妊娠中絶について考えても,これ以上の生産的な議論はうまれそうもありません.それは,自己決定権を重視する考えかたも生命尊重主義も,人間のつくりだした一種のフィクションなのであり,それぞれになにか絶対的な根拠があるわけではないからだと思います.

さらには「自己決定」のための前提として社会施策の実現なども,論理的に自明のようにみえながら,つきつめて考えるとわからなくなってくるところがあります.これはすでにわれわれが簡単には解決のできない矛盾した現実をそのまま生きているからでしょう.そういった現実のなかから問題がことばになって発せられます.それに答えようとした瞬間に,問題はまた袋小路にはいってしまいます.われわれにできることは不断に問いを問い続けることだけかもしれません.

これまでわれわれは人工妊娠中絶の問題をどのようにとりあつかってきたのでしょうか? それは「妊娠22週未満の分娩はすべて流産とする」,すなわちこの時期に出生する児は「はじめから生きていない」と定義する,ということばの操作によって解決してきました.こういった現実の生々しい問題を,「ことば」の抽象的な定義によってすり抜けてしまうやり方は,近代の理性が発明したとてもスマートな方法です.

母体保護法という「ことば」によって人工妊娠中絶は公的に認められていますが,しかしそれはどう言いつくろっても結局は「殺人」にほかなりません.人工妊娠中絶が「殺人」であるのは,妊娠初期ではそれは象徴的な形で,妊娠中期においては明瞭かつひそやかな形で顕在化しています.アメリカ各州の「中絶法」は"Fetal Homicide Laws"とよばれています.Homicide(殺人)をある条件下では法的に許容するという内容です.

人工妊娠中絶はしょせん人殺しであると思います.それではわれわれは,いろいろな理由で胎児を中絶したいという女性にたいして,どんな理由があっても中絶はゆるされないといえるか,といえばなかなかそうはいえません.妊娠中のリスクや生まれたあとの責任をすべて女性にあずけたまま,じぶんたちが一方的にかってなことをいえないと考えてしまいます.胎児の生きる権利はあるのはまちがいありませんが,それは100%の無条件の原則ではないでしょう.

それでは選択的人工中絶についてはどうでしょうか.もし胎児が重い病気をもつことがわかって,女性が中絶を希望するとき,それを禁じることができるのでしょうか.社会がその子の面倒をみて,女性に負担をかけさせないというのであれば,選択的中絶を禁止することはできるでしょう.そうでなければ禁止することはむずかしい.

もし障害をもつ児の出生を事前に回避できるのであれば,いざ自分がその立場におかれたときにそれを選択しないひとはけっしてすくなくはないでしょう.もちろんそれは間違いなくひとが自分の都合しか考えていない「エゴ」です.児の立場からすれば,障害をかかえて生まれてきたとしても,たとえその生命がわずかであったとしても,家族にみまもられて生涯をまっとうするのが本望でしょう.医療は本来そのような思いをかなえるためにあるべきだったはずです.それでは選択的中絶は禁止されるべきか? そうであるとすればその根拠はなにか?

このことをつきつめて考えると,結局のところ選択的中絶を禁止する論理的,道徳的根拠はないような気がします.それは禁止する根拠を見いだせないというだけでなく,これまで無数の人工妊娠中絶をおこなってきて,これからもおこなうであろう人間の現実を,道徳的に正しくうけとめることができないのです.選択的中絶を禁止する根拠が存在しないというよりは,そこでは選択的中絶禁止における無根拠性があらわになっているといったほうが正しいかもしれません.

これらのことは人間の生き方の根幹にふれるものですから,そのつど議論の俎上にあがりながらいつの間にか忘れられてしまい,徹底的につきつめられたためしがありません.しかし根幹的で永遠の課題という理由で議論をいつまでも棚上げにしているわけにはいきません.こういった議論をただ堂々めぐりしているだけの不毛の営為としてきらい,選択的中絶の是非を不問に付したまま「自己決定」の錦の御旗のもとに出生前診断、選択的中絶の道をつきすすむひともいますが,これは一種のニヒリズムといえるでしょう.

選択的中絶を禁止することには根拠がないはずなのに,ひとはいかなる現実的な理由から,選択的中絶はやはり望ましくないと考えるのでしょうか.それはやはり中絶の本質は人殺しと感じているからだろうと思います.「胎児をむやみに殺してはいけない」という感覚をおおくのひとがいだいているのでしょう.このことが絶対的な倫理原則にはならないにしても,この感覚がすこしでも社会のなかで現実的になるためにはどうすべきかと考えることはできます.このことは,むやみに中絶をえらばないですむ社会とはどういう社会なのかという問いにいいかえることができます.すなわち障がい者も健常者も区別なく同じように共存できる社会です.

問題にたいする新たな答えの道をさぐりながら,平凡な結論にまたたどりついてしまったようです.しかし実はそれでじゅうぶんなのかもしれません.

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カウンタ 11005 (2014年4月12日より)