痛みの世界史 連載11 →
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 yokota
1991.4-5
「古代文明と痛み」

 現代医学のように、一見無関係にみえることが複雑にからみあって、内容がきわめて豊かになった学問の場合、その圧倒的な内容の詳細を秩序だて、それに一貫性を与えるのに歴史を調べることがしばしば有益である。また、古い時代に考えられていたことを理解することは、治療に役立つかもしれない。というのは、患者の意識の奥に古い時代の人たちと共通な人間性に根ざしたものが残っているからである。さらにまた、新しい洞察を生み出す資料を歴史の中から見出す可能性もある。

 さて、ギリシャの詩人ホメロスによると、当時の最高の医師はエジプト人であった。ギリシャの歴史家ヘロドトスもエジプト医学について熱心に語っている。エジプト医学について記録したパピルスもいくつか発見されている。それらを手がかりにして推察すると、古代エジプト人は死人の悪霊が神から送られて体の開口部とくに鼻孔から体内に入ると痛みを生じると考えていた。

 バビロニア文明についての記載は、エジプト文明よりもはるかに多く発見されている。保存性のよい粘土板に書き込まれたためである。世界最古の法典「ハンムラビ王の法典」にも医療行為の報酬、医療過誤の罰則などの規定が明記されている。バビロニア人は、痛みを伴う病気はすべて罪の報いで、悪魔あるいは、魔神の呪いと見なしていた。痛みを表す英語はpainであるが、フランス語にもこれに対応するpeine という言葉がある。これらはいずれもラテン語のpoena あるいはギリシャ語のpoeineに由来し、もともと罰を意味している。<

 ギリシャ科学は紀元前6世紀イオニアに誕生したといわれている。医学史上に大きな影響を及ぼした最初の人物がクロトンであった。彼はピタゴラスの継承者で動物の脳を調べ、脳が感覚の中枢であるという結論に達した。感覚器官を通じて進入した元素の粒子が血管や他の管の網をへて脳に運ばれ、感覚を生じると説明した。

 分子論をはじめて唱えたデモクリトスも、体の孔や血管に元素の粒子が進入して、心が目覚めると感覚がおこると考え、粒子の大きさ、形、運動が感覚の性質を決めると考えた。痛みは鋭い鍵をもった粒子が体に進入して激しく動き、心の分子の静けさをかき乱したときに起こると説明した。

 デモクリトスと同じ頃に生まれたヒポクラテスは医学の父といわれる人であるが、理論よりも実際面を重んじ、思弁的理論をしりぞけた。そのためヒポクラテス派は痛みを説明する理論をもたなかった。

 ヒポクラテスよりも年上であったプラトンは、外から入り込んだ4元素すなわち、土、空気、火および水が不調和に運動して精神に作用すると痛みが起こり、それを心臓が感じとると考えた。

 プラトンの高弟であったアリストテレスは、その師と多少異なる考えをもち、痛みは感覚でなく、快感に相対する情動であるとした。心臓が柔らかくて熱をもち、そこに多量の血液がたまると、痛みが発生すると説明した。疾病に関してはヒポクラテス派の考えを採用し、血液、粘液、黄胆汁および黒胆汁の4体液の不均衡がその原因になるとみなした。

 ローマ時代にはいると、ガレン(ガレノス)がそれまでの考えと、自分自身の発見を統合して生理学の体系を打ち建てた。この体系はベザリウスやハーベイによって、否定されるまで、金科玉条のように伝えられた。ガレンは末梢神経が運動と感覚の機能をもつことを知っていた。病気による痛みは末梢神経によって伝えられ、末梢神経が中等度に刺激されると快い感覚を生じ、それが強く刺激されると痛みが起こると説明された。皮膚では末梢神経に中等度の刺激が加わると触覚、強い刺激が加わると痛みをひき起こすと考えた。この考えは19世紀の強度説と同じである。今世紀の後半に提唱されたメルザックとウォールのゲート・コントロール説もこの流れをくむものである。

 ハンムラビ王の法典の碑(ルーブル美術館所蔵)
 1901年ルサで発見されたこの碑に楔形文字で刻み込まれたハンムラビ王(紀元前 1792-1750)の法典は、現存する世界最古の法典である。その中に、医療行為の報酬、医療過誤の罰則などの規定が明記されている。

 アリストテレス(レンブラント作、メトロポリタン美術館所蔵)
 アリストテレスの感覚に関する記述は「霊魂論」と「自然学小論集」にみられる。それによると感覚には、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五つがあって、それらは感覚器官を通じておこる。痛みは感覚でなく、快感に相対する情動の一つとされた。痛みは単なる感覚でない。情動の側面をもっている。アリストテレスの説いた内容にも一理がある。

痛みの世界史 連載 →
123456789101112131415yokota