痛みの世界史 連載7 →
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1991.2-5
「痛みと外科医,太陽王の場合」

 痛みは人を区別しない。身分の高い人も、庶民も同じように痛みの犠牲者になる。  “L' Etat, c'est moi.”(朕は国家なり)と豪語した太陽王ルイ14世もその例外でなかった。それどころか、彼が痛みに苦しんだのは、異常とも思える不衛生の報いで、むしろ当然であった。

 彼の栄光の象徴となったベルサイユ宮殿にはいまもってトイレがない。当時この宮殿には、約5,000人もの人が働いていたが、これらの人たちが階段のわきのカーテンのかげで用をたしたというから、豪華を極めたかの宮殿に漂っていたのはバラの香りではなく、排泄物の匂いであった。これはほんの一例で、風呂に入ったことがないし、ひげもたまに剃る程度で、手や顔だってまれにしか洗わなかったという。
 その当然の報いとして、何度か病魔に冒されたが、1657年の腸チフスと1687年の痔瘻がとくに有名である。

 幼少で王位についた彼は、師であったマザラン枢機卿の教えを固く守って、総理大臣を置かず、政教分離に徹して教会の介入を許さず、戦争を好む軍人を避け、国王を自分たちの長と考えたがる貴族を排して、絶対王政を敷いた。だから痔瘻の痛みは、現実の政治に直ちに影響を与えた。歴史学者のミシュレーは、ルイ14世の治世を痔瘻の前と後に分けている。痔瘻以前に、拡げた領土も、死ぬときにはもとの国境線近くまで後退して、後に残ったのは、数多くの傷痍軍人であった。この人たちを収容するために建てられたのがパリのアンバリドである。

 さて当時の医療従事者は、一番上にランクされた内科医、その下の外科医と最も身分の低い床屋外科医で、お互いがライバル意識に燃え、反目し合っていた。この序列は宮廷にも適用された。太陽王の痔瘻の治療もまず内科医の手に委ねられ、あらゆる種類の軟膏、薬液の外用が試みられた。しかし、内科医は所詮無力であった。そこで、宮廷外科医のフェリックスが登場した。彼は見事な腕前を見せて、痔瘻の閉鎖手術に成功した。その功により宮廷内科医たちの及びもよらぬ報酬が与えられ、貴族に列せられた。この事件は、フェリックス自身の栄誉もさることながら、フランスの外科医全体の社会的地位の向上に大きく貢献した。

 いま一つの腸チフスは、生命の危険をともなっていたが、奇跡的に一命をとりとめた。このとき、アンチモニーの複塩である吐酒石が使われた。このアンチモニーは激しい毒物で、当時この治療法の可否については議論があった。ルイ14世の治療経験はその一方に軍配を挙げたわけで、この治療法が流行するきっかけとなった。
 このような治療法が流行すると、数多くの犠牲者がでる。ルイ14世の庇護のもとに数多くの名作を残した劇作家兼俳優のモリエールも、その一人息子と親友の一人をこの治療法によって失ったと思い込んでいた。彼の作品にでてくる医者はいつも滑稽な嘲笑の対象になっているが、これも医者への恨みの反映というべきか。モリエールは、丈夫な体の持主でなかったが、病気の有無に関わりなく必ず出演した。自分が腹痛だからといって50人もの人を仕事から放り出すのはよくないと思ったからである。1673年2月17日、彼は最後の作品となった「気で病む男」の初演にあたって、自らアルガンの役を演じ、上機嫌な笑顔を作っていたが、とうとう観客に痙攣痛の苦しみを隠しおせることができなかった。幕が下がると直ちに帰宅し、間もなく息絶えた。当時としては、異例のことであったが国王の命により彼は聖地に葬られた。
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