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1991.1-5
「ミケランジェロの筋肉痛」

 カトリックの総本山で、世界最小の独立国もあるバチカン市国のシスティーナ礼拝堂で、今世紀最大と云われる文化事業が進められている。日本の民間企業からの資金援助で1982年から始まったミケランジェロのフレスコ画の修復事業だ。

 ミケランジェロは1508年に天井画の制作を始めて、1511年にこれを描き終えた。それから20余年の歳月をはさんで、1534年最後の審判の制作にとりかかり、1541年これを完成した。修復事業の方は、天井画の部分を終え、1993年の終了を目指して、現在、最後の審判の修復が進められている。
 天井画の修復作業は、天井の曲面に沿うように組まれた足場を使って進められた。足場から天井のミケランジェロまで50cmで、手を伸ばせば、簡単に届く距離だ。足場には材料の違いこそあれ、ミケランジェロが使ったと同じ構造のものが使われた。体を反らせ、天井に顔を向けて手を動かす。修復も、ミケランジェロが描いたときと同じ姿勢で行われた。

 天井画の修復作業を通じて再認識されたわけだが、一人でこの天井画を描き続けたミケランジェロの仕事は、人間業を越えていた。無理な姿勢で3年もの間この仕事を続けたのだから、絶えず筋肉痛に悩まされたであろうことは容易に想像できる。
 衰えきってこの大仕事から解放されたとき、ミケランジェロは、自分自身について次のように綴ったとロマン・ロランは伝えている。

 「労苦が私の頚に瘤を作った。ちょうど水がロンバルディアの猫に作るように。私の腹はあごに向かって腫れ上がり、私のひげは天に向かって逆立ち、私の頭蓋骨は背の方にかしぎ、私の胸は鳥身女面の怪物のようだ。絵筆は私の顔に滴を垂らし、色とりどりのモザイクと変わった。私の腰はからだにめり込み、私のひじは平衡錘となる。私は足下が見えぬので当てずっぽうに歩く。私の皮膚は前で突っ張り、後ろではたるんでいる。つまりシリアの弓のように曲がっているのだ。私の知性もまた私の肉体のように歪んでいる。それは、曲がった蘆ではうまく吹き鳴らすことはできないのだから・・・」(蜷川譲訳.ミケランジェロの生涯)

 ミケランジェロは自分が醜くなったことを嘆いているが、肉体の美しさに人一倍魂を奪われていた彼にとって、このような醜さはまさに恥辱であったに相違ない。

 長い間のススと表面に塗られた膠で褐色に変わっていた表層が洗い去られたおかげで、天井画に制作当時のままの美しい色がよみがえった。それを見上げながら、制作中のミケランジェロを悩ました筋肉痛を思った。

 ラファエロが描いたミケランジェロ
 ミケランジェロがフエンコ画の制作に着手した1508年、ライバルであったラファエロが大勢の弟子たちを使って、バチカンの部屋部屋の壁に絵を描き始め、無類の成功を収めていた。その一つがアテネの学校で、前列中央に、ミケランジェロをモデルにしたヘラクリトスが座っている。

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