痛みの世界史 連載8 →
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1991.2-20
「痛みの社会的効用,または割礼のこと」

 友人の外科医を、ある外国人がその幼い息子と共に訪れた。その子の陰茎の包皮を切って欲しいというのだ。友人は包陰手術の術式にしたがって包皮を縦に切開した。すると父親はけげんな顔をして「切り方がおかしい」。と苦情をいった。この人はその息子にいわゆる割礼を依頼したらしいのだ。

 割礼を英語でcircumcisionという。ラテン語に語源をもつ言葉でcircumは「回り」、 cisionは、「切ること」を意味する。もとのラテン語はcircumcidoで「丸く切る。」という意味の言葉である。割礼の風習をもつ民族の間では一般に包皮を環状に切り取り、陰茎に環状の溝をつけることが行われている。

 割礼の歴史は古く、エジプトのサツカラで発掘された墓の門柱に割礼を示すレリーフがある。これは紀元前2423年から2262年の間に作られたものだという。割礼に使われたのは石器のナイフである。それには象形文字で「お前にいいことをしてやろう。」と書かれている。他の場所で発掘されたミイラの中にも割礼のあとを残したものが多数ある。しかし、割礼を受けていないものもあってその理由はよく判らない。

 ユダヤ教にも古くから割礼の習慣があって唯一神ヤウエをいただく共同体への所属のしるしとなっている。外国人がユダヤ教徒になることが許されていたが、そのためにはユダヤ人と同じように割礼を受けなければならなかった。それは絶対的な条件であった。それは現在も同じで異教徒がユダヤ教徒と結婚するときもこのおきてに従うことが要求される。このことは、異邦人をその信者に加えようとしたときの原始基督団にとっても大きな問題となった。

 古代エジプトにおける割礼の目的がなんであったかは議論のあるところで、ギリシャの歴史家ヘロドトスは健康のためと解釈していた。確かに包茎の人に陰茎癌が多いから、その予防に役立つといえる。しかし、彼らが本当にそれを知っていたかどうかは疑わしい。他の説によるとこれは性生活の準備であったという。包茎の人が多い民族では、あるいはそうかもしれないが、あまり根拠はない。

 中央オーストラリアと北西オーストラリアの原住民は、今でもイニシェーションの儀式(成人式)に石器による割礼を取り入れている。ところが同じオーストラリアでもニューサウスウエルズ州では抜歯、マレー河の南部では脱毛、南オーストラリア州とクインズランド州の東部では瘢痕、西オーストラリア州では腕を長時間しばり上げる緊縛が行われ、割礼の風習はない。しかし、これらはすべて割礼と対等の意味をもち、痛みの試練に耐えることが目的なのだ。思春期の男子が成人の仲間入りをするに当たって、心を引き締めて、部族のメンバーとしての自覚を高めさせようということだろう。それはまた、共通のシンボル、神話、希望で結ばれた部族の大人たちと思想的感情的に結ばれるのに役立ち、社会的価値をもっている。その痛みに耐えたもののみにそれぞれの部族集団が理想とする世界が掲示されるのだ。痛みは取り去るべきもの、避けるべきものという通念では理解できない。しかし、われわれ日本人にとってさほど不可解なことではあるまい。難行苦行に耐えて悟りの境地に到達したり、滝に打たれて心を清めたりすることの意義を十分知っているからである。痛みに耐えることが精神の発達に役立つという思想はプラトンにもあった。モーツァルトの魔笛もそうであった。苦しみに耐えてはじめて大人の仲間に入ることができるという制度は、われわれが忘れかけている何かを教えているようでもある。
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