痛みの世界史 連載2 →
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1990.11-20
「痛みの共感、またはリヤ王のこと」

 ゲーテが「人間は老いるとリヤ王になる」と語ったとエッカーマンは伝えている。リヤ王はシェイクスピアが作った名高い芝居の一つで、戦前に尋常小学校を出た人たちは、そのあら筋を教わった。

 老いた英国王リヤ王が三人娘の上二人コネリルとリーガンに領国を分かち与え、末娘のコーディーリアと縁を切る。上二人が巧みにへつらい、末娘が媚びることを拒んだからである。ところがそれぞれ領国の半分をえた上二人は、身を寄せた王を手ひどく扱う。二人の娘に追い出され、従う者も少なくなって、荒野をさまよう王は、絶望に打ちひしがれ、ほとんど狂気の状態になる。フランス王に嫁いだコーディーリアに一度は救われるが、やがて彼女と共に上二人の娘の軍勢の虜囚となる。コーディーリアは牢獄で締め殺され、絶望のうちにリヤ王も息絶える。

 「リヤ王」には、王と三人の娘たちをめぐる主筋の他に重臣グロスター伯とその息子二人の脇筋がある。庶子エドマンドの奸計にかかって一つ年上の嫡子エドガーが父親から勘当される。リヤ王の娘リーガンとその夫コーンウォール公は、臣下のグロースター伯に対して、どんなことがあっても王を助けてはならぬと厳命する。しかし、惨状を見かねたグロスター伯は、ひそかにリヤ王を助け、父を救おうとして、故国に帰ってきた末娘コーディリアの軍勢が陣をしくドーバーに向けて逃がしてやる。伯の息子エドマンドの密告でリーガンとコーンウォール公がこのことを知る。リーガンはわが子に裏切られたグロスター伯の両眼をえぐり抜くよう命じ、夫のコーンウォール公が自らの手でこれを実行する。

 この脇筋は、主筋によく似た情況を、より一段となまなましく、しかも日常に近いレベルで提示している。そこに出てくるセリフの中には、われわれの感覚に直接訴えるものがあって、見ている観客が思わず自分自信の体に痛みを覚える。一眼をえぐり抜いたところで、さらに残る他眼をえぐり抜く瞬間、「この腐ったゼリーめ!」とコーンウォール公がその指先に触れる感じをなまなましく叫ぶと、爪を突き立てられたクロースター伯がその眼に覚える激痛を観客も共感して、戦慄する。

 勘当されたエドガーが「うめき声をあげながらしびれて無感覚になった素肌の腕に、針だの、木の串だの、釘だの、野バラの小枝などを突き立てて」物乞いをする生活を送ろうと決意するところや、その隠れ小屋にやってきて「悪魔が幾百となく赤焼けの鉄串を持ってきて、シュッシュッとあいつらに攻めかからせて・・・」と云うリヤ王に向かって「悪魔めがこの背中を噛むよ!」と叫ぶ場面でも戦慄的な痛みを共感する。

 「痛みは主観的な意識内容で、当の本人だけの物である。他人に判るはずがない」という主張がある。このような主張を全面的に否定するつもりは毛頭ないが、他人の痛みに共感して、心痛める場合も確かにある。患者の痛みが判るような人間」の養成を医学教育の目標の一つにかかげることに異論を唱える気にはなれない。

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