痛みの世界史 連載9 →
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1991.3-5
「ブラジキニンの発見」

 ブラジキニンは、アミノ酸9個からなるポリペプチドで、炎症による痛みの主要起因物質である。

 およそ発見には三つの段階がある。第1段階では、人々がそれを信じなかったり、たとえ信じてもその意義を認めてくれない。第2段階にはいると、その重要性が認められるにつれ、すでに誰かがやっていたと指摘される。第3段階にはいると、ようやく人々が発見者の功績を正しく認めるようになる。この段階に入ることができたら好運である。ブラジキニンの発見もその例外でなかった。

 それは1948年のことであった。Vargasの独裁政権の支配下にあったブラジルでは、国内経済が不況にあえぎ、大学や研究所も活動を抑圧されていた。サンパウロ州では、文官のAdhemar de Barros がBatantan研究所を閉鎖し、研究の場を失った研究者たちは各地に四散していった。その中の一人、Rosenfeld は、サンパウロの生物学研究所にいたMauricio Rocha e Silva の研究室で働くこととなった。

 Rocha e Silva は、英国と米国での留学を終えて帰国したばかりで、抗ヒスタミン剤の薬理作用を研究していた。あるとき、Rosenfeld は南アメリカにしか生息しない Bothrops jaroaracaの蛇毒を持ち込んだ。この蛇に噛まれるとショックに陥ることが知られていた。持ち込まれた蛇毒は強力な血液凝固物質であったが、血液のフイブリノーゲンを除去した犬でも血圧下降が認められた。この蛇毒を注射されてショックに陥った犬の血清は、モルモットから摘出した腸管を収縮させる作用をもち、この作用がアトロピンや抗ヒスタミン剤によって拮抗されなかった。アセチルコリンやヒスタミンが、この収縮に関与しないことが示唆されたわけである。それでもなおヒスタミンの関与が疑われたので、肝臓の潅流実験がなされた。脱線維血液で肝臓を還流しながら、潅流液に蛇毒を加えると、肝臓からの流出液が、モルモットの腸管を強く収縮させた。ところが驚いたことに、この作用は潅流液を1時間室温に放置すると消失した。次いで2,3日のうちに肝臓を還流しなくても脱線維血に蛇毒を加えると2,3分で活性物質が産出され、やがて消失することが見出された。そこで血清の分画と蛇毒をインキュベートする実験が行われ、35〜50%の硫酸アンモニウムで沈澱する偽グロブリン分画にブラジキニンの前駆物質が含まれることが明かとなった。また産生された活性物質は、加熱した75%アルコールを使うと、安定な化合物として抽出されることも見出され、抽出液から粉末結晶をうることができた。この化合物によるモルモット腸管の収縮がゆっくりと経過することが当初から判っていたので遅いという意味をもつギリシャ語の接法辞brady と、収縮を示唆するkinin をつなぎ合わせ、“bradykinin”という名称がこの化合物に与えられた。これらの結果は、1949年AmericanJournal of Physiology に公表され、さらに1950年コペンハーゲンで開催された国際生理学会で発表されて、世界中から集まった学者の注目を集めた。

 この発表にまず反論を唱えたのは地元の大学の薬理学教授であった。彼は、bradykininの作用は、抽出物に含まれるヒスタミンとアデノシンの混合物によるものであると主張し、海外誌にそれを発表した。しかし、1952年スエーデンの生理学者Von Euler のグループがヒスタミンを分解するヒスタミナーゼはO2を必要とし、青酸化合物で遮断されるが、ブラジキニンを分解するキニナーゼは加水分解酵素で、酸素を必要としないことを示し、Rochae Silva に軍配を上げた。

 Bradykininの重要性が次第に認められると、今度はこの物質が1936年ドイツですでに発表されていたという根拠の薄いうわさを流す者が現れた。Bradykininの発見をめぐるこの争いに終止符を打ったのは、1959年ロンドンで開催された血管作動物質に関する国際シンポジウムにおけるGaddumの発言であった。実力者GaddumがRucha e Silva の功績を公式に認めたのである。
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