痛みの世界史 連載1 →
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 yokota
1990.10-20
「警報装置の故障による悲劇」

 痛みは原因によって、侵害受容性疼痛、神経因性疼痛および心因性疼痛に大別される。侵害受容性疼痛には、外来刺激によるものと、器質的疾患によるものがある。それまで健在であった人に突発する侵害受容性疼痛は、外来刺激によるものと、器質的疾患によるものに大別される。外来刺激によるものは、危険から身を守るのに役立ち、器質的疾患によるものは、身体内に異常を生じたことを知らせる警告信号である。インドやアフリカにはいまなおハンセン病があって、痛みを感じないために手や足の指を失う患者がいると報告されている。

 痛みを伝える痛覚線維を生まれながらにしてもたない先天性無痛症の患者を希にみかけるが、これらの人たちは、やけどをおっても肉のこげる匂いがするまで気づかない。精神分裂病患者でもしばしば外科的疾患による症状、特に痛みをそれに関連した生体反応が現れず、正しい診断を下して適切な治療に移るのを遅らせる場合があると古くから警告されていた。

 Marchandら(1959)は、虫垂炎、重症消化性潰瘍あるいは骨折を併発した精神分裂症患者79名の36.7%で痛みが現れなかったと報告している。最近でも、腹腔内に重篤な疾患をもちながら、痛みを感じなかった精神分裂病患者の5例をBickerstaff ら(1988)が報告している。
 ところで、生体はモルヒネあるいはそれと類縁の化合物と特異的に結合してその作用を媒介するオピエート受容体をもっていて、中枢神経系内のニューロンの中にもこの受容体をもつものがある。他方、生体はこの受容体と特異的に結合するモルヒネ様物質を産生している。多種類のものが見出されているが、いずれもポリペプチドで、内因性オピオイドペプチドあるいはエンドルフィンと総称されている。内因性オピオイドペプチドの中には、ラットの脳室内に注入すると緊張病に似た症状を誘発するものがある。これにヒントをえて、精神分裂病と内因性オピオイドペプチドの関係が調べられ、内因性オピオイドペプチドの分泌過剰を精神分裂病の原因と考える人たちが現れた。内因性オピオイドペプチドのいくつかのもの、すなわちβエンドルフィン、ダイノルフィンA、メチオニンエンケファリン、ロイシンエンケファリンなどを、脳室内に注入すると脊髄における痛みの伝達が抑制されるので、分裂病のエンドルフィン説を採り入れると、精神分裂病患者がしばしば痛みに鈍感な理由を説明できる。しかし、この仮説は意外に短命であった。その後の研究によって、精神分裂病に伴う脳内内因性オピオイドペプチドの増加が証明されなかったこと、モルヒネそして内因性オピオイドペプチドの拮抗薬であるナロキソンを投与しても、精神分裂病の症状を改善できないことなどから、この説はしりぞけられた。

 精神分裂病患者に投与される薬物の中に、各種急性疾患に伴う痛みとその随伴症状の発現を抑えるものがあることもこの問題を一層複雑にしている。例えばハロペリドールは、ドパミンの特異的拮抗薬で向精神作用ばかりでなくきわめて強い制吐作用をもつところから、催吐作用がある強力な鎮痛薬の補助薬としてこれを併用する痛みの治療法が行われている。しかし、ハロペリドールは麻薬性合成鎮痛薬であるメペリジンに似た化学構造をもち、オピエート受容体と結合して、主動薬になるともいわれている。

 Bickerstaff らの報告の中には、痛みを感じなかったばかりでなく通常みられる腹部の理学的所見を欠いていた症例があって、すべてを痛みを認知する大脳皮質機能の障害に帰すことはできないように思われる。

(図の説明:哀しいさだめを嘆きながら狂気の世界に入り、入水して自らの命を絶ったオフェリア.彼女のような人たちでは、痛みを感じる体内警報装置の検知能力が下がって、急性腹症の発見が遅れることがある。)

痛みの世界史 連載 →
123456789101112131415yokota