靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

9月の読書会

催しごとのために,第2日曜の会場を確保できませんでした。
第1日曜に変更します。
 9月6日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの 多目的室 です。
『霊枢』の他に,内経の夏合宿用に準備した『史記』扁鵲倉公列伝も読もうかと……。と言っても,診籍のいくつかをながめて,わからん!と叫ぶだけのことでしょうが。

曹山跗病む

内経の合宿で,『史記』扁鵲倉公列伝をとりあげ,周辺の話題はおもしろかったし,合宿という制約からはこんな程度,とも言えそうだけど,診藉に関する話題が無かったのは寂しいから……。

齊章武里曹山跗病,臣意診其脉,曰:肺消癉也,加以寒熱。
斉の章武里の曹山跗が病んだとき,臣意はその脈を診て,「これは肺の消癉であり,そのうえ寒熱を併発しています」と言った。
即告其人曰:死,不治。適其共養,此不當醫治。
そこでただちにその家人に,「死ぬでしょう。不治の病です。病人の意のままに養生させたがよろしかろう。医者が治せる状態ではありません」と告げた。
法曰:後三日而當狂妄起行欲走,後五日死。即如期死。
医学の常識からすれば,「あと三日で発狂して,むやみに起き上がって走り出そうとし,あと五日して死ぬだろう」という状態である。はたして予期した如くに死んだ。
山跗病得之盛怒而以接内。
病になった原因は,激怒してすぐに房事をおこなったことである。
所以知山跗之病者,臣意切其脉,肺氣熱也。
どうして病が理解できたかというと,脈を診たら,肺の気の熱を得たからである。(肺気熱の脈がいかなるものかは,記述が無い。具体的にどのような脈状であったかは以下にある。)
脉法曰:不平不鼓,形弊。此五藏高之遠,數以經病也,故切之時不平而代。不平者,血不居其處;代者,時參撃並至,乍躁乍大也。此兩絡脉絶,故死不治。所以加寒熱者,言其人尸奪。尸奪者,形弊;形弊者,不當關灸鑱石及飮毒藥也。
脈法には,「不平不鼓であれば,形が弊している」とある。これは病が五臓の上は肺,下は肝に至るまで,つぎつぎに病んだということであり,だから脈が不平でかつまた代なのである。不平とは,血が在るべきところにないのであり,代とは脈が錯綜して拍ち,さわがしかったり大きかったりするものである。これは(おそらくは肺と肝の)両絡の脈が絶えたからであり,そうなったものはもう助からない。寒熱を併発したのは,患者の生気が全く失われて,尸のようになっているからであり,そうしたものは形弊の極であって,今さら灸砭を施したり,つよい薬を飲ませたりすべきではない。
臣意未往診時,齊太醫先診山跗病,灸其足少陽脉口,而飮之半夏丸,病者即泄注,腹中虚;又灸其少陰脉,是壞肝剛絶深,如是重損病者氣,以故加寒熱。
ところが,臣意が診る前に,斉の太医の診断によって,足の少陽に灸をすえ,半夏丸を飲ませたので,腹中が虚してしまった。(肺の病に足少陽を取るのは,斉北宮司空命婦の場合もそうであるから,あるいは当時の常識であったかも知れないが,半夏丸を飲ませて泄注させたのは拙かった。)その上,足少陰に灸をすえて,肝を騒がせたのも拙い。(足少陰は現代の常識では腎の脈だが,馬王堆の足臂十一脈灸経では「肝に出る」と言っている。)
所以後三日而當狂者,肝一絡連屬結絶乳下陽明,故絡絶,開陽明脉,陽明脉傷,即當狂走。後五日死者,肝與心相去五分,故曰五日盡,盡即死矣。
三日で発狂すると判断したのは,肝の一絡が乳下の陽明に連なっているからであり,それが絶えて陽明の脈が開き,陽明の脈が傷つけば当然ながら狂って駆け出す。(このあたりは経脈篇に通じるが,ここの病症とか経脈篇の是動病から考えてみれば,足陽明は胃の脈ではなく,むしろ心の脈と言うべきかも知れない。)のち五日で死ぬのは,肝と心が相去ること五分だからである。(この五分は肝と心そのものの位置関係かも知れないし,あるいは少なくとも脈と脈を繋ぐ支脈の長さかも知れない。必ずしも寸口部に肝と心を配当して,その隔たりを言っているわけではないと思う。)五日で尽きて,尽きれば死ぬ。

淳于意は何故に訴えられたのか

『史記』の倉公伝は,正史に載る医家の伝の中で異例に長いものだと言う人がある。そんなことはない。倉公伝の本文は「太倉公者」から「此歳中亦除肉刑法」までであって,そう長くもない。その前半は詔問と応対の文章を資料とし,後半は孝文本紀と共通の材料に拠っていると思われる。そして付録されている詔問と応対の文章が長いので,伝記の文章が長いと錯覚されるだけである。
で,本文と資料の間に問題が有る。本文には陽慶は「無子」というのに,資料には男子の「殷」が登場する。そこで「無子」は衍文であるとか,あるいは医学を伝える前に死亡したとか説かれる。そうではあるまい。司馬遷は文章を分かり易くするために,資料を脚色した可能性が有る。陽慶は貴重な医書を伝えていたが,七十歳にもなって,伝えるべき子がいなかったから,お気に入りの弟子に授けた。後の資料を見なければ,すっきりとした話ではないか。
事実は異なる。子はいたし,医を業とする同胞もいたらしい。
そこで,淳于意は何故に訴えられたのか?
本文の前の部分の最後に,「然左右行游諸侯,不以家爲家,或不爲人治病,病家多怨之者」とある。ところが「然左右行游諸侯,不以家爲家」は,資料では斉の文王が病んで,召されそうになったときに,治せないとふんで避けた際の文中に有る。「不爲人治病」にいたっては,貧しいから病人を治療して謝礼を得たいからという,お召しを避ける理由として述べられている句の裏返しである。従って「不爲人治病,病家多怨之者」は,司馬遷による作文であり,これが淳于意が訴えられたのは,治療を断って,病家に恨まれたからだと理解される理由となった。
しかし,治療を断ったからといって,長安に送られて,肉刑に処せられるだろうか。当時の刑法の状況が分からないのだが,やっぱり違和感は有る。
実は家伝の秘方を承けたのを,(相当な貴重品の)窃盗の如くに考えられたのではないか。高后八年(180bc)に学び初めて,秘方を承けて,三年でほぼ学び得て,また師匠の陽慶が死亡したので学び終えた。陽慶の死後の整理の過程で,秘方を承けていたことが陽慶の一族のものにばれて,文帝の四年(176bc)に上書して訴えられた。辻褄は合うように思う。
残念ながら,倉公伝の本文にある「文帝四年中,人上書言意」の四年というのは誤りらしい。孝文本紀では,文帝十三年の五月ということになっている。どちらが信頼できるかといえば,それはやっぱり孝文本紀だろう。だからやっぱり,何が何だか分からない。
倉公伝の本文だけを読んでいれば比較的に平和なんですよ。だから,古い書物を読むときは油断も隙もならない,というお話。

痙,擎井反

『中醫古籍校讀法』p58
  其病足下轉筋,及所過而結者皆痛及轉筋,病在此者主癎痸及痓,在外者不能俛,在内者不能仰。故陽病者腰反折不能俛,陰病者不能仰。
楊上善注:「痸,充曳反。痓,擎井反,身强急也。」原巻の正文の字形は「痓」であるが,「擎井反」に拠れば,原文は「痙」のはずである。後の抄者が誤って「痓」と書いたのであるが,注中の反切が,正しくは「痙」であることを明確に示している。
これもダメです。仁和寺本『太素』に書かれている文字は,もともと「痙」の俗字です。巠を𡉊と書いている。同様の例は,そもそも「黄帝内經太素」の「經」字にも見られます。『黄帝内経九巻経纂録』だって『霊枢講義』だって,楊上善注は「痙」です。ところが袁昶本も蕭延平本も「痓」に作っています。どうもそのあたりから誤ってるようです。「後の校者が誤った」のだろうというべきで,別に仁和寺本『太素』の抄者の問題ではありません。

この話も前に書いたと思うけれど,編委のうちの何人かにはそれを見る機会が有ったと思うけれど,またこの記述だから,また書きます。

煩勞則陰精絶

『中醫古籍校讀法』p50
  陽氣者,煩勞則張,精絶,辟積於夏,使人煎厥。(《素問・生氣通天論》)
  王冰注:“此又誡起居暴卒,煩擾陽和也。然煩擾陽和,勞疲筋骨,動傷神氣,耗竭天真,則筋脉䐜脹,精氣竭絶,既傷腎氣,又損膀胱,故當於夏時,使人煎厥。以煎迫而氣逆,因以煎厥爲名。厥,謂氣逆也。”
清代の兪樾の校:「張字の上に筋字を奪する。筋張と精絶の両文で相対する。今,筋字を奪したのでは文義が不明となる。王注に筋脉䐜脹,精氣竭絶というからには,その拠った本ではまだ奪してなかったのである。」 兪樾は対文の例からして当然有るべき文字が無いのを発見し,また王注を糸口としてその奪したものが筋字であることを知った。この論には従うことができる。
そんなこと言ったって,
陽氣者煩勞則張精絶 辟積於夏使人煎厥 と後文の
陽氣者大怒則形氣絶而血菀於上使人薄厥 の対はどうしてくれる。
先ず而の有無はどちらかにするとして,夏と上も対にしてもらいたい。夏と下が同音であることくらい誰でも知っている。そして,張精と形氣だって対のはずだろう。もっとも張精なんて言葉も意義不明だから,どこかに文字の間違いが有る。ひょっとすると,張は隂(陰)の誤りではなかろうか。

これは前にもどこかに書いたような気がするけれど,だれも応えてくれないので,また咆えてみる。

馬肝を食らう

むかし,馬肉を食べるときは,すぐ酒を飲まないと病気になる,と聞いたことがある。まあ,私は桜鍋にしろ馬刺しにしろ,酒無しなんてことはありえないから大丈夫。で,馬のレバ刺しは普通の馬刺しよりもはるかに美味いらしい。そこで,馬肝を食べなければ,馬を食べたことにならない,という言い方もあるらしい。残念ながら確かに食べたという記憶が無い。
で,最近になって『史記』扁鵲倉公列伝を読んでいたら,淳于司馬の診籍に,馬肝をたらふく食って,どうもこの人は下戸だったらしく,酒が出たのをみて,避けて,駆けて帰って,泄して,重い病気になったとある。ひょっとするとこれが,「馬を食ったら,酒を飲め」のもとではあるまいか。もっとも,そうだったら読み間違いで,淳于意は「飽食してすぐ疾走」したのが原因だと言っている。まあ,俗習の大部分はこうした誤解が出発点ですね。
と思ったけれど,でも気になってさらに調べたら,『史記』秦本紀の穆公十四年に次のような記事がありました。
かつて穆公は良馬を失ったが,これは岐下の野人が捕らえて食ったのであって,その人数は三百余人であった。役人が捕えて罰しようとすると,穆公は,「君子は家畜のために,人を害してはならない。わしは,良馬の肉を食って酒を飲まないと人を傷つけると聞いている」と言って,みなに酒を賜い罪を赦した。三百人の者は,秦が晋を撃つと聞いて,みな従軍を願い,穆公が危険になったのを見ると,またみな鋒をおしならべ死を争って,馬を食って赦された徳に報いたのである。
勿論,秦の穆公のほうが,漢の淳于意よりずっとむかしの人です。やっぱり,なにがなんだかわからない。

固無取乎此

『古書疑義挙例』序のしめくくり,「若夫大雅君子,固無取乎此」は,禁止とまではとらないで,「若し夫れ大雅の君子なれば,固より此れに取るところ無し」と訓んで良いのではないか。「固無取乎此」もまた,「竊不自揆」と同じく謙遜の決まり文句だろう。で,謙遜は表向きで,本心は「貴方がただって,童蒙の子と大した差は無いんだから,ちゃんと読みなさい!」ではあるまいか。

古賀精里の文章に「則学校書院,固無得失之可言」というのが有るそうです。「則ち学校と書院と,固より得失の言うべきもの無し」だと思う。

7月の読書会は

 7月12日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの 珍しく2階の多目的室 です。
『霊枢』は,行針篇第六十七以降の短い篇をいくつか読みます。

炅 ふたたび

菉竹子から,『康煕字典』巳集中・火字部(筆画8·部外筆画4)に次のようにあると指摘をもらいました。
《唐韻》古迥切《集韻》畎迥切,𠀤音熲。《說文》見也。《廣韻》光也。《集韻》或作昋。 又《集韻》《類篇》𠀤俱永切,音憬。《集韻》光也,或作耿。 又《五音集韻》於警切,音影。煙出貌。 又《廣韻》古惠切。《集韻》涓惠切,𠀤音桂。《玉篇》本作炔。義同。 又姓。《廣韻》後漢太尉陳球𥓓,城陽炅橫,漢末被誅有四子。一守墳墓,姓炅。一避難徐州,姓昋。一居幽州,姓桂,一居華陽,姓炔。此四字皆古惠切。
『唐韻』古ko迥kei切『集韻』畎ken迥kei切,ならびに音熲kei。『説文』見也。『廣韻』光也。『集韻』はあるいは昋に作る。 また『集韻』『類篇』俱ku永ei切,ならびに音憬kei。『集韻』光也,あるいは耿に作る。 また『五音集韻』於wo警kei切,音影ei,煙が出るさま。 また『廣韻』古ko惠kei切,『集韻』涓ken惠kei切,ならびに音桂kei。『玉篇』はもと炔に作る。義は同じ。 また姓。『廣韻』後漢太尉陳球碑,城陽の炅橫は,漢末に誅せられ四子有り。一は墳墓を守り,炅を姓とす。一は徐州に避難し,昋を姓とす。一は幽州に居り,桂を姓とし,一は華陽に居り,炔を姓とす。この四字はみな古ko惠kei切。
神麹斎按ずるに,『康煕字典』には音「ネツ」も,義「熱也」も載ってないと思う。ただ,徐鍇の『説文』繫伝には「火に从い,日の声」とあるらしい。してみると,ジツ乃至ネツという音の「炅」字も,一応は学者の頭の隅には有ったのだろう。
帛書『老子』は,馬王堆漢墓から出た。古の楚である。戦国末の楚には,熱の意味の「炅」字が有ったらしい。それが「熱」の異体字であったのか,つまり音「ネツ」であったのか,それとも楚の方言に音「ケイ」で熱の意味の言葉があって,それを書きあらわすために「炅」を用いたのか。

『太素』に「炅」字が登場するのは8度ほどであるが,楊上善は5度にわたって音義を注記している。彼にとっても,あまりなじみのない文字だったということだろう。
 02九氣「炅則腠理開氣洩」楊注:炅,音桂,熱也。
 16脈論「炅至以病皆死」楊注:炅,音桂,見也,此經熱也。
 23雜刺「盡炅病已也」楊注:炅,音桂也。
 24虚實所生「乃爲炅中」楊注:炅,熱也。
 27耶客「得炅則痛立已矣」楊注:炅,熱也。
いずれも音はケイで,『太素』においては熱の意味だという。脈論の注に「見也」(新校正は「兒也」に作るが,「兒也」などという字書は無さそうである。「兒」は,実際の原抄では目を横倒しにした「見」にも見える。)とするのは,字書などに拠った常識ではそうだというに過ぎない。こうした一般的な訓詁と,その場での意味を併記する例は,巻2調食にも「涘,音俟,水厓,義當凝也。」というのが有る。
『説文』には「見也」とあるが,段玉裁は「考えてみると,この篆義はよくわからない,『広韻』に光也に作るのがこれに近いようだ」という。おそらくは「光」が正しい。異体字の「灮」は,確かに「見」に誤りやすかろう。
それにしても熱の意味の「炅」でも,音桂なんだろうか。
今まで『太素』における「炅」は,実は「熱」の六朝ころの異体字で,だから音はネツだと思っていたけれど,そうでもないのかも知れない。岩波文庫『老子』第45章「躁勝寒靜勝熱」の蜂屋邦夫氏注に,
「熱」は、楚簡は「然(ぜん)」、帛書甲本は「炅(けい)」とする。意味は同じであるが、次句の「正(せい)」と押韻する点からいえば「炅(けい)」がよい。
とあった。
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