靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

淳于意は何故に訴えられたのか

『史記』の倉公伝は,正史に載る医家の伝の中で異例に長いものだと言う人がある。そんなことはない。倉公伝の本文は「太倉公者」から「此歳中亦除肉刑法」までであって,そう長くもない。その前半は詔問と応対の文章を資料とし,後半は孝文本紀と共通の材料に拠っていると思われる。そして付録されている詔問と応対の文章が長いので,伝記の文章が長いと錯覚されるだけである。
で,本文と資料の間に問題が有る。本文には陽慶は「無子」というのに,資料には男子の「殷」が登場する。そこで「無子」は衍文であるとか,あるいは医学を伝える前に死亡したとか説かれる。そうではあるまい。司馬遷は文章を分かり易くするために,資料を脚色した可能性が有る。陽慶は貴重な医書を伝えていたが,七十歳にもなって,伝えるべき子がいなかったから,お気に入りの弟子に授けた。後の資料を見なければ,すっきりとした話ではないか。
事実は異なる。子はいたし,医を業とする同胞もいたらしい。
そこで,淳于意は何故に訴えられたのか?
本文の前の部分の最後に,「然左右行游諸侯,不以家爲家,或不爲人治病,病家多怨之者」とある。ところが「然左右行游諸侯,不以家爲家」は,資料では斉の文王が病んで,召されそうになったときに,治せないとふんで避けた際の文中に有る。「不爲人治病」にいたっては,貧しいから病人を治療して謝礼を得たいからという,お召しを避ける理由として述べられている句の裏返しである。従って「不爲人治病,病家多怨之者」は,司馬遷による作文であり,これが淳于意が訴えられたのは,治療を断って,病家に恨まれたからだと理解される理由となった。
しかし,治療を断ったからといって,長安に送られて,肉刑に処せられるだろうか。当時の刑法の状況が分からないのだが,やっぱり違和感は有る。
実は家伝の秘方を承けたのを,(相当な貴重品の)窃盗の如くに考えられたのではないか。高后八年(180bc)に学び初めて,秘方を承けて,三年でほぼ学び得て,また師匠の陽慶が死亡したので学び終えた。陽慶の死後の整理の過程で,秘方を承けていたことが陽慶の一族のものにばれて,文帝の四年(176bc)に上書して訴えられた。辻褄は合うように思う。
残念ながら,倉公伝の本文にある「文帝四年中,人上書言意」の四年というのは誤りらしい。孝文本紀では,文帝十三年の五月ということになっている。どちらが信頼できるかといえば,それはやっぱり孝文本紀だろう。だからやっぱり,何が何だか分からない。
倉公伝の本文だけを読んでいれば比較的に平和なんですよ。だから,古い書物を読むときは油断も隙もならない,というお話。

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