靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

12月の読書会

12月の読書会は第2日曜日です。
 12月13日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの 多目的室 です。
『難経』は,二十三難の,元代・呉澄の六類分法で「経絡」とするところから。
『霊枢』は,通天篇第七十二から。

おそらくは……

古典著作を読むにも、やっぱり文脈において読むというのは大事だと思う。そんなことをすれば,望文生義の危険は有る。「おそらくは……」とか「……だろうか」と言う箇所では,眉に唾したほうが無事である。しかし,訓詁の書を積み上げて,ジグソーパズルにいそしんだところで,完成に近づくかどうか,これも当てにはならない。パソコンの翻訳ソフトを運用して,とんでもない文章に苦笑した経験くらいはあるでしょう。字句の対応は適当であっても,全体としてどうにもならない。結局は読書量と,あとは想像力とか展開力とかに頼るしかない。でまあ,結果的に大間違いをしでかしていたら,望文生義と嘲られてもしかたがない。

11月の読書会

11月の読書会は第2日曜日です。
 11月8日(日)午後1時~5時
場所はいつものところの 多目的室 です。
『霊枢』の他に,やっぱり『難経』も、もうちょっと読んでみようか、と。

供花

白い彼岸花

持針縦舎

『霊枢』邪客篇というのはおかしな篇で,そもそも対話者がはじめは黄帝と伯高,途中から黄帝と岐伯になっている。どうして一つの篇にしたのだろう。そういう途中で話し手が変わる例は他にも有るには有るが,それは内容的に似ているとか,連続しているという理由が有るだろう。この篇ではそんなことも無さそうなんだけど。
伯高の部分も内容は二つで,案の定,『太素』では別の巻の別の篇になっている。まあ,そうした例は他にいくらも有る。
問題は岐伯との対話のほうで,始めと終わりは持針縦舎の話のようなのに,間に手の太陰と手の少陰の流注の説明が有り,手の少陰には腧が無いとか,無いというのは病まないという意味かとかいう話が有る。
で,こういうときの常套手段として,『太素』に於ける所在を見てみたら,ものの見事に巻二十二の首篇(巻初を欠いていて,篇名未詳)と巻九の脈行同異のまだら模様でした。ここまでのまだらはさすがに珍しい。でもまあ,『太素』巻二十二の首篇のほうだけ続けて読めば,まあ持針縦舎論とでも名づけて,まあ理解できないことはない。やれやれと思ってあらためて『霊枢』の注釈書をひもとくと,『素問』三部九侯論の王注に『霊枢』持針縦舎論を引いているが,そんな篇は現行の『霊枢』には無い,だけど引用された文はこの邪客篇のものだから,つまり持針縦舎論というのはこの邪客篇のことだろう,とある。そうだろう,そうだろう。
と思ったけれど,念のために,三部九侯論の王注に引かれた『霊枢』持針縦舎論なるものを調べて見ると,何と「少陰无輸,心不病乎?對曰:其外經病而藏不病,故獨取其經於掌後鋭骨之端」なんですね。かえってますますわけがわからなくなった。

十月の読書会はお休み

十月の読書会は,都合によりお休みにします。
したがって,次回は十一月です。
詳しくはまた書き込みます。

陽蹻䧟

渋江抽斎『霊枢講義』邪客篇
今厥氣客於五藏六府、則衛氣獨衛其外、行於陽、不得入於陰、行於陽、則陽氣盛、陽氣盛、則陽蹻、不得入於陰、陰虚、故目不瞑、
『甲乙經』、厥氣作邪氣、無六府二字、衛其外作營其外、陷作滿、虚上有氣字、不瞑作不得眠、『大素』、無五字六字、行於陽以下卅三字、作衛其外、則陽氣䐜、䐜則陰氣益少、陽喬滿、是以陽盛、故目不得瞑、廿五字、
〈楊上善〉曰、厥氣、邪氣也、邪氣客於内藏府中、則衛氣不得入於藏府、衛氣唯得衛外、則爲盛陽、䐜、張盛也、藏府内氣不行、則内氣益少、陽喬之脉、在外營目、今陽喬盛溢、故目不得合也、瞑音眠也、
〈馬蒔〉曰、外之陽氣盛、而陽蹻之脉、不得入于陰、致内之營氣虚、而陰蹻之脉、不得通于陽、陽盛而陰虚、此目之所以不瞑也、
〈樓英〉曰、陷當作滿、
〈汪昂〉曰、大惑論作陽氣滿則陽蹻盛、盛字是、又曰、衛氣留于陰、不得行于陽、則陰氣盛、陰氣盛則陰蹻滿、陽氣虚、故目閉也、
〈徐開先〉曰、此章陷字疑悞、
〈張介賓〉曰、陷者、受傷之謂、
〈桂山先生〉曰、〈張〉説非也、
「陷」字に疑問をもった人は多いけれど,ではどんな字であるべきかを言うことは少ない。せいぜい『太素』が「滿」に作るのとか,大惑論には「陽蹻盛」の句が有るとかくらいである。
実は明刊未詳本『霊枢』では,この字は「䧟」になっている。『竜龕手鏡』阜部に「陷」と同じとあるから,皆さんそれに従っているのだろうが,実は从阜舀声の別の字ではあるまいか。蹈におどる,こおどりするの意味があり,慆は心の動くことであるから,「陽蹻䧟」でもともと「陽喬滿」とか「陽蹻盛」と同じようなことを表現するつもりだったのではないか。

これ道の……か

『武江年表』寛保三年(1743)の項の後に,此年間記事として:
俳諧宗匠,江戸にて三十六人あり。夥しき事にて珍しとて,常仙という人の輯にて『千々の秋』という俳書出たり。今時,宗匠と号する者,幾百人ありやはかるべからず。此道の衰えたる歟,将盛んなるか知らず。

そういえば,この世界は簡単に有名になってしまうのが拙い,と漢方界のちょっと有名な先生に言われたことが有る。

蝶として帰る

初盆は来年のはずだけど

其の人に伝えるか?我が子に伝えるか?

『史記』の倉公の伝記の本文と詔問に対えた資料としての文章には,齟齬が有ると言ったけれど,詔問に対えた資料のなか自体にも食い違いが有るんですね。「愼毋令我子孫知若學我方也」と言っているけれど,そもそも淳于意と陽慶の出会いは,子の殷を介してなんです。前の師匠である公孫光が,「意好數,公必謹遇之,其人聖儒」と紹介しています。紹介すれば「心愛公,欲盡以我禁方書悉教公」ということになるのは当然じゃないですか。
陽慶はどのようにして,「我家給富」となったのか。想像ですがね,やっぱり医療実践から得るところが多かったんじゃないか。でも斉の諸侯の間にもその名は聞こえてなかったんだから,庶民相手だったんでしょう。つまり遍歴医だったのが,金持ちになって定住して,子孫には医なんぞという賎業は廃させようとした。ところが公孫光が言う「吾有所善者皆疏,同産處臨菑,善爲方,吾不若」を,「私には仲の良い医者がいるが,そいつの技倆はたいしたことはない,ただその同胞で臨菑に住んでいるのは,たいした技倆で,私なんぞおよびもつかない」と解釈できるとすると,陽慶の一族もろともに遍歴医だったのかもしれない。してみると,たいしたことない公孫光のお友達にしてみれば,秘伝書は一族の共有財産であって,勝手に変な人に伝授されてはこまる,という訴えだったのではないか。「愼毋令我子孫知若學我方也」は「愼毋令我同胞知若學我方也」であるべきなのかも知れない。
でも,遍歴医の間の伝授は,「其の人であるか否か」が問題であって,気にいった弟子に伝えるのがむしろ常態であった,という説もありますね。
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