靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

其の人に伝えるか?我が子に伝えるか?

『史記』の倉公の伝記の本文と詔問に対えた資料としての文章には,齟齬が有ると言ったけれど,詔問に対えた資料のなか自体にも食い違いが有るんですね。「愼毋令我子孫知若學我方也」と言っているけれど,そもそも淳于意と陽慶の出会いは,子の殷を介してなんです。前の師匠である公孫光が,「意好數,公必謹遇之,其人聖儒」と紹介しています。紹介すれば「心愛公,欲盡以我禁方書悉教公」ということになるのは当然じゃないですか。
陽慶はどのようにして,「我家給富」となったのか。想像ですがね,やっぱり医療実践から得るところが多かったんじゃないか。でも斉の諸侯の間にもその名は聞こえてなかったんだから,庶民相手だったんでしょう。つまり遍歴医だったのが,金持ちになって定住して,子孫には医なんぞという賎業は廃させようとした。ところが公孫光が言う「吾有所善者皆疏,同産處臨菑,善爲方,吾不若」を,「私には仲の良い医者がいるが,そいつの技倆はたいしたことはない,ただその同胞で臨菑に住んでいるのは,たいした技倆で,私なんぞおよびもつかない」と解釈できるとすると,陽慶の一族もろともに遍歴医だったのかもしれない。してみると,たいしたことない公孫光のお友達にしてみれば,秘伝書は一族の共有財産であって,勝手に変な人に伝授されてはこまる,という訴えだったのではないか。「愼毋令我子孫知若學我方也」は「愼毋令我同胞知若學我方也」であるべきなのかも知れない。
でも,遍歴医の間の伝授は,「其の人であるか否か」が問題であって,気にいった弟子に伝えるのがむしろ常態であった,という説もありますね。

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