靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

『難経』苦行

『難経』嫌いを公言しているけれど,本当は結構おもしろいんじゃないかとも思っているんです。これまでの『難経』解釈があまりに強固に積み上げられていて,息苦しいのを嫌ってきたんです。
で,これからやりたいのは,二千年の歳月をかけて堆積してきた解釈の層を丹念にはがしとり,『難経』という岩盤の最古層にたどりつくことなんです。
実は,中国の代表的な古典について,そうした試みをした書物が出ています。著者は高名な学者さんですから,代表的な解釈を基にして,その解釈が出てきた理由として,それ以前の解釈の不備が有ることを考察し,同様にして,基準として選んだ代表的な解釈をも批判しながら,原初の本意に辿り着こうとしているようです。言い換えれば,思想史的に,何時どういう必要から,どちらへ一歩を踏み出して,現在のような解釈に至ったのか,あるいは至ってしまったのか……。
私にはそんなことをする素養も腕力も有りませんから,表向きは「古来の注釈は無視する」フリをして,『難経』の経文だけを読もうとしています。実際には「バカな考え休むに似たり」ですし,オッチョコチョイな失敗は避け難いので,裏では「古来の注釈をコッソリと確認する」フリもしています。
古来の注釈にガンジガラメになるよりは,浅慮によるハチャメチャのほうが,少しだけマシじゃないかと……。まあ,オッチョコチョイな言い訳ですがね。

楊上善生平考据新証

『太素』の新新校正の再版を,北京の銭超塵教授に送ったところ,お礼のメールが有って,その中で,最近のおもしろい論文として,『楊上善生平考据新証』を紹介されました。
実はその論文は,荒川緑氏が北里の書庫から見つけ出して,コピーを送ってくれたので,すでに読んでいます。でも,内容が内容なんでね,半信半疑でした。
簡単に言うと,西安の阿房宮の近くから出た墓誌銘の「楊上」というのが,つまり楊上善だという。諱が上,字が善だそうです。そんなバカなと思ったけれど,唐代には結構同じような例があったらしい。
楊上善は,隋の皇室と遠い遠いながらも同族らしく,だから唐の朝廷で出世するのは難しそうで,だから少年のころから道観に隠れて,学問をしていた。仏教や医学にも造詣が深い可能性があって,その点でも従来の資料と一致する。七十翁にもなってから,召し出されて皇子さまの一人に仕えた。その皇子さまというのは章懷太子・李賢のことらしい。これが「太子文学」ですね。これも墓誌にそれに相当しそうな記事がある。そのほかに墓誌では弘文館学士になり左威衛長史にもなっている。ここにおもしろい資料があって,『六道論』を撰した左衛長史兼弘文館学士の陽尚善というのがいて,『唐志』には楊上善の『六趣道』というのが著録されている。六道と六趣は同じこと。しかも仕えたという皇子さま李賢は,左武衛大将軍を兼ねていたことがあるらしい。左威衛、左衛は左武衛の誤りじゃないか。七十すぎの爺さんを武官に任用したのは,側近に地位を与える便法だったんじゃないか,というわけ。この陽尚善と墓誌の楊上と吾等が楊上善は,同一人物じゃないかといってます。
最後は,則天武后との問題で李賢は難に陥って,だからその側近,といっても学問的な立場しかなかったんでしょうが,再び宮廷を去って,九十三歳で世を逝った。
ね,おもしろすぎるでしょ。だから眉に唾だったんだけど,銭教授がわざわざ紹介してくれるところをみると,中国の学者連の間では,それなりに評価されているみたいなんです。だから紹介してみました。『中医文献雑誌』の2008年第5期に載っています。筆者は,長春の吉林大学古籍研究所・張固也さんと張世磊さん。

脈診の歴史に関わる妄想

『季刊内経』に載せた「上下か左右か-人迎寸口診に関わる妄想-」は,新年に話したときよりは,かなり整理してありますが,それでも分かりにくかろうと思うので,さらに少し整理しておきます。といっても,それでも分かりにくいでしょうが。なにせ妄想ですから。

『素問』の三部九候診は,全身に遍く存在する脈動を診て,その付近の情況を知ろうとした脈診を,九候にまで整理したものだと考えます。頭部に三候,胸部に三候,腹部に三候です。『素問』三部九候論の現状では,胸部と腹部については,手足の脈を診るようにいっています。しかし,その脈所をいう文章はもとは篇の最後に在りました。おそらくは,後からの付け足しです。新校正を読み,『太素』を検討すれば,それはわかります。手足に持ってきたのは一つの偉大な工夫ではあったかも知れません。もう一歩踏み出せば,原穴診です。
もう一つの脈診の歴史の流れに,標本脈診を想定します。『霊枢』衛気篇では,手足の端近くの起点としての本と,上部の到達点としての標を比べて,病がどんな状況であるかを知ろうとしています。それがどこに起こっているかは,どの標本で異常が起こっているかから判断できます。しかし,『霊枢』動輸篇に,休まず拍っている脈は手太陰,足少陰,足陽明とあります。拍ったり拍たなかったりでは,やっぱり脈診部位としては不十分でしょう。そこで,足少陰の脈動はさておき(附陽脈診になる),標の代表に足陽明,本の代表に手太陰を採用すれば,要するに人迎寸口診になります。ただ,そうすると病状の判断はできても,病所の判定はできません。そこで,人迎と寸口の脈を比較して,その陰陽性格のレベルから三陰三陽のいずれに病が在るかを知ろうとしました。禁服篇,終始篇,経脈篇などです。でも,この試みは失敗したのではないかと疑っています。
人迎寸口診は,実は脈状診であって,比較によって病の位置を知る方法ではなかった。『霊枢』五色篇にあるのが原形ではないか。人迎は当然ながら頸部に在って,陽的な影響を診,寸口は手首の関節部に在って,陰的な状況を診る。別に比較などはしません。さらに,陽的な,言い換えれば外からの問題は,外から見れば分かる(分かるかどうかは技倆の問題ですが)として廃れれば,外からではどうにも分からない内部の問題を知るための寸口脈だけが残る。そこで,脈診といえば,手首の関節部を思い浮かべるという情況に,意外とはやくから到達していたのではないか。
たぶん,それとは別に左右の腕関節部の脈に,性格の違いを診ていた人たちもいた。その可能性を僅かながら見いだし得るのが,『素問』病能論であり,『史記』倉公伝に付された斉の郎中令循のカルテではないかというわけです。
寸口だけを診て,病がどこに在るかを知るためには,『難経』では橈骨茎状突起を横隔膜に見立てて,全身を配当する試みもなされています。『素問』の(もとの)三部九候診を移植です。少し違うのは,頭部は放棄して,胸部と腹部に三つずつというのを,寸関尺の三部に二つずつに改変したことです。しかし『難経』でも,最初のほうでは,関を境として陰陽に分ける試みがなされています。(二部五候診というべきかも知れない。)寸関尺に,左右の陰陽性格も加味することによって,めでたく寸関尺に五蔵六府を配当した現行の六部定位診への道筋を示したわけです。
その上で,左右に配当しおえた蔵の性格を総括すれば,左右の脈で分かることがそれぞれ異なるといえることになります。上海の凌女史の「三焦の二つ系統」は,正しくそうしたものの一つだと考えます。そして,それは左右の腕関節部の脈には,性格の違いが有り,したがって頸部と手首という上下の関係を,左右の手首に置き換えることを容認する根拠となり得る,と期待するわけです。

淳于意伝

『史記』の倉公伝は,正史に載る医家の伝の中で異例に長いものだと言う人がある。そんなことはない。倉公伝の本文は「太倉公者」から「此歳中亦除肉刑法」までであって,そう長くもない。
太倉公者,齊太倉長,臨菑人也,姓淳于氏,名意。少而喜醫方術①。高后八年,更受師同郡元里公乘陽慶。慶年七十餘,無子②,使意盡去其故方,更悉以禁方予之,傳黄帝、扁鵲之脈書,五色診病,知人生死,決嫌疑,定可治,及藥論,甚精。受之三年,爲人治病,決死生多驗。然左右行游諸侯,不以家爲家③。或不爲人治病,病家多怨之者④。文帝四年⑤中,人上書言意⑥,以刑罪當傳西之長安。意有五女,隨而泣。意怒,罵曰:生子不生男,緩急無可使者!於是少女緹縈,傷父之言,乃隨父西。上書曰:妾父爲吏,齊中稱其廉平。今坐法當刑。妾切痛死者不可復生,而刑者不可復續,雖欲改過自新,其道莫由,終不可得。妾願入身爲官婢,以贖父刑罪,使得改行自新也。書聞,上悲其意,此歳中亦除肉刑法。
これで全文だろう。この後の詔問と応対の文章を資料として,名医に師事して自らも名医となった,治療を断った病家に怨まれて誣告された,女の上書が名君・文帝を感動させて許され,肉刑も除かれた,というだけの話を組み立てた。後半の「除肉刑法」に関しては孝文本紀とも共通の材料に拠っている。
後文に:
①意少時好諸方事,臣意試其方,皆多驗,精良。臣意聞菑川唐里公孫光善爲古傳方,臣意即往謁之。得見事之,受方化陰陽及傳語法,臣意悉受書之。(ごく若い頃からそこそこの臨床能力は有った。)
②會慶子男殷來獻馬,因師光奏馬王所,意以故得與殷善。光又屬意於殷曰:意好數,公必謹遇之,其人聖儒。即爲書以意屬楊慶,以故知慶。(陽慶には男子がいた。それを無かったようにいうのは,子が無かったから愛弟子に伝えた,と話を単純化するためだろう。その程度の調整は気にしないものらしい。)
③出行游國中,問善爲方數者事之久矣,見事數師,悉受其要事,盡其方書意,及解論之。(陽慶に学んだ後も,別の師匠を捜して学んでいる。)
④臣意家貧,欲爲人治病,誠恐吏以除拘臣意也。(治療をしなかったから患者の家族に怨まれたと書いたのも,司馬遷一流の単純化かも知れない。)
⑤孝文本紀には十三年の五月とある。
⑥淳于意が人に上書され,刑罪をもって長安に伝送された理由は:
a.本文上段の終わりに「不爲人治病,病家多怨之者。」とある。診療拒否を訴えられたか。
b.後文に「慶又告臣意曰:愼毋令我子孫知若學我方也。」とある。こっそり秘伝を受けていたことがばれたか。
c.後文に「身居陽虚侯國,因事侯。」とある。本文にも「左右行游諸侯,不以家爲家。」といい,女の上書中にも「妾父爲吏,齊中稱其廉平。」とある。斉王(もとの陽虚侯)のお覚えめでたいことで,他の医者仲間から妬まれたか。
太史公曰には,「士無賢不肖,入朝見疑。」云々とある。この司馬遷のテーマからすれば c が,案外と正解かも知れない。あるいはまた,この斉王将閭は別に謀叛なんぞしてないが,(高后歿き後,誰が皇帝になるかについての二大候補の一方であった)斉国自体が文帝の朝廷からしてみれば,仮想敵国のごときものである。斉に於ける政治的立場を買いかぶられたのかも知れない。(たいしたことないのが知れて,放免された。)

喜忘苦怒善恐

井上雅文先生の『鍼灸師の医学を目指して』に紹介されているということで、上海の段逸山教授の『古医籍詞義弁別法』をぱらぱらとやっていたら、第八章・詞語関係の弁別の三、詞語の同異に:
狂始生,先自悲也,喜忘苦怒善恐者。得之憂飢。(『霊枢・癲狂』)
「喜」、「苦」、「善」は何れも「多く」と解釈する。……何れも形容詞に属する。
とありました。別にこの説明に文句をつけるわけではないけれど、これに相当する仁和寺本『太素』巻三十の驚狂は下の画像のようなんです。

驚狂.jpg
これって「憙忘喜怒喜恐」じゃないですかね。『太素新新校正』では「憙忘」をうっかり見逃して「喜忘」にしてしまったけれど、楊上善注中は「喜忘」の可能性が高いから、見逃して正解だったのかも知れない。それに「喜忘」は『太素』にしばしば出てくるが、「憙忘」は他には無さそう。そもそも「憙」字の用例が無いんじゃないか。
文字は異なるけれど、同じ意義に解す例というより、むしろ「喜」と「善」はしばしば書き誤られる例とするに相応しいような気がする。
また、『文語解』には:
善(よく)古文の法この字を動(ややもすれば)の意に用ゆ……岸善崩 師古注言憙崩也……倭語の「よく」にて能通ず動の意毎の意屡の意を含めり詩の女子善懐も同義なり猶多也の注は的當ならず
喜(よく このんで)通じて憙に作る……「このむ」の義よりして「よく」の義となる故に上の善崩を憙崩と注せり

ダイジョーブかオモシロイか

 日本内経医学会の会員諸氏に人気が高い『霊枢』の参考書というと、天津の故・郭靄春教授の『黄帝内経霊枢校注語訳』ということになるらしい。といっても、この会員諸氏は、「古株の」という限定つき。何故かって?この本は今やほとんど入手不能らしいから。
 で、しかたがないので、わたしなんぞは、『霊枢経校釈』を勧めている。この主編も郭教授だから、まあまあ佳いか、と。こちらなら今でも簡単に手に入る。
 『黄帝内経霊枢校注語訳』の編著と『霊枢経校釈』の主編が同じ人だから、内容も同じようなものかというと、そうはいかない。たとえば、九針十二原篇の冒頭ちかくの例の名文句は、「神乎神,客在門」と「神乎,神客在門」と。どうしてそんなことがおこるかというと、『校注語訳』は編著者の言いたい放大だけど、『校釈』のほうは主編者といえどもそう勝手なことはできない。『校釈』は中国が国家事業として、全国の古医籍専門家を総動員して、衆知を結集したシリーズで、この前には確か『訳釈』シリーズがあって、この後には『校注』シリーズがある。『黄帝内経素問校注』の主編は郭靄春教授で、『難経校注』の主編は上海の凌耀星教授。どちらも二十年ほども前の発行。なのに『霊枢校注』は未だに出ていない。きっともう出ないだろう。
 で、中国が威信をかけた『霊枢』の参考書は『霊枢経校釈』ということになりそう。だから、内容は偏らない、大丈夫なもの、のはずである。だから、最近も再版されて、容易に購入できる。ところが、内経の「古株の」会員諸氏に人気が高い『霊枢』の参考書は、『黄帝内経霊枢校注語訳』のほうである。何故か?郭教授の個性が楽しいし、面白いからである。

 ここで話はガラリと変わる。
 焼酎には甲類と乙類がある。乙類のほうは芋だの麦だのの風味が売りものだが、甲類のほうはほとんど無味だそうだ。勿論、乙類のほうがのぞましい。でも、恥ずかしながら、焼酎の飲み始めのころは、芋だの麦だのの風味がきつくて、薩摩の芋焼酎にあうサカナは、薩摩揚げくらいのもの、なんてバカなことをいっていた。最近では芋臭い芋焼酎が少なくなって、なんだか寂しい。ちょっと前まで、白波のお湯割りなんか飲んでいると、隣の席から「薩摩の生まれか?」なんて声がかかったんだが。
 大丈夫なのは無味の甲類だけど、旨いのは臭い乙類である。
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其の人に伝えるか?我が子に伝えるか?

『史記』の倉公の伝記の本文と詔問に対えた資料としての文章には,齟齬が有ると言ったけれど,詔問に対えた資料のなか自体にも食い違いが有るんですね。「愼毋令我子孫知若學我方也」と言っているけれど,そもそも淳于意と陽慶の出会いは,子の殷を介してなんです。前の師匠である公孫光が,「意好數,公必謹遇之,其人聖儒」と紹介しています。紹介すれば「心愛公,欲盡以我禁方書悉教公」ということになるのは当然じゃないですか。
陽慶はどのようにして,「我家給富」となったのか。想像ですがね,やっぱり医療実践から得るところが多かったんじゃないか。でも斉の諸侯の間にもその名は聞こえてなかったんだから,庶民相手だったんでしょう。つまり遍歴医だったのが,金持ちになって定住して,子孫には医なんぞという賎業は廃させようとした。ところが公孫光が言う「吾有所善者皆疏,同産處臨菑,善爲方,吾不若」を,「私には仲の良い医者がいるが,そいつの技倆はたいしたことはない,ただその同胞で臨菑に住んでいるのは,たいした技倆で,私なんぞおよびもつかない」と解釈できるとすると,陽慶の一族もろともに遍歴医だったのかもしれない。してみると,たいしたことない公孫光のお友達にしてみれば,秘伝書は一族の共有財産であって,勝手に変な人に伝授されてはこまる,という訴えだったのではないか。「愼毋令我子孫知若學我方也」は「愼毋令我同胞知若學我方也」であるべきなのかも知れない。
でも,遍歴医の間の伝授は,「其の人であるか否か」が問題であって,気にいった弟子に伝えるのがむしろ常態であった,という説もありますね。

曹山跗病む

内経の合宿で,『史記』扁鵲倉公列伝をとりあげ,周辺の話題はおもしろかったし,合宿という制約からはこんな程度,とも言えそうだけど,診藉に関する話題が無かったのは寂しいから……。

齊章武里曹山跗病,臣意診其脉,曰:肺消癉也,加以寒熱。
斉の章武里の曹山跗が病んだとき,臣意はその脈を診て,「これは肺の消癉であり,そのうえ寒熱を併発しています」と言った。
即告其人曰:死,不治。適其共養,此不當醫治。
そこでただちにその家人に,「死ぬでしょう。不治の病です。病人の意のままに養生させたがよろしかろう。医者が治せる状態ではありません」と告げた。
法曰:後三日而當狂妄起行欲走,後五日死。即如期死。
医学の常識からすれば,「あと三日で発狂して,むやみに起き上がって走り出そうとし,あと五日して死ぬだろう」という状態である。はたして予期した如くに死んだ。
山跗病得之盛怒而以接内。
病になった原因は,激怒してすぐに房事をおこなったことである。
所以知山跗之病者,臣意切其脉,肺氣熱也。
どうして病が理解できたかというと,脈を診たら,肺の気の熱を得たからである。(肺気熱の脈がいかなるものかは,記述が無い。具体的にどのような脈状であったかは以下にある。)
脉法曰:不平不鼓,形弊。此五藏高之遠,數以經病也,故切之時不平而代。不平者,血不居其處;代者,時參撃並至,乍躁乍大也。此兩絡脉絶,故死不治。所以加寒熱者,言其人尸奪。尸奪者,形弊;形弊者,不當關灸鑱石及飮毒藥也。
脈法には,「不平不鼓であれば,形が弊している」とある。これは病が五臓の上は肺,下は肝に至るまで,つぎつぎに病んだということであり,だから脈が不平でかつまた代なのである。不平とは,血が在るべきところにないのであり,代とは脈が錯綜して拍ち,さわがしかったり大きかったりするものである。これは(おそらくは肺と肝の)両絡の脈が絶えたからであり,そうなったものはもう助からない。寒熱を併発したのは,患者の生気が全く失われて,尸のようになっているからであり,そうしたものは形弊の極であって,今さら灸砭を施したり,つよい薬を飲ませたりすべきではない。
臣意未往診時,齊太醫先診山跗病,灸其足少陽脉口,而飮之半夏丸,病者即泄注,腹中虚;又灸其少陰脉,是壞肝剛絶深,如是重損病者氣,以故加寒熱。
ところが,臣意が診る前に,斉の太医の診断によって,足の少陽に灸をすえ,半夏丸を飲ませたので,腹中が虚してしまった。(肺の病に足少陽を取るのは,斉北宮司空命婦の場合もそうであるから,あるいは当時の常識であったかも知れないが,半夏丸を飲ませて泄注させたのは拙かった。)その上,足少陰に灸をすえて,肝を騒がせたのも拙い。(足少陰は現代の常識では腎の脈だが,馬王堆の足臂十一脈灸経では「肝に出る」と言っている。)
所以後三日而當狂者,肝一絡連屬結絶乳下陽明,故絡絶,開陽明脉,陽明脉傷,即當狂走。後五日死者,肝與心相去五分,故曰五日盡,盡即死矣。
三日で発狂すると判断したのは,肝の一絡が乳下の陽明に連なっているからであり,それが絶えて陽明の脈が開き,陽明の脈が傷つけば当然ながら狂って駆け出す。(このあたりは経脈篇に通じるが,ここの病症とか経脈篇の是動病から考えてみれば,足陽明は胃の脈ではなく,むしろ心の脈と言うべきかも知れない。)のち五日で死ぬのは,肝と心が相去ること五分だからである。(この五分は肝と心そのものの位置関係かも知れないし,あるいは少なくとも脈と脈を繋ぐ支脈の長さかも知れない。必ずしも寸口部に肝と心を配当して,その隔たりを言っているわけではないと思う。)五日で尽きて,尽きれば死ぬ。

淳于意は何故に訴えられたのか

『史記』の倉公伝は,正史に載る医家の伝の中で異例に長いものだと言う人がある。そんなことはない。倉公伝の本文は「太倉公者」から「此歳中亦除肉刑法」までであって,そう長くもない。その前半は詔問と応対の文章を資料とし,後半は孝文本紀と共通の材料に拠っていると思われる。そして付録されている詔問と応対の文章が長いので,伝記の文章が長いと錯覚されるだけである。
で,本文と資料の間に問題が有る。本文には陽慶は「無子」というのに,資料には男子の「殷」が登場する。そこで「無子」は衍文であるとか,あるいは医学を伝える前に死亡したとか説かれる。そうではあるまい。司馬遷は文章を分かり易くするために,資料を脚色した可能性が有る。陽慶は貴重な医書を伝えていたが,七十歳にもなって,伝えるべき子がいなかったから,お気に入りの弟子に授けた。後の資料を見なければ,すっきりとした話ではないか。
事実は異なる。子はいたし,医を業とする同胞もいたらしい。
そこで,淳于意は何故に訴えられたのか?
本文の前の部分の最後に,「然左右行游諸侯,不以家爲家,或不爲人治病,病家多怨之者」とある。ところが「然左右行游諸侯,不以家爲家」は,資料では斉の文王が病んで,召されそうになったときに,治せないとふんで避けた際の文中に有る。「不爲人治病」にいたっては,貧しいから病人を治療して謝礼を得たいからという,お召しを避ける理由として述べられている句の裏返しである。従って「不爲人治病,病家多怨之者」は,司馬遷による作文であり,これが淳于意が訴えられたのは,治療を断って,病家に恨まれたからだと理解される理由となった。
しかし,治療を断ったからといって,長安に送られて,肉刑に処せられるだろうか。当時の刑法の状況が分からないのだが,やっぱり違和感は有る。
実は家伝の秘方を承けたのを,(相当な貴重品の)窃盗の如くに考えられたのではないか。高后八年(180bc)に学び初めて,秘方を承けて,三年でほぼ学び得て,また師匠の陽慶が死亡したので学び終えた。陽慶の死後の整理の過程で,秘方を承けていたことが陽慶の一族のものにばれて,文帝の四年(176bc)に上書して訴えられた。辻褄は合うように思う。
残念ながら,倉公伝の本文にある「文帝四年中,人上書言意」の四年というのは誤りらしい。孝文本紀では,文帝十三年の五月ということになっている。どちらが信頼できるかといえば,それはやっぱり孝文本紀だろう。だからやっぱり,何が何だか分からない。
倉公伝の本文だけを読んでいれば比較的に平和なんですよ。だから,古い書物を読むときは油断も隙もならない,というお話。

馬肝を食らう

むかし,馬肉を食べるときは,すぐ酒を飲まないと病気になる,と聞いたことがある。まあ,私は桜鍋にしろ馬刺しにしろ,酒無しなんてことはありえないから大丈夫。で,馬のレバ刺しは普通の馬刺しよりもはるかに美味いらしい。そこで,馬肝を食べなければ,馬を食べたことにならない,という言い方もあるらしい。残念ながら確かに食べたという記憶が無い。
で,最近になって『史記』扁鵲倉公列伝を読んでいたら,淳于司馬の診籍に,馬肝をたらふく食って,どうもこの人は下戸だったらしく,酒が出たのをみて,避けて,駆けて帰って,泄して,重い病気になったとある。ひょっとするとこれが,「馬を食ったら,酒を飲め」のもとではあるまいか。もっとも,そうだったら読み間違いで,淳于意は「飽食してすぐ疾走」したのが原因だと言っている。まあ,俗習の大部分はこうした誤解が出発点ですね。
と思ったけれど,でも気になってさらに調べたら,『史記』秦本紀の穆公十四年に次のような記事がありました。
かつて穆公は良馬を失ったが,これは岐下の野人が捕らえて食ったのであって,その人数は三百余人であった。役人が捕えて罰しようとすると,穆公は,「君子は家畜のために,人を害してはならない。わしは,良馬の肉を食って酒を飲まないと人を傷つけると聞いている」と言って,みなに酒を賜い罪を赦した。三百人の者は,秦が晋を撃つと聞いて,みな従軍を願い,穆公が危険になったのを見ると,またみな鋒をおしならべ死を争って,馬を食って赦された徳に報いたのである。
勿論,秦の穆公のほうが,漢の淳于意よりずっとむかしの人です。やっぱり,なにがなんだかわからない。
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