靈蘭之室 茶餘酒後

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楊上善生平考据新証

『太素』の新新校正の再版を,北京の銭超塵教授に送ったところ,お礼のメールが有って,その中で,最近のおもしろい論文として,『楊上善生平考据新証』を紹介されました。
実はその論文は,荒川緑氏が北里の書庫から見つけ出して,コピーを送ってくれたので,すでに読んでいます。でも,内容が内容なんでね,半信半疑でした。
簡単に言うと,西安の阿房宮の近くから出た墓誌銘の「楊上」というのが,つまり楊上善だという。諱が上,字が善だそうです。そんなバカなと思ったけれど,唐代には結構同じような例があったらしい。
楊上善は,隋の皇室と遠い遠いながらも同族らしく,だから唐の朝廷で出世するのは難しそうで,だから少年のころから道観に隠れて,学問をしていた。仏教や医学にも造詣が深い可能性があって,その点でも従来の資料と一致する。七十翁にもなってから,召し出されて皇子さまの一人に仕えた。その皇子さまというのは章懷太子・李賢のことらしい。これが「太子文学」ですね。これも墓誌にそれに相当しそうな記事がある。そのほかに墓誌では弘文館学士になり左威衛長史にもなっている。ここにおもしろい資料があって,『六道論』を撰した左衛長史兼弘文館学士の陽尚善というのがいて,『唐志』には楊上善の『六趣道』というのが著録されている。六道と六趣は同じこと。しかも仕えたという皇子さま李賢は,左武衛大将軍を兼ねていたことがあるらしい。左威衛、左衛は左武衛の誤りじゃないか。七十すぎの爺さんを武官に任用したのは,側近に地位を与える便法だったんじゃないか,というわけ。この陽尚善と墓誌の楊上と吾等が楊上善は,同一人物じゃないかといってます。
最後は,則天武后との問題で李賢は難に陥って,だからその側近,といっても学問的な立場しかなかったんでしょうが,再び宮廷を去って,九十三歳で世を逝った。
ね,おもしろすぎるでしょ。だから眉に唾だったんだけど,銭教授がわざわざ紹介してくれるところをみると,中国の学者連の間では,それなりに評価されているみたいなんです。だから紹介してみました。『中医文献雑誌』の2008年第5期に載っています。筆者は,長春の吉林大学古籍研究所・張固也さんと張世磊さん。

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神麹斎
大唐故太子洗马杨府君及夫人宗氏墓志铭并序
君讳上,字善。其先弘农华阴人,后代从官,遂家于燕州之辽西县,故今为县人也。若夫洪源析胤,泛稷泽之波澜;曾构分华,肇歧山之峻嶷。赤泉疏祉,即西汉之羽仪;白瓌贻贶,实东京之绂冕。并以详史牒,可略言焉。祖明,后魏沧州刺史;祖相,北齐朔州刺史。并褰帷布政,人知礼义之方;案部班条,俗有忠贞之节。父晖,隋并州大都督。郊通虏鄣,地接宝符,细侯竹马之乡,唐帝遗风之国,戎商混杂,必伫高才。以公剖符,绰有余裕,雨洒传车之米,仁生别扇之前。惟公景宿摛灵,贤云集贶,凤毛驰誉,早映于髫辰;羊车表德,先奇乎廿岁。志尚弘远,心识贞明,慕巢、许之为人,烟霞缀想,企尚、禽之为事,岁月缠怀。年十有一,虚襟远岫,玩王孙之芳草,对隐士之长松。于是博综奇文,多该异说,紫台丹箧之记,三清八会之书,莫不得自天然,非由学至。又复留情彼岸,翘首净居,耽玩众经,不离朝暮,天亲天著之旨,睹奥义若冰销;龙宫鹿野之文,辩妙理如河泻。俄而翘弓远鹜,贲帛遐征,丘壑不足自令,松桂由其褫色。遂乃天兹林躅,赴波金门。爰降丝纶,式旌嘉秩,解褐除弘文馆学士。词庭振藻,缛潘锦以飞华;名苑雕章,绚张池而动色。寮菜钦瞩,是曰得人。又除沛王文学,绿车动轫,朱邸开扉,必伫高明,用充良选,以公而处,佥议攸归。累迁左威卫长史、太子文学及洗马等,赞务兵钤,影缨银牓膀。摇山之下,听风乐之余音;过水之前,奉体物之洪作。既而岁侵蒲柳,景迫崦嵫,言访田园,或符知止。不谓三芝宜术,龟鹤之岁无期;乾月奄终,石火之悲俄及。以永隆二年八月十三日,终于里第,春秋九十有三。惟君仁义忠信,是曰平生之资;温良恭俭,实作立身之德。学包四彻,识综九流,题目冠于子将,风景凌于叔夜。仙鹤未托,门蚁延灾,曲池忽平,大暮难曙。(以下述夫人及铭文不录)
2010/07/03

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