靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

脈診の歴史に関わる妄想

『季刊内経』に載せた「上下か左右か-人迎寸口診に関わる妄想-」は,新年に話したときよりは,かなり整理してありますが,それでも分かりにくかろうと思うので,さらに少し整理しておきます。といっても,それでも分かりにくいでしょうが。なにせ妄想ですから。

『素問』の三部九候診は,全身に遍く存在する脈動を診て,その付近の情況を知ろうとした脈診を,九候にまで整理したものだと考えます。頭部に三候,胸部に三候,腹部に三候です。『素問』三部九候論の現状では,胸部と腹部については,手足の脈を診るようにいっています。しかし,その脈所をいう文章はもとは篇の最後に在りました。おそらくは,後からの付け足しです。新校正を読み,『太素』を検討すれば,それはわかります。手足に持ってきたのは一つの偉大な工夫ではあったかも知れません。もう一歩踏み出せば,原穴診です。
もう一つの脈診の歴史の流れに,標本脈診を想定します。『霊枢』衛気篇では,手足の端近くの起点としての本と,上部の到達点としての標を比べて,病がどんな状況であるかを知ろうとしています。それがどこに起こっているかは,どの標本で異常が起こっているかから判断できます。しかし,『霊枢』動輸篇に,休まず拍っている脈は手太陰,足少陰,足陽明とあります。拍ったり拍たなかったりでは,やっぱり脈診部位としては不十分でしょう。そこで,足少陰の脈動はさておき(附陽脈診になる),標の代表に足陽明,本の代表に手太陰を採用すれば,要するに人迎寸口診になります。ただ,そうすると病状の判断はできても,病所の判定はできません。そこで,人迎と寸口の脈を比較して,その陰陽性格のレベルから三陰三陽のいずれに病が在るかを知ろうとしました。禁服篇,終始篇,経脈篇などです。でも,この試みは失敗したのではないかと疑っています。
人迎寸口診は,実は脈状診であって,比較によって病の位置を知る方法ではなかった。『霊枢』五色篇にあるのが原形ではないか。人迎は当然ながら頸部に在って,陽的な影響を診,寸口は手首の関節部に在って,陰的な状況を診る。別に比較などはしません。さらに,陽的な,言い換えれば外からの問題は,外から見れば分かる(分かるかどうかは技倆の問題ですが)として廃れれば,外からではどうにも分からない内部の問題を知るための寸口脈だけが残る。そこで,脈診といえば,手首の関節部を思い浮かべるという情況に,意外とはやくから到達していたのではないか。
たぶん,それとは別に左右の腕関節部の脈に,性格の違いを診ていた人たちもいた。その可能性を僅かながら見いだし得るのが,『素問』病能論であり,『史記』倉公伝に付された斉の郎中令循のカルテではないかというわけです。
寸口だけを診て,病がどこに在るかを知るためには,『難経』では橈骨茎状突起を横隔膜に見立てて,全身を配当する試みもなされています。『素問』の(もとの)三部九候診を移植です。少し違うのは,頭部は放棄して,胸部と腹部に三つずつというのを,寸関尺の三部に二つずつに改変したことです。しかし『難経』でも,最初のほうでは,関を境として陰陽に分ける試みがなされています。(二部五候診というべきかも知れない。)寸関尺に,左右の陰陽性格も加味することによって,めでたく寸関尺に五蔵六府を配当した現行の六部定位診への道筋を示したわけです。
その上で,左右に配当しおえた蔵の性格を総括すれば,左右の脈で分かることがそれぞれ異なるといえることになります。上海の凌女史の「三焦の二つ系統」は,正しくそうしたものの一つだと考えます。そして,それは左右の腕関節部の脈には,性格の違いが有り,したがって頸部と手首という上下の関係を,左右の手首に置き換えることを容認する根拠となり得る,と期待するわけです。

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